伊達さゆりさんのMCを元に「影遊び」を再解釈してみる Liella 4th Live 愛知公演<CatChu! edition>
さゆりんのMCについて
~かのんちゃん視点での解釈・それぞれの解釈~
Liella!4th LoveLive! Tourの全公演が終了しましたね。
9人から11人になり、新しいスタートなんだと強く感じさせるような素敵なライブでした!語りたいことは沢山あるのですが、今回はCatchu!の「影遊び」にフォーカスして話をしていきます。
他は配信での参加でしたが、愛知公演両日は現地で参加しました。来てよかった。会えてよかった。CatChu!って、Liella!ってやべーです、本当に最高でした!
さて、ライブ全体について話してると長くなりそうなので、前置きはここらへんで切り上げます。早速、本題の愛知公演の影遊びについての話をしようかと思います。伊達さゆりさんのMCを聞いて、そして何よりライブのパフォーマンスを肌で感じたことで、影遊びという曲についての解像度が増してきたんです。だからこそ、自分の中の解釈を改めてまとめたいなって思って、この記事を書いています。
早速ですが、MCでのさゆりんの言葉を振り返っていきましょう。
ここで言葉に詰まって泣き出しそうになったさゆりんへ、ペイちゃんとやぶちゃんが駆け寄ってきたところ、じーんと来ました。抱きしめられて安心したのか、いつものテンションに戻るさゆりん。
「見たことある、見たことある、(MCが)こうやって長くなるんです。失礼しました(^-^;」って長くならないようにまとめに入っていたんですけど、正直今回長くなるの大歓迎でした。さゆりんの曲の解釈、曲を歌う中で感じた想い、曲に込めた想い、ずっと聞いていたかったです。
MCの前半にはこうも話していたさゆりん。その話題、めちゃくちゃ長くなってもいいので聞いてみたかったです。さゆりんだけじゃなく、ペイちゃん、やぶちゃんの解釈も聞いてみたかったです。
現地でそのMCを聞いた後、アーカイブを見直したんですけど、「解釈が全然違う」っていうのが凄く納得できました。
さゆりん
悲痛な苦しみの中絞り出した、ギリギリの感情
やぶちゃん
覚悟はすでに決まっている。それとは裏腹に身動きが取れないことへの葛藤
ペイちゃん
堕ちるのならどこまでも藻掻いてやれ、狂ってやれ、という吹っ切れた感じ
あくまで私見なのですが、このような印象を感じました。
私はライブ前にも歌詞の解釈の記事を投稿したのですが、どちらかというとやぶちゃんの解釈に近いでしょうか。(やぶちゃんの解釈、というと語弊がありそうですね……あくまでパフォーマンスから「やぶちゃんはこう思ってるんじゃないかな」って私が妄想したものです)
このままじゃいけない、心に決めた方角へと走り出していきたい。それなのに前へ進みたいけど進めないもどかしさ、苦しさ。その重く暗い影の中で、影と対峙することで、キラリと輝く光を見つけられるのではないか。前進する糸口を見つけられるのではないか。
私はそんな風に解釈していました。
そして、さゆりんのMCでもあったように、かのんちゃんのソロ曲と対比しながら曲を解釈していました。
そこで私の出した答えは「かのんちゃんが成長した後」
さゆりんが出した答えは「かのんちゃんが成長したっていうよりかは、ちょっと前」
かのんちゃん視点というところまで同じなのに解釈が違うんです。
会場でさゆりんのMCを聞いて、「あ、全然違う、そういう見方も出来るのか」ってとても面白く感じました。そして思いました。「さゆりんのMCをヒントにもう一回解釈してみたい」と。
それでは本題に入っていこうと思います。
ついでにライブ前に投降した記事のリンクを置いておきます。
もしよければ本題を読む前、もしくは読んだ後に、こちらも見てってくれると嬉しいです。
この曲の情景について
この曲、登場人物は「君」と「僕」の2人ないしは3人かと思ってたんですけど、一人だけという線も全然あるなと感じたんです。
「全部君次第だよ」のところで、ペイちゃんがキツネを模した手に話しかけていたのを見て、ハッと気づきました。「君」というのは影の事で、「僕」と僕の影が対話をしている。そんな情景が浮かびました。「君」「僕」の定義だけでめちゃめちゃ幅があって色んな解釈が出来そうです。改めてこの曲の内包してる可能性の広さに驚きました。
このAメロの言葉のチョイスがめちゃめちゃ詩的で好きです。
ブランコは鎖で繋がれていて、鎖の可動範囲の中で行ったり来たりを繰り返します。これって雁字搦めになり、右往左往していることのメタファーなんじゃないかなって思います。
ニジガクの栞子ちゃんソロ曲、「翠いカナリア」での「繰り返す振り子のように 同じ場所を何度迷い 彷徨ったの?」というフレーズとほぼ同義なんじゃないかな、と感じます。
軋む、と歌ってるところも、苦しいながらも何とか藻掻こうとしている感じがひしひし伝わります。
「懐かしいような火薬の匂い」これは花火のことを指しているように思います。ひっそりと静まり返った公園には、花火の匂いがほのかに香っている。
きっと小さい子供たちが花火をして遊んでいたのでしょうか。
その姿はもう見えません。消えそうな外灯の光に照らされる私が、影をただ見つめているだけ。
楽しそうに遊んでいただろう子供たちの姿と私の姿が、対比の構造になっています。そしてさらに踏み込んでいえば、光と影の対比でもあります。
花火というのは色とりどりの煌めく光を楽しむもの。
言うなれば「光遊び」なんです。
「子供」と「子供心を忘れた私」
「光遊び」と「影遊び」
対になる存在を仄めかすことで、より影が深く濃いものになっていくように思えます。かのんちゃんを軸に考えると、「子供」=「自由に歌えた昔の自分」と「今の歌えなくなった自分」との対比になります。
さらには「火薬の匂い」ってかのんちゃんの中でくすぶっている炎を彷彿します。
「青空を待ってる」の1番では「大嫌いだよ」と歌っていましたが、影遊びのかのんちゃんは、「本当は歌が好きなんだ」と気づきを得た後のように思います。胸に熱を宿しているものの、まだくすぶったまま。点火して空へ!!という、「free flight」のとこまではまだ至ってないような段階でしょうか。
それでは、この対比をもとにもう少し掘り下げてみましょう。
まだ帰れない
「砂にバツを描いた」ここも抽象的で色んな解釈が出来そうなフレーズですよね。私は「退路は絶たれている」ということを示してるのではないかと感じました。ここもライブ会場で新しい気づきがあったところです。
曲の舞台は誰もいなくなった公園。
ですが、ライブにてモニターに映されていたのは鬱蒼とした森。
これって「まだ帰れない」じゃなくて「もう帰れない」じゃないかな?
ライブ中、そんな考えがふと頭の中に浮かびました。
それを肉付けする説明を考えている余裕なんてありませんでした。だってライブ中なので。三人のパフォーマンスに心奪われて、そんな深く考える余裕なんてありません。
ただ、直感的にそう思ったんです。
そのあと、アーカイブを見ながらいろいろ考えたり頭の中を整理できました。まさに、「チッチッチ…意味なんて後からわかるもんだぜ」という感じでしょうか。もう少し深堀りしていきましょう。
「日付以外は何も変わんないや」というフレーズから、時が進むことへの焦りが感じられます。また、日付ではないものも変わってほしい、との想いがくみ取れますね。
この日付と対比になっているのは「自分自身」だと私は思いました。
時は昔へ戻ってくれません。
自由に、空を飛ぶように歌えていた過去への郷愁は胸にしまい、未来へと進んでいくことを決意したのです。自分の力で、もう一度歌えるようになってやるのだと。
それなのに、決意とは裏腹に、身体は言うことを聞いてくれません。
見えない鎖に縛られているように、身動きが取れないのです。
神経、呼吸、筋肉、意識、なにもかもが緊張してこわばり、音になってくれないのです。
未来へと進もうと一歩を踏み出したかのんちゃん。
足を踏み入れたのは、薄暗くて不気味なほどに寂然とした、迷いの森だったんです。
足がすくみ、心臓が嫌なリズムを刻みます。
それなのに、まるで何かに取り憑かれたかのように、走り出していこうという衝動が身体を支配します。
その衝動は後戻りすることを許してはくれません。
もう、進むしかない。まだだ、何かを掴むまでは、まだ退けない。
外灯のオレンジの明かりは、夜の闇に溶けそうなほど朧げで、いまにも消えてしまいそう。
胸にともした情熱の炎は煌々と燃えていたはずなのに、震える声に、すくんだ足に、掻き消されそうで頼りなく揺れています。
その灯りが映した影をじっと見つめ、ぽつり、ぽつりと言葉を交わすのです。
影遊び
「影遊び」とは自身の影、すなわち弱気な心、焦燥感、やるせなさ、胸の痛み……心の中でもやもやと渦巻く感情と対峙することなのだと、私は解釈しています。
今は小さい頃のようには歌えません。
純粋でキラキラとした光は、ずっと遠い所でぼんやりとしています。
そんなまばゆい感情を失ったまま、オトナになんてなりたくない。
胸を焦がす焦燥と、重苦しくて音にならない感情に挟まれて身動きが取れなくなってしまいました。
今は歌えないかもしれない。
でも、渋谷かのんという少女は歌の力で前を向いてきたんです。
苦しい時、悲しい時、そばにあるのは歌でした。
まだ何も見えない夜空かもしれない。
それでも。
苦しい感情を歌に乗せることで、何かを掴めるのかもしれない。
青空が見えるのかもしれない。遠く遠く、飛んでいけるのかもしれない。
たとえそれが強がりであっても、それでまた前進することができるのです。
そうやって自身の抱える葛藤や苦しみと対峙して、藻掻く過程こそが、「影遊び」なのではないでしょうか。
最後に
この曲を会場で生でパフォーマンスを見て、歌を聴いて、さゆりんのMCに感じ入って、ライブ前よりもっと解釈が深まりました。そして何より、もっともっと、好きになりました。
さゆりん、ペイちゃん、やぶちゃんの三人が織りなす世界はカッコよくて、泥臭くて、その中にキラキラと輝くものがあって。本当にこのライブに来てよかったと思いました!ありがとう!本当にありがとう!
最後に、ライブ前の私の曲の解釈の記事を置いておきます。
この時の考え方も、自画自賛になってしまいますが結構気に入っています。
今回の解釈は、この時の曲の捉え方がベースとなっています。
今回の記事でも「青空を待ってる」について少し触れましたが、こちらの記事ではもっと踏み込んで話をしています。読んでいってくれると嬉しいです。
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