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フランスの人

私が生まれる前から家に出入りしていた父の友人が、パリのソルボンヌ大学で教授をしていました。
当時ソルボンヌで日本文学を教えていましたが、彼の専門は歌舞伎でした。
その人の紹介で、うちには三度フランスの学生がホームステイにやってきました。

初めにやって来たのはパトリスという男性でした。
私がまだ小学校に入る前のことです。
金髪のもじゃもじゃ頭で、肩まで髪の毛がありました。そして外出には必ずサングラスをしていました。
パトリスは殆ど日本語を話さなかったし、私はフランス語も英語も話せなかったので、にこにこしているパトリスとのコミュニケーションといえば、私の方からはぎこちない苦笑いのみでした。

特に母がパトリスの洗濯物を干しているのを見て、母は笑っていましたが、私はどうしても「怖い」と思わずにはいられませんでした。
それほどにパトリスの赤いパンツが私には衝撃的だったのです。
それでも少しずつ打ち解けて、彼と近所を散歩している時、ふいにパトリスが私を肩車しようとしたその瞬間の、最高潮の恐怖を今でも思い出すことができます。アスファルトが歪んで下へと遠ざかり、お腹がきゅーっとしました。パトリスの肩車は、とても高かったです。
もじゃもじゃ金髪サングラスおそるべし、とかなり長いこと思っていました。


小学生の頃、金髪で耳の高さほどのおかっぱ頭、牛乳瓶の底のような眼鏡を掛けた女性エレーヌがやって来ました。
石川啄木が好きな学者肌で、一日中シャワーばかり浴びていました。
エレーヌにもらった小さな石鹸の詰め合わせは、とてもいい匂いがして、私は長い間宝ものとして机の引き出しの奥にそれを持っており、引き出しを開けるたびに「フランスのかおり」と目を閉じてまだ見ぬパリを堪能していました。

エレーヌはウナギが嫌いで、ウナギの蒲焼きの皮を剥き、小骨をとって、母が出したウナギ丼をおそるべき執念をもって一時間以上掛けて食べていました。
エレーヌは日本語が得意だったので、わりといろいろな話をしました。

私とエレーヌは二人で夏祭りに出掛けたことがあります。私もエレーヌも、祖母があつらえた浴衣を着て。
エレーヌは「押せ押せ音頭」という盆踊りを覚え、「楽しい」と夢中になり、私が「もう帰りたい」と言うと、私に向かって「先に帰っていいです」とにこにこと宣いました。
夜道を一人で帰るのが嫌で、「少し待てばエレーヌが追いかけてきてくれるかも」と振り返って見てみると、盆踊りの輪の向こうの方で、にこにこと必死に「押せ押せ」しているエレーヌが見えました。

中学一年の時やってきたのはヴァンサン。
パトリスのようなクルクルパーマでしたが、パトリスよりももっとこぢんまりとしたパーマの男の人でした。
ヴァンサンの実家はお城を持っているようなお金持ちだったので、すぐに人に現金をプレゼントする癖があったようです。私たちの誕生日にも五千円ずつ紙に包んだ現金をくれました。
よその人から誕生日プレゼントに現金をもらったのは後にも先にもこれ一度きりなので、よく覚えています。
思春期に突入しはじめた私は、夏休みにもほぼ家におらず、ヴァンサンとの思い出は漢字の勉強が大好きだったことと現金以外に殆どありません。

その後のお話。
パトリスは、若くしてエイズを患い亡くなったと聞いています。
エレーヌはやはり学者になり、結婚をしたものの子どもに恵まれず、ベトナム人の男の子を養子にして自分たちの子として育てている、と聞きました。
もうその子もきっと立派におじさんになっていると思います。
ヴァンサンは…、きっとしあわせに暮らしているのではないかな。

ありがとうございます!