オリラジ退所会見

「悲劇なのか、喜劇なのか。読む側、観る側に委ねられているとしたら、すべてのつらかったことも「お笑い」と私は今認識しておりまして」と彼は語った。

■退所会見・舞台裏動画

オリエンタルラジオが吉本興業から退所した。
発表は年の瀬の12月28日午後4時。ここから年が明けるまでひたすら
寝て起きて動画見て、ご飯作って動画見て、掃除して動画見ての繰り返し。

久々に楽しかったのだ。
YouTubeでTwitterでニュースサイトで、退所会見動画の斬新さや大胆さだけでなく記者会見へのアンチテーゼとする言質、コンビ愛や藤森さんも同じく退所することへの驚きと心配など尽きることなく供給されるのだから。

その大元の会見動画は前編後編で、会見舞台裏もそれぞれの持ち味を最大限に生かした作りで、オリラジそれぞれのサイトにアップされている。
合計4本、約110分。驚きと興奮とほっこりが混ざり合った110分。

オリラジ吉本興業独立までの経緯(後編)
リラジ吉本興業卒業会見の舞台裏


■なぜ彼らに魅かれるのか

カリスマ性のある中田さんと華のある藤森さんのコンビだから。
当たり前すぎて書いていて恥ずかしくなるくらいだ。
しかし、それだけだろうか?

以前、彼らを物語の主人公として述べたことがある。
様々なメディアにより伝えられる主役が彼らの物語。それらのテクストの読みは自由だった。

しかし今回、作者がひょこり顔を出し、冒頭の言葉を語ったのだ。

もちろん、過去を振り返ってみての客観的な言質だということは百も承知の上で言わせてもらうと、今回のこのテクストの読みについて解答を告げられたと感じたのだ。

中田さんは物語に沿った解答を提示することに長けている。その絶妙さは、今回のYouTubeの特性を生かした舞台裏動画という解答をきっちり準備までしていることからも窺える。
答え合わせをできる幸せ、そのカタルシスは半端ない。病みつきになるのも道理、魅かれるのも無理はない。

■人は何者にもなれる、いつからでも

中田さんのオンラインサロンCMの決め台詞である。
ポジティブで明るくて希望に満ちていて、もし物語の主人公にこう言われて手を差し出されたら思わずその手を取ってしまいたくなる。
なぜ?

それは、何者でもない私が、いまここにあるからだ。

就活生のリアルを描き第148回直木賞受賞した朝井リョウの『何者』。
何者かでありたい、しかしなれない現実との狭間でもがく若者の自我を表にも裏にも拡張表現してしまうSNSを材に取り描いた。出版されたのは今から8年前の2012年だ。
それから社会が求めるものが変わったようには感じない。さらにこのコロナ禍にあって「みんな」と同じであることの圧力も強くなったように思う。『何者』は他人と極度に違うことを怖れつつ、少しだけ違う自分であることへの欲望の果てしなさを露呈させたが、それはさらに加速している。

マスメディアがつくる「みんな」像、普通を無自覚に受け入れる「私」がいる。しかし、学校や会社はそれを良しとせずさらに「個性」を求め続ける。

「みんな」でありつつ個性的であること。その解は何だろう。
無自覚の「私」である「みんな」の鏡であると同時に、少し違う「私」をも投影できる主人公でなければその物語は読まれない。

だから、ちょっとだけ大胆で、ちょっとだけ運命に翻弄されるその主人公を担いつつ、無自覚であることに気づけよと、答えを提示するのだ。
自覚しさえすれば、自分の人生を澄まし顔で俯瞰するような観察者をかなぐり捨てれば、いつからでも何者かになれるのだと。

追体験できる物語は最高のエンタテインメントなのだから。
その場を共有できる「みんな」は決して無自覚の「私」ではないはずだから。

■「笑いとはすなわち反抗精神である」

かの喜劇王・チャールズ・チャップリンの言葉である。

「生き様そのものがお笑い」だと藤森さんも語っていたことがある。
こんな、名言を地で行くようなコンビはそうそう見られない。
退所会見はそれを丁寧に、オンラインサロンメンバーの力を借りて明らかにしたのだ。

これから先、ボートが荒波に揉まれてしまっても、最後はきっと今回と同じように言うに違いない。
そんな彼らを見続けてやっぱり思うのだ。

「ドキドキするじゃないか!」

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