世の中は高次元であるという認識

私からは見えていない視点がある。


0. 今回の話題に関連する本


1. 次元を下げる (低次元で物事を見る) とは

機械学習の界隈で多変数のデータを扱うとき、「見るべき変数の数を絞り込みたい」、「より重要な変数だけ抽出したい」というニーズが頻出する。このようなとき、例えば「主成分分析」という手法で、データの次元を下げることができる。以下のサイトが分かりやすい。

「一言で!もっと分かりやすく!」という考え方。

次元を下げると、処理する情報量が減らせるというメリットがある。単純に計算コストが減らせるほか、可視化できるようになる (平面上に可視化できるのは3次元まで) というのも大きい。

2. 次元を上げる (高次元で物事を見る) とは

機械学習でデータを分類する「クラスタリング」において、与えられたデータの次元内で境界を引くだけではうまく分類できない場合、「カーネルトリック」という手段を用いてデータの次元を上げるとうまくいくことがある。以下のサイトが分かりやすい。

「別の観点を持ってこい!」という考え方。

次元を上げると、今の次元では対応できないことにも対応できるというメリットがある。

3. 次元削減の功罪:モノに対して

標準化して扱える

次元削減の最大のメリット。

例えば洋服は、「身長」「バスト」「ウエスト」の3次元(以上)の情報を、「S」「M」「L」「XL」という1次元のカテゴリ変数に変換すると、もはや元の情報を考えることなく、工場での大量生産が可能になる。

また、工場の設備には「3ポジションスイッチ」という安全センサがある。「中途半端にふわっと押した状態でのみ、機械が動く」というスイッチで、作業員に危険が迫った時、「手を放す」もしくは「強く押し込む」のどちらでも、機械が停止するようになっている。
これは、「人間はパニックになると体が制御できなくなり、スイッチを取り落とすか強く握りしめるかのどちらかになる」という仮定に従って設計されていて、この仮定はほぼ100%真なので、どの工場でも標準的に搭載されている。目線センサや力センサなどを搭載する (次元を上げる) 必要はない。
「アクセルとブレーキを踏み間違えて急加速し、パニックになってアクセルから足が離せなくなり、壁に激突」という事故を防ぐにも有効と思われる。

文脈や仮定、コンテキストを忘れがちになる

こちらが、次元削減の最大のデメリット。次元削減した後の言葉だけが独り歩きし、その削減処理に必要だった仮定や、そのデータが出てきた文脈、コンテキストを忘れてしまいがちになる。

例えば、「平均を取る」というのは代表的な次元削減処理だが、平均を取ることに意味があるのは、データが正規分布に従っているという仮定が成立するときのみ。
正規分布に従っていない場合には、別の方法 (例えば中央値など) で次元を減らす必要がある。統計京都バックナンバー2011年6月号Statistical Roomが参考になる。

また、先ほどの洋服サイズでも、「S」「M」「L」というカテゴリに当てはまるのは、身長・バスト・ウエストは必ず相関するという仮定が成立する人のみ。

ほかにも、「すべての物事には裏と表があり、道具と兵器は紙一重、薬と毒は紙一重」ということが、次元削減によって忘れられることがある。

ダイナマイトは、採掘現場であれば有用であり、街中であれば害悪であるが、どちらかだけ切り取って「ダイナマイトは有用!」というと、その仮定が忘れられてしまう。

薬物は、適正使用量であれば有効であり、過剰投与であれば毒であるが、どちらかだけ切り取って「この薬物は危険!」というと、その仮定が忘れられてしまう。

4. 次元削減の功罪:ヒトに対して

「平均的な人」がいると考えがちになる

「平均」「平均からのずれ(偏差)」という概念を人に当てはめた結果、ヒトも「平均的な人」がいて、「偏差がプラスに高い人」はすべての場面で優秀だ、と考えられがちである。

が、そもそも人は個体差が大きく、平均±偏差による次元削減が不適当なことが多い。グーグルの人事部門のアナリスト、トッド・カーライルの気づきを、『平均思考は捨てなさい』から引用する。

まずカーライルは、300以上の側面 (彼はこれを「要因」と呼んだ) に関する膨大なリストを集めた。そこには標準テストの点数、ディプロマ、出身校のランキング、GPAといった従来の側面のほかに、自分以外のマネージャーたちが重要だと位置づけた独特な要因も含まれた (たとえば、ある著名な重役は、コンピュータに初めて興味を抱いた年齢は重要だと指摘した) 。そのうえでカーライルは、社員の成功に実際に関わっているのはどの要因か分析するため、テストを何回も繰り返した。結果は驚くべき内容で、疑いの余地がなかった。
SATの点数も、応募者の母校の評判も、そしてプログラミングコンテストでの受賞歴まで、将来の予測にまったく役立たなかった。学業成績は多少役に立ったが、それも学校を出てから三年間に限られた。「でも、僕やグーグルの仲間たちの多くが本当に驚いたのは、そのことじゃない。データをひととおり分析しても、グーグルでの主だった仕事に役立ちそうな単一変数が見つからなかったんだ。まったくね」とカーライルは私に語った。
要するに、グーグルで才能を発揮するためにはさまざまな方法があった。そして採用で最高の結果を残したければ、すべての方法に注目しなければならない。

トッド・ローズ『THE END OF AVERAGE (訳:小坂恵理)』 より

「平均的な人」がいないにもかかわらず、今の時代の企業に平均と偏差で人を評価する概念 (例:人事評価が相対評価になっている) が多いのは、過去の工業革命時代の名残。
「誰がどのポジションでも同じ最適な意思決定をできるようにする」「平均的な人を育てる方が成果も効率も良い」という考え方で運営されているということ。

平均主義三銃士を連れてきたよ。

平均という概念を人にも適用した、アドルフ・ケトレー。

平均からの偏差で人をランク分けした、フランシス・ゴルトン。

偏差でのランク分けを企業人事に適用した、フレデリック・テイラー。

文脈・仮定・コンテキストが分からなくなる

「次元削減した後の言葉だけが独り歩きし、その削減処理に必要だった仮定を忘れてしまいがち」というデメリットを先ほど挙げたが、ヒトについてもこれは同じようにデメリットになる。以下、いくつか例を挙げてみる。

Q. 「大学入試で数学の点数が高かった人」を、「数学ができる人」と表現してよいか?
A. 次元を削減しすぎ。
前者は、答えがある問題を、以前に習った解き方の範囲で、ある一定の時間に、周りの人と相談しないという環境で解けた、ということで、それ以上でもそれ以下でもない。
一方後者の、「この人は数学ができるか?」という問いは、そもそも文脈が欠落していて、答えが無い。
仮に「数学者に向いているか?」という意味だとすれば、答えがあるかどうかも分からない問題を、解き方があるかもわからない状態で、一生をかけて、専門家同士で議論しながら答えに近づいていく、という職業としての数学者の素養と数学の点数は、「おそらく相関が無い」と考える必要がある。

クレイトン・クリステンセンの「経験の学校」モデルも、上の考えと共通している。別途まとめ記事も作ったのでそちらを参照。

Q. 仕事で成果を出した・出せなかった人を、「有能な人」「無能な人」と表現してよいか?
A. 次元を削減しすぎ。
ある特定の組織の、ある特定の部門の、ある特定のフェーズの、ある特定の仕事の、ある特定のやり方において、この人は能力を発揮できた・できなかった、と言うならば良い。

これらの議論では、「ピントを合わせる方向の言葉か、ピントをぼかす方向の言葉か」という考えが有効と考えられる。次元を減らすときに、ピントがぼける (本来主張できないはずの意味が混ざってくる) ようであれば、その次元削減は行わない方が良い。

私の出身校の国語の先生は、以下のようなことを常々仰っていた。
「言葉は、その言葉が指す対象ではなく、その言葉を発した人の品性を表す。『馬鹿』のような過度に次元を減らした言葉を使うというのは、『私は、より高次元の情報を処理する力や、文脈・仮定・コンテキストを想像する力、つまり相手を思いやる力を、持っていない』というメッセージを周りに発信することと同義であることを、忘れないでほしい」

「信じれば夢は叶う」
それは多分 本当だ

但し 一文が抜けている
「信じて努力を続ければ夢は叶う」
――――これが 正解だ

さらに言えば
信じて 「他のどのライバルよりも1時間長く
毎日 努力を続ければ
ある程度迄の夢は、かなりの確率で

叶う―――だ

キャッチコピーというものは 短い方がいい
――でも これは あまりにも はしょり過ぎだと思う
それじゃまるで
「何もしなくても」「ただ信じていれば」
叶うみたいじゃないか
この文章を
ここまで削ったヤツに
何を思って
ここまで削ったのかと
問い質したい

羽海野チカ『三月のライオン』より

「あなたの気持ち、分かるよ」ということの罪

「傾聴」というのが最近バズワードになっているようだ。

一方でその言葉の裏にあるのは、「あなたを理解したい」という真摯な望みなのだろうか、それとも、「あなたを操って業務を円滑に進ませたい」ということなのだろうか。

何度もこの記事で出てきている通り、過去の文脈、仮定、コンテキストは、一人一人違う。自己投影したところで、相手の文脈は分からない。

そもそも、本人ですら自分の気持ちなど分からない。周りに合わせて自分の行動や心を変えている人もいる。あるいは、気づかないうちに自分の心の中のモーツアルトを虐殺してしまった人もいる。周りに分かるはずがない。分からないのだから、理解できるまで時間をかけるしかない。そこに必要なのは心であって、テクニックでもスキルでもノウハウでもない。

ぼくは、ひとり言をもらした。彼らは、すこしも自分たちの運命に悩んでいはしない。いまぼくを悩ますのは、慈悲心ではない。永久にたえず破れつづける傷口のために悲しもうというのでもない。その傷口をもつ者は感じないのだ。この場合、そこなわれる者、傷つく者は、個人ではなく、人類とでもいうような、何者かだ。ぼくは憐憫を信じない。いまぼくを苦しめるのは、園丁の見地だ。いまぼくを苦しめるのは、けっして貧困ではない。貧困の中になら、要するに、人間は怠惰の中と同じように、落ち着けるものなのだ。近東人の中には、幾代も汚垢の中に住んで、快としている者さえある。ぼくがいま悩んでいるのは、スープを施しても治すことのできないある何ものかだ。ぼくを悩ますのは、その凸でも、凹でも、醜さでもない。言おうなら、それは、これらの人々の各自の中にある虐殺されたモーツァルトだ。

人間の土地 / サン=テグジュペリ (堀口大學 訳) より

大学時代の数年間、私を陰に陽に支えてくれた親友がいたが、彼女も似たようなことを言っていたことを思い出した。
『中途半端に分かった振りをするのは、やめてほしい』

7つの習慣の最後の章にも、似たような話を見つけたので引用する。

妻は自分自身の心の奥底を見つめ、そしてフリジデア社に対するこだわりの源泉がどこにあるのかを初めて知ったのである。妻に対する私の理解も深まり、新たな気持ちで妻の思いを尊重するようになった。妻は電化製品にこだわっていたのではなかったのだ。妻はフリジデア社の製品のことを話していたのではない。父親のこと、父親を大切に思う気持ちを話していたのである。
今でも憶えている。あの日、私たちはどちらも目に涙をためていた。妻が遠い昔のことを思い出し、自分の感情の根源を見出したことももちろんだが、それ以上にお互いに対する敬虔な気持ちに満たされたからだ。はたから見ればどうということもない過去の経験かもしれない。しかしそれは妻の心に深く根を下ろした大切な経験だったのだ。人の内面の奥底に潜んでいるもっとも傷つきやすい部分を見ずに、表面に現れる他愛のない行為だけに反応するのは、人の心という聖域を踏みにじることなのである。

スティーブン・コヴィー『完訳7つの習慣 人格主義の回復』 より

5. で、どうするか

特にヒトに対しては、次元削減は適切ではない可能性が高く、工業化がひと段落してしまった現代では、より次元を上げて人を観察するのが必要になってくる可能性がある。

工業化時代においては平均主義的な手法が最高技術であり、個人を優先するのは単なる幻想と見なされてきた。しかしいまやデジタル時代となり、とくにこの10年間は、大量の個人データを取得したうえで蓄積して操作する能力が、誰にでも便利に手に入りやすくなった。
不足しているのは、それを積極的に利用しようとする心構えだけだ。

トッド・ローズ『THE END OF AVERAGE (訳:小坂恵理)』 より

そもそも、「次元を上げる」という面倒なことをする必要があるのか?

時と場合による。

短期決戦の場では、多様性など言っている場合ではない。
また、工場システムにヒト・モノを組みこんで、標準化したいというなら、その必要はない。工業化時代の手法をそのまま使えばよい。

一方で、平時、あるいは戦時でも長期戦の場合には、次元を上げるのが結果的に有効かもしれない。
特に、既存のものを効率化するのではなく、新しい何かを生み出したいという場合。1個上の視点から見ないと解決しない研究を行うなら、次元を上げて物事を考え直す必要がある。

具体的な手法はあるのか?

時と場合による。

一般的に流行している手法を取り入れれば良いわけではない。例えば、ブレインストーミングは、良いアイデアを出す方法として一般的に使われているが、必ずしも有効ではないようだ。
(実際、自分もブレインストーミング本番より、その前に自分一人でしっかり考えるときに一番考えが進むことが多い)

集団が大きくなるほどパフォーマンスは悪くなることが、研究から立証されているのだ。……「科学的な証拠からすると、集団でのブレインストーミングを採用するのは正気とは思えない。能力とやる気がある人々には、創造性と効率が最優先で求められる場合には単独作業をするよう勧めるべきだ」と、心理学者のエイドリアン・ファーンハムは書いている。
例外は、オンライン上のブレインストーミングである。電子機器を使った集団のブレインストーミングは、きちんと管理されていれば単独作業よりもよい結果をもたらす。……これは学問的研究の分野にもあてはまる――教授たちが離れた場所から電子機器を使って共同作業をすると、単独作業や対面での共同作業をした場合よりも有力な研究成果を得られる。

スーザン・ケイン『内向型人間の時代』 より

そしてここでも、文脈に注意する必要がある。
上記引用の「オンライン上でのブレインストーミング」や「電子機器を使った共同作業」は、2024年の文脈で「Zoomミーティングのことだな!」と考えてはいけない。
この本が出版されたのは2013年。Covid19のパンデミック前であり、「zoomやteamsを使った同期型オンラインミーティング」という概念は存在していない。書籍内の文脈は、「『オンライン上でのブレインストーミング』や『電子機器を使った共同作業』は、LinuxやWikipediaの発明・開発に役に立った」というもの。つまり、これらの文言は、Github上へのプルリクエストやメールを使った非同期型での議論を指している。

結局は、自分の頭・目・心で物事を確かめること

次元削減した後の情報からは、次元をもう一度高めることはできない。
「有名大学の学生である」「有名企業に務めている」「人事評価がAである」「社内のクラスが上から1個目である」という情報は、その人の仕事のスタイル、仕事への向き合い方、本人の信念といった姿を一切反映していない。

次元の高い情報が欲しければ、一次情報を得ることが必要。
そのためには、自分の意志を保ち、自分の目で物事を確かめることしかない。

国じゅうで誰もが同じようになげいていた。
「どうしてこの国は、
こんなことになってしまったんだろう」

野原のすみで、野ネズミが静かに口を開いた。
「僕は聞いた話を、友達に教えてあげただけなんだよな。
でも、自分の目で何か一つでもたしかめたっけ……?」

林木林『二番目の悪者』 より

周りに流されないこと、とも表現できる。

バフェットは過去の実績を誇りに思っているだけでなく、つねに自分の「内なるスコアカード」にしたがっていることも誇りに思っている。彼はこの世界を、自分の本能に焦点をあてる人と、周囲に流される人とに二分している。

スーザン・ケイン『内向型人間の時代』 より

より高い次元の情報 ≒ 今の次元では表せない ≒ 異端

高い次元の情報は、既存システムが低次元に合わせて設計されている場合、合わない。それでもやり抜くしかない。

『内向型人間の時代』の一節では、一人の人間の内部にはそれぞれ内向性と外向性が共存しているため、企業のシステムもそれに合わせて再設計する必要があるという主張がなされている。当然、「個室ブースにすればすべてOK」「オープンスペースにすればすべてOK」という既存の考え方とは合わない。

私たちが進むべき道は、対面での共同作業をやめるのではなく、そのやり方を改良することだろう。ひとつには、個々人の強さや気質に応じてリーダーシップや他の職務が分けられるような、内向型と外向型との共生関係を積極的に追求すべきである。
また、万華鏡のように変化する人間どうしの相互作用のなかで自由に動きながらも、集中したり孤独が必要になったりすれば自分だけのワークスペースに隠れることができる、そんな環境を設定する必要もある。

スーザン・ケイン『内向型人間の時代』 より

いつから始めればよいのか?

その必要性を感じてからで、決して遅くない。

2004年にペーター・モレナールは、個人の研究にエルゴード的スイッチがおよぼす影響について「心理学は個体学である――今度こそ永遠に、科学としての心理学に人間性を回復させる」というタイトルの論文の中で詳細に説明した。平均主義の思想に科学者としてのキャリアを捧げてきたすえに、平均主義は救いがたいほど間違っていると宣言したのである。
「これじゃまるで、聖書に登場するパウロみたいだと言われるかもしれないね」とモレナールは、微笑みながら語った。「当初僕は、キリスト教徒を迫害していた。平均は間違っている、大切なのは個人だと主張する仲間たちのことだよ。でも、パウロが『ダマスカスへ向かう道』の途中で覚醒したときと同じような瞬間を経験した。だからいまや最大の改宗者として、個人の重要性を説く福音を広めている」。

トッド・ローズ『THE END OF AVERAGE (訳:小坂恵理)』 より

最後に

最近は、多様性、共創、共生、混在、フレキシビリティ、ダイバーシティ、インクルージョン…….という言葉が流行っている。

その意味するところは、結局、「私からは見えていない視点がある」、「本来必要な文脈を見落としているかもしれない」と想像する力であり、「今自分が生きている次元よりも、世の中は高次元である」と認める力でもある。

実際のところ、とても面倒。しかも、既存の工業化時代のシステムを揺らがせる考えなので、実際に実行すると批判にさらされる。言葉だけ取り繕ってお茶を濁すのが一番簡単かもしれない。

第二次世界大戦後、アメリカ合衆国は新設された原子力委員会の委員長にデビッド・リリエンソールを任命した。……それぞれに強烈な個性を放つ人物で構成された原子力委員会は、きわめて重要な任務を帯び、メディアも大きな期待を寄せる中、委員は皆、一刻も早く仕事に取りかかろうと意欲的になっていた。
ところが、リリエンソールは委員同士の信頼口座の構築に数週間を費やし、委員たちがお互いの興味、希望、目標、懸念、経歴、判断基準、パラダイムを知り合える機会を設けた。立場を超えた人間同士の交流を促し、絆を強めることに時間を使ったのである。彼のこうしたやり方は、「効率的ではない」とみなされ、厳しい批判にさらされた。
だが結果的には、委員同士が結束し、全員が心を開いて率直に話し合える環境ができ、実にクリエイティブでシナジーにあふれた委員会ができたのである。
……
委員一人ひとりが、「あなたほど知性と能力に優れ、責任感の強い方が私とは違う意見を持っているからには、私がまだ理解していないことがあるのでしょう。それをぜひとも知りたい。あなたのものの見方、考え方を教えてください」という態度を持つようになっていた。率直に話し合える人間関係が生まれ、素晴らしい組織文化が形成された。

スティーブン・コヴィー『完訳7つの習慣 人格主義の回復』 より

それでも、やるか?

必要なのは、「私には見えていない視点がある」「必要な文脈・仮定を見落としているかもしれない」と認める覚悟。

自分は、この世界の中でどこまで謙虚になれるだろうか?

……ということを考えさせられる良い読書でした。やっぱり読書は最高だ。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。



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