全然事実の方が奇だしね
「"事実は小説より奇なり"という慣用句を言いだした人は友達がいない。"小説は奇なものである"という前提を勝手に持っているからだ。」と先週のRadiotalkで可児正が言っていた。こんなに痛快な言い方は今までにない。確かに勝手にそう思ってるのキモすぎる。そんなこと言い出すやつは友達がいないか、センスの死んだやつと仲良くしていてそいつらのことを友達と思っているだけのどちらかに決まっている。
この話の流れで可児正は続けて、「動画サイトにあるベースの弾いてみた動画でスラップなどの派手なプレイを礼賛している人」にも触れていた。上述の事実は小説より奇なりから一気に身近な話題に落とし込む引き出しの多さに舌を巻いた。そしてもちろんこれも友達がいない。弾いてみた動画で礼賛されているようなスタイルのスラップや、スラップに限らないベースプレイは基本下品だ。派手なものを当然、派手なものを良いとしている。もちろん派手で良いものはあるし、そもそも地味とされているベースで派手なことをすることはむしろ自分のプレイスタイルや考え方に近い、そしてその中にいいものがあるとは多分ベースを弾かない人よりは認識している側だけど、その玉石混淆はあまりに石ころの割合が高すぎる。もちろん石ころの中から玉を見つけたときの感動もあるし、キンタマみたいな行き過ぎた下品で最高なものもある。
この話を受けて自分が連想したのはパーパーほしのディスコの歌だ。ディスコが歌で売れ始めてからもう2年ぐらいになると思う。今では売れてしまったので大人たちも金をかけてくれるからボイトレもケアもできてそれなりに上手にはなっているが、そもそもディスコの歌は高音が出るだけ、ただそれだけだった。それが「高音が出ることが上手な歌い手」と思っている短絡的な音楽の聴き方をしている連中に刺さった。そういう人たちは大概"声が大きい"ので、一気に歌うま芸人として世に出ることとなった。以降彼らのコントは面白さを欠き、相方のあいなぷぅやスーパー3助の影の面白さが際立つこととなった。それはありがとう。声が高い=上手な歌い手、はいはいそうですか。ちょっと違うけどフィロソフィーのダンスの歌が上手いとされてる人、もちろんそうだけど、そうじゃない人の方が歌が上手かったと思う。これは好みかもしれないけど。
歌ってみたとかで思い出すのはもちろんニコニコ動画ですが、俺はニコニコ世代だけど全然ニコニコのこと好きじゃないのでその辺の話も今度します。
みんな本質的であっておくれ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~