「青空を待ってる」から読み解く「影遊び」
始めに
いよいよLiella! 4th LoveLive! Tour ~brand new Sparkle~名古屋公演前日です!CatChu!楽曲についての自分なりの考察、感想を綴っていく第二弾です。ギリギリ間に合いました!それでは早速始めていきましょう。
影は感情の写し鏡
まず注目して頂きたいのがサビの部分です。カッコいいギターサウンドと、苦悩と葛藤の狭間で、行き場所を求めてさまよう魂の叫びのような歌詞が印象的です。
がむしゃらに走っていたら、いつの間にか日は落ちていた。
行くべき場所も見失ってしまった。目の前には道は見えず、行き止まり。
夜の空気に包まれて、寂寞と焦燥が胸を支配する。
歌われているのは胸が詰まるような不安や迷い、焦り、メランコリックな感傷。行き詰まり、歩みを止め、誰かの手が差し伸べられるのを、ただただ待っているようにも思えてしまうかもしれません。ここだけを切り取れば、文字だけを追いかければ、「ネガティブな歌詞だなー」と思うかもしれません。
ですが、彼女たちは胸の中の「うまく言えない感傷」をどこか心地よく思っているような側面があります。
この斜に構えた感じ、やさぐれ感がたまらなく好きです。
心に影を抱えた者同士が集まり、ぽつりぽつりと言葉を交わす。
その甘美でほの暗い雫は、水面に広がる波紋の様に広がっては消えていく。
その波紋と波紋が交わるとき、影と影が交差するとき、一閃の瞬きが生まれるのです。
抱えた影は、ただ重苦しいものではなく、胸の中いっぱいに満ちて溢れそうな感情の写し鏡です。その感情と感情が交わりあうとき、一陣の新しい風が、新しい予感が生まれるのではないでしょうか。
ただ憂いているだけではないのです。決して嘆いているわけではないのです。彼女たちは互いに影を見つめ、新しい何かを生み出そうとしているのではないでしょうか。
ラブライブ!スーパースター!!楽曲の中で、「影が新しい何かを生み出す」という構図は、実は初めてでは無いのです。その歌は、ほの暗い雨空の下で青空を待っていた少女が歌っていました。
青空を待っている
色んな説が出てくると思うのですが、「キミ」というのは歌のことを指してると私は捉えています。実は「キミ=歌とちぃちゃんのダブルミーニング説」を密かに推してるのですが、それはまたの機会に語りたいと思います。
ややこしくなるので、今回は「キミ=歌」という解釈で進めていこうと思います。この解釈の元、引用の歌詞を意訳すると以下のようになります。
サビは敢えていじらずにそのまま引っ張ってきました。
サビで「大嫌いだよ」って言ってるあたり、歌詞だけ見るとめちゃくちゃネガティブですよね。このネガティブさも影遊びと似ています。
どちらの曲も、歌詞こそネガティブに感じる側面があるものの、曲調と歌声はそれとは真逆な印象を与えてくれます。「影遊び」はカッコよさ、「青空を待ってる」は伸びやかなイメージを感じました。このギャップも大好きです。
話を「青空を待ってる」に戻します。
一番のサビはネガティブという話をしましたが、ラスサビは一転、「大好き」というポジティブな感情に変わります。
幼少期、人前で歌うことが出来なかった。
音楽科の受験でも、歌うことが出来なかった。
だから歌を嫌いになろうとしました。
それでも、どんなに誤魔化そうとしたって、
昔からずっと変わらない想いがあるのです。
2つの曲の共通点
駆け足でしたが、「キミ=歌」と解釈して、「青空を待ってる」についての大まかな流れを見てきました。さらにギュッと短くまとめてみるとこんな感じです。
歌に対する葛藤、苦悩をすべて吐き出して「大嫌い」と歌うかのん。
自分の影を見つめ、感情を吐露することで、本当は「大好き」だという気づきを得る。
ネガティブな感情でも、歌にしてしまえば光が見えてくるのです。
このことはアニメ中のセリフでも語られています。
これって、まさに「影遊び」だとは思いませんか?
青空を待ってるの1番では、自身の抱えた影を思いっきりぶつけています。
「大嫌いだよ」「もう嫌いだよ」と、歌に乗せて心から零れてしまいそうな悲痛な感情を解き放っています。その想いを空へと放ったことで、かのんは気づきを得たのではないでしょうか。
苦悩を、焦燥を、ありったけの感情を、影を載せた歌だからこそ、自身の「本当の気持ち」に気づけたのではないでしょうか。
欠けた月であるが故の美しさ
苦悩する芸術家の作品が、儚く散った恋の歌が、過去の自分から決別しようとするかのんの歌が心を打つように、影があるからこその美しい煌めきがあるのではないでしょうか。不完全だからこそ、心に響くものがあるのではないでしょうか。
かのんのソロ曲を例にあげて話を進めてきましたが、他の2人にも当てはまるのではないかと思います。
すみれは主役に選ばれず端役ばかりに抜擢されていた経験から、自信を無くしていました。
メイは友達グループ内でのいざこざに辟易して、そのグループから一人抜け出すことを選びました。
そんな暗い迷い道のなか、手を引かれた先で一筋の光を見つけました。
ずっと影の世界の中であれば、「影遊び」なんて想像だにしなかったでしょう。
影を抱え、それを乗り越えてきた。
そんな経験をもつ三人だからこその共振する感覚、共鳴する渇望なのではないでしょうか。
物憂げに眺める静けさの奥に、ふつふつと沸き上がる情熱や焦燥が秘められてるように思います。
満月にはすこし足りない。未熟で、つたなくて、不器用で。
ミロのヴィーナスのような、欠けてるからこその美しさを感じます。
いや、欠けているからではなくて、それが故にじたばたと足掻こうとしているその渇望が、静けさの中にゆらゆらと燃えて交わる魂が、どうしようもなく美しくて、愛おしく感じるのです。
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