移行対象と小さな冒険者
息子が生まれる前、雑貨屋さんで、かわいい柴犬のパペットを見つけた。はじめての出産だったので、出産について膨大な下調べをし、新生児用のおむつから、母乳パッド、哺乳瓶、チャイルドシートなどなど、毎週末、山ほど買い物をしていた頃だった。柴犬のパペットは、そうした実用的な育児用品を除いて、初めて、息子が喜んでくれるように願って買ったものだった。
病院の世界を初めて離れ、家にやってきた息子。頼りなくフニャフニャした小さな体をベビーベッドに横たえると、ベッドがやたら大きく見えた。息子が喜ぶかと思い、柴犬のパペットも、うさぎのラトルも、オルゴールをかなでるメリーも置いていたけれど、新生児の視力では見えるはずがなかった。つぶらな瞳は、はれぼったいまぶたの下にあって、目の前まで顔を近づけても、目があっているのか定かではなかった。
そんな赤ん坊が、2 週間も経たぬうちに、動くおもちゃを目で追うようになり、いつの頃からか、柴犬のパペットを大事に抱えたり、笑いかけたり、チュウチュウするようになった。息子が愛着のもてるぬいぐるみに出会えたことを嬉しく思う。
イギリスの児童分析医 Winnicott は、乳幼児期の子どもが愛着を示すタオルやぬいぐるみを「移行対象」と呼び、情緒発達に好ましい影響があると論じた。井原成男の「ぬいぐるみの心理学 ー 子どもの発達と臨床心理学への招待」によれば、乳幼児は、母親のかいがいしい世話によって、「自分は、欲しいものを欲しいときに魔法のように得られる」という全能感を錯覚する。しかし、やがて母親は「幼児との一体化に失敗」し、幼児は、自分ができることを少しずつ自分でせねばならなくなる。このときのショックを乗り越えるために、移行対象は創造され、母子の分離において重要な役割を負うことになるという。
私自身、小さい頃から移行対象であるぬいぐるみがいて、今もずっと大事な存在であったから、その精神医学的な解釈を学びたくて、関連書籍を読んだ。上述の本は、結婚も出産もしていなかった大学時代に読んで、へえ、そういうものか、と受け流した説明だ。しかし、息子の乳幼児期をすぐそばで見てきた今、全能感とその崩壊のショック、という見方はまったくピンとこない。
息子は、全能感どころか、理不尽な不自由さと不快に苦しんで、泣いているように見えた。まず、生まれ落ちたそのときから、自分で肺を動かして呼吸せねばならない。私はかつて、全身麻酔の手術から目が覚めたあと、上半身に麻酔が残っていたため肺を膨らませることができず、陸上にいるのに常に溺れているような苦痛に何時間も苦しんだことがある。初めて肺を動かすのだって、そのぐらい苦しいかもしれない。また、へその緒から栄養をもらっていた頃は、空腹という不快さも知らなかったろう。小さな胃では少しずつしかミルクを飲めないから、空腹はすぐにまたやってくる。頑張って飲もうにも、吸うには力がいるし、赤ちゃんの胃はとっくりの形をしているために、容易に吐き戻してしまう。目や口や耳や鼻や皮膚から、胎児だった頃とは比べ物にならないほどの情報の洪水がやってくることも、どんな心持ちだろう。混乱するのだろうか。お腹の中と違って寒暖差にも耐えねばならない。排泄物は羊水の中に出していたのに、今度はおむつによって皮膚に張りつく。気持ち悪いし冷たくなるのに、大きな声をあげないと気づいてもらえない。自分で眠ることだって簡単ではない。眠気という不快感を取り除くには目をつぶってじっとしていたらいいーーとは知らないから大泣きしてしまう。泣けばますます目が覚めて不快になる。親も必死に対応するが、初心者で手探りだ。泣いている理由が全くわからないことも多い。ずっと抱っこできたらいいけれど、腕も疲れる。足も棒になる。申し訳ないけれど、泣きじゃくる赤ちゃんをベッドに置いて、自分も倒れ込みたくなる。とてもじゃないが、赤ちゃんが全能感を錯覚できるほど、赤ちゃんの要求を理解できないし、例え正確に理解できても思うようには解決できない。息子が感じていたのはきっと、もどかしさだ。あの不思議な光るものを触りたいのに、どうして手が届かないんだろう。こんなにお腹が減っているのに、どうしてママはわかってくれないんだろう。ママがすたすた歩くように、ぼくもあちこち探検したいな、そう思っていたような気がする。
出産前、育児書で、この月齢で寝返りをうつとか、つかまり立ちができるとか、この月齢になると歩けるとか、各段階のできることを読んでいたとき、漠然と、段々筋肉がついてできるんだろうと思っていた。しかし実際は、段々できる、なんて生易しいものではない。息子は日々、たゆまぬトレーニングを重ねていた。まるまるした体を何度もひねって、寝返りを打とうとした。下半身をひっくり返すことができず、寝返りが失敗しても、何度も挑戦した。うつ伏せになったときは、ときどき顔面をゴチンと床にぶつけながら、首をあげた姿勢をキープする時間をどんどんのばしていった。毛布のかたまりやクッションを見れば、行って、のぼろうとした。少し高さのあるものに手をついてのぼることで、少しずつ、立つような姿勢に近づいていった。垂直な壁に手をついて立ち上がれるようになると、おそらくずっと気になっていたであろう、窓の外の景色が初めて視界に広がった。そのときの息子の感動した顔が忘れられない。もっと、外を見たい。もっと自由に、好きなところに行きたい。不思議なものを、手や口で調べてみたい。そんな強い意志を感じた。
そもそも幼児が「自分ができることを少しずつ自分でせねばならなくなる」ことをショックだと考えている、とは到底思えない。少なくとも息子の場合は、自分でやりたくて仕方ないように見えた。離乳食も、スプーンで口に運ばれるより、自分の手で、自分が選んだものを掴んで口に運ぶほうがいきいきと楽しんでいた。息子が自分の裁量で、自分の楽しいことを、もくもくと熱中しているのを見ているのが好きだ。今までできなかったことができたとき、私も思わず歓声をあげるが、一番興奮しているのは息子本人だと感じる。移行対象は「ショックを乗り越えるために創造」されるのではなく、喜びをともに分かち合う相棒として、ほっと一安心する基地として、息子を守ってくれているのではないか、そう思っている。