昆虫差別行動学

こんにちは。昆虫差別行動学者のマロー・マッカ―二です。
最初に言っておきます。私は昆虫を差別しています。昆虫差別行動学、私は昆虫を差別している者、つまり自分自身の行動を研究をして飯を食べています。私の顔写真と身長体重と「こいつはわけがわからない」という研究結果を発表して年に5000万ドル貰っています。というのも私は昆虫を見て学びを得たことが一度も無いのです。たったの一度もです。皆さんは昆虫を見て何か得るものがあるはずです。いえ、何かそこに存在するものであれば何かしら学びは得られるはずです。現に私は昆虫以外のモノには全てにおいて何か得たり思うことがあります。風景の中の昆虫を思い浮かべて下さい。今まさに羽化しようとしている蝶、雨上がり後の晴れ間に陽の光を浴びながら水滴のブローチを身体に付け歩くてんとう虫、大群で移動するイナゴ、自分より何倍も重いものを運ぶ蟻、言葉だけでも何か得るものはあるはずです。しかし私はありません。それらを見ても何も得ないのです。昆虫を差別しているからです。私は本当に昆虫になんの感情も湧きません。細胞レベルで湧くことができません。嫌いという感情もありません。目に虫が入っても私は瞼を0.1ミリも閉じないです。そのまま開けています。反射的にも閉じないです。細胞レベルで昆虫を差別しているために体が興味を持たないのです。例を上げましょう。’’シュウマイを握りしめているのだが、シュウマイの感触がキモすぎるため判断が一歩遅れてしまって信号を渡れないおじいさん’’。かなり何の学びも得ません。かなりだと思います。だけど「かわいそう」「こうはなりたくない」「こんなおじいさんでも窓に座って星空を眺める日はあるのだろうか」など少量の学びや感情は得る事はできます。しかし私にとって昆虫はこれすら出ないのです。真っ白の部屋に連れてこられ、両目に懐中電灯を直で当てられたかのようです。両側からヤンキーにハリセンで叩かれながら遠くの方で好きな子が校舎裏で男とキスしてるのを目撃したかのようです。なんの感情も湧きません。昆虫を顕微鏡で見たらどうでしょうか? (※↓以下虫の画像などが出てきます。注意して下さい。私は昆虫を見ても何も得ない者なのでその気持ちはわかりませんが。)



山田邦子さんの右手の腕毛に居たナニカ

これを見て皆さんはどう思いますか?普段なんとなくでしか目で捉えてないもの小さすぎて見れないものをしっかりと目視出来たら人はみな何か学びを得るはずです。私はありません。「毛みたいなものが結構生えてるんだな」とかもありません。「こういう感じなんだ」とかふんわりした学びもありません。「気持ちが悪い!」とかもありません。「細胞ってカンジ。」とかも無い。「ぶつかりそう」とかもありません。「ぶつかりそう」なんて一番手前の感想かもしれません。どんなにしょうがない感想でも感想が言えてる時点で学びを得ています。心が何かを感じたらそれだけで何かを得ているのです。人生に無駄な瞬間なんてありません。私はあります。昆虫を見ている時です。何も得れません。何も感じません。色がそこにあるだけです。マンションの下の階の人が上の階のウチに「そちらの部屋とウチの部屋を交換してくれませんか?」って聞いてきて、親父がOKしたかのようです。「うんうんこ下痢ビュッビュッ大学」の受験に落ちた時の合格発表の板を見てる時のようです。頭が真っ白です。次にこれを見てください。

山田邦子さんがM-1の審査をした時に山田さんの席の下にだけ痰壺が用意されてあって放送終了時には壺から痰が溢れていたほどだったのだが、恐らくそれを舐めて育ったカマキリの卵

どうでしょうか?人によっては哀愁すら感じたりするのかもしれません。少し枯れた笹にしっかりと根付いた卵は命の力強さと簡単に壊れそうな見た目の儚さが共存して胸が苦しくなる者もいるのではないでしょうか?私はありません。何も。何も得れません。笹は沢山得れます。笹からはビンビンと学びを得れます。素晴らしい。ちょっとすいません、泣いてしまいました。これすごい。この笹すごいです。学びがすごいです。‘‘クロノトリガー‘‘。‘‘キムタクが10秒に一回『これ面白いですよね。ボクもやってます。』としか言わない副音声が付いた新編集版のクロノトリガー‘‘ですよこの笹。卵からは学びは無いです。何一つ。こんな差別をなくそうという時代に私は惜しげも無く昆虫を差別しているからです。茎に少し広がって付いてる部分とかにも無いです。この物体の時系列前後に何があったのかとかも興味がありません。興味が無いと言うかその考えにすら至りません。外へ出て帰ってきて膝にこれが付いていても私は洗いません。この卵が粛清‼︎ロリ神レクイエム⭐︎を突然踊り出しても何も思いません。好きなVtuberの中の人がかまきりの卵だったらどうですか?「すごい」とか「まさか」と思いませんか?私は何も思わないです。「え!?」も思わない。ただブラウザを閉じるだけ。登録解除もしない。次の日から認識しなくなるだけ。


「THE Wに出てくる蝶と俺は同じ種族だ」という打ち震える力強い感情が芽生え始めている蝶

これが一番無いです。何も得れません。「綺麗」とか「こういう色のがいるんだ」とかも無いです。「昆虫だ」も無いです。花は学びを得れます。美しさで泣けてきます。下に影のように控えている小さな花のつぼみのこれから咲くであろう未来に向けた内包された力強さや、奥にぼやけている白い花の可憐さ、寂しさ、佇まい。ちょっと待ってください。ちょっとすごいですこの花。書いてたら涙出てきました。全て詰まってます。‘‘GTA5‘‘です。‘‘グランドオートセフト5‘‘ですよこの花。昆虫は無いです。皆さんは何か思うはずです。蜜を吸ってどこかへ飛んでいる。美味しかったのかな。次の花を探しに行ってるのかな。仲間と合流し、クルクルと回りながら空へ上がっていく複数の蝶。午後は嵐の予報が出ているよ、気を付けてね。嵐が過ぎ、晴れ間から覗く一筋の日の光を仲間だと勘違いしクルクルとじゃれ合いながらまた蜜を探しに冒険に出る蝶たち。おすぎが老人ホームのベランダでそれを見ながらニコっと微笑む。胸がぎゅーっとする。自分の今の生活と重ねちゃったりして。私は重ねません。何ひとつ学びを得ません。昆虫を差別しているからです。嫌いとかでもありません。何も思いません。
一度パーティーでファーブル昆虫記のファーブル氏と話をさせて貰ったことがありました。「どうしてあんな学びを得ないものにお熱(オネツ)なんでしょうか?」と聞いたところヒアリが100匹ぐらい入った綿棒の空箱を目の前で開けられました。ヒアリはファーブル氏は襲わずファーブル氏の「ビーストファイアッ!」という掛け声とともに一斉に私を狙ってきました。私は逃げませんでした。目も1ミリも閉じませんでした。喋り続けました。そこに最初からヒアリなんていなかったかのように振舞いました。そのパーティー会場にはおすぎも居ました。ピーコもいました。二人はその頃モノクロでした。二人はモノクロで生まれて、モノクロに育ち、モノクロで老いて、カラーで赤ちゃんになり、カラーの二人になり、カラーでいいともに出て今に至ります。知ってましたでしょうか?とにかくその時モノクロのおすぎとピーコは遠くから心配そうにこちらを見ていました。モノクロの古賀シュウさんも見ていました。ファーブル氏はというと「ひィ」と言って会場を逃げていきました。その日から私はファーブル氏の事を評価を下げ「ヒィ」と呼んでいます。


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