【LAL】密命の終わり
まぶたの裏で光を感じて、目を開けた。
もとの世だ。
誰に教わるでもなく、それと知る。
そこに、尾手の城があった。
ひとの姿も、ひとならざるものの気配もない。
まだ蕾をつけていなかったはずの桜が咲き始めていた。
あの密命の夜から、ひと月というところだろうか。
異郷で過ごした日数と、おなじ。
砕けた屋根瓦、蜘蛛の巣の張った戸板。かわいた褐色の血痕。
闘争のなごりを横目に、本丸を目指す。
戦うのも、身を隠すのも不要となった。走るだけだ。
それでも心臓がやたらとせわしなく拍動する。
そうして、戻ってきた。昇る日を見た場所へ。
……いるわけが、ないではないか。
茫洋たる海を臨む、天守の屋根。
なにを運ぶでもない風が吹く。
装束のはためく音が、耳を打つ。
あの方はいない。だれもいない。
あたりまえ、だ。
あちらとこちらで、時は、等しく流れていたのだ。
待っておられるはずがない。こんな所で。
……いや、何処におられようと。
もう待ってなどいない。きっと。
ゆるやかに、身体の芯が熱を手放していく。
日を浴びて輝く、果てのない海の青。
美しく、そして、途方もなく恐ろしかった。
それはまるで、ちいさなちいさな孤島にひとり、置いていかれたような。
ささやかに自嘲した。
今の今まで、夢とも現とも知れぬ地へ放り出されて、それでも生き長らえただろうに。
ここは既知の世界だ。生きる場所など、どうにでも見いだせる。
ひと月も姿なく、足跡も残さずとあらば、同胞からももはや死んだものと見なされよう。
はからずも、抜け忍だ。
……自由の身だ。
どこへでも、行ける。
けれども、と、問い直す。
あの時、ここで見た朝の陽がずっと、出口を照らす光だった。
あの方の言葉と、身構えもなく向けられる笑顔とが、しるべだった。
ここからどこへ、行けばよいのだろう。
面布を通して微温の空気を吸い込む。
自由とは、こんなものだったのか。
使いかたの皆目わからぬ玩具を渡されるのと、なにも、違わない。
眼下に広がる一面の青を、ただ見はるかす。
船が好きなのだと、あの方は仰っていた。
この日の本は海に囲まれた国だ。海運を制する者が、この国を制するのだと。
「……想像してみい。この海いっぱいに異国の船が浮かび、黒々とした蒸気をはいて砲門を並べちょるのを。
四民の高みにあぐらをかいてきたさむらいの刀なぞ、なんの役にも立たんぜよ」
まぎれもなく武士であるはずの彼は、そう、笑って言っていた。
「だれが国を治めるからぁて争う時代を、終わらせる。
ほんとうに望まれた者が、この国の上に立つ。
だれもが主になれるし、だれもが、自分のために主を選べばいい」
……選んだところで望まれはしないだろう。あの主からは。
命じられることでしか生きられなかった忍びなど。
けれども、と、もういちど呟く。
どこかへ行かなければならないのだ。
ひとでありたいと願うならば。
求めながら、失いながら、間違えながら。
かの地で出会えた仲間たちも、皆、そうしてきたのだから。
「……おまんはどうな? おぼろ。お天道様の下で、自分の目で、己の道を選んでみんか?」
顔を上げ、視界を蒼天で満たす。
おなじ空の下を、あの方も歩んでおられる。
いつか出会えることもあると、信じよう。
光に照らされるのを恐れずにいれば、いつか。
立ち上がり、ふと違和感に目を留めた。
天守の屋根を守護する、つがいの鯱。
そのひとつの口の中に、小手がおさめられていた。源氏の笹竜胆の紋入り。覚えがある。この城内で拾得したものだ。守りを固めてもらおうと、あの御方に装備させていた。
それを重石にして、挟まった、ひとひらの紙片。
折り畳まれたそれを抜き取って、広げた。
記されていたのは、黒い、奔放に踊る竜。
――に、空目した。
おもわず息を詰めたあと、それがただの、みみずののたくったような文字だと気づく。
『あづさ弓 春の夜の月待ち渡る ふし見て蝶の かげや見ゆると』
歌だ。
あの御方の字だろう。署名もないし、筆跡を見たことがあるわけでもないが、こういう字を書きそうだという想像は容易についた。
梓弓は春の枕詞。春の夜の月。
……朧月。
ほとんど崩れるように、その場に座り込んだ。
全身をめぐる血がどうしようもなく熱かった。
これは自分に宛てた手紙だ。あの方が、あれからもう一度ここに来て、拙者に伝えようとしたのだ。
いつまでも待つ、と。
外した面布を、鯱の尾にくくりつけた。
もうこんなものは必要ないから。
おもいきり息を吸い、吐いた。
きんと冷えた潮風が肺をここちよく撹拌し、白い呼気が空へと流れた。
もはや遅い、いまさら何をしに来たと、嗤われるかもしれぬ。
それでもいい。
好きに生きよと、そちらが言ったことではないか、
だから好きにさせて戴くまでだと、笑い返してやろう。
要らぬわけがないではないか。
まだ明けきらぬ世を渡る、あの不用心な竜の暗路を、守り照らす灯が。
たとえ、どれほど朧な光であっても。
密命の時は終わり、
いまはただ、みずから課した使命を携えて。