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「軟着陸」を排して「難着陸」を試みる    村上春樹『一人称単数』

🐏村上春樹試論🐏 Ⅵ 

「軟着陸」を排して「難着陸」を試みる 

村上春樹『一人称単数』 

 

■村上春樹『一人称単数』2020年7月20日・文藝春秋。 

■1,500円(税抜き)。 

■連作短篇小説集。 

■235ページ。 

■装画 豊田徹也・装丁 大久保明子。 

■収録作品 

 書き下ろしである表題作「一人称単数」を除いてすべて『文學界』(文藝春秋)に発表。 

・「石のまくらに」(2018年7月) 

・「クリーム」(2018年7月) 

・「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」(2018年7月) 

・「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」(2019年8月) 

・「ヤクルト・スワローズ詩集」(2019年8月) 

・「謝肉祭(Carnaval)」(2019年12月) 

・「品川猿の告白」(2020年2月) 

・「一人称単数」(書き下ろし)。

 

■2021年3月10日読了。

■採点 ?

 

【目次】

「はじめに」の前に、はじめに... 3

はじめに... 5

前置き、あるいは結論... 6

1 これははずれなのか?... 6

2 『一人称単数』とは?... 7

3 本作の特異性... 8

4 音楽の小説化なのか?... 13

5 セルフ・カヴァーなのか?... 14

6 無防備な二重構造... 15

7 「正解」を拒否する... 17

【主要参考文献】... 21


 

「はじめに」の前に、はじめに

 言い訳が多くて恐縮だが、本稿の本文は以前書いてお藏入りさせていたものを引っ張り出して、修正を加えたものだ。ところが、その際、再度、本書を読み直した結果(ま、順番が逆なのだが、得てして人生はこういうものである)、考え方が変わった、というか、相当読み落としをしているのではないかと思うようになった。それを考えながら、続稿を書いているうちに、様々な事情から収拾が付かなくなり、随分長くかかりそうなので、やはり、元のまま、一旦「その1」のようなものとしてアップすることにした。

 要は以前面白いとは思えなかった作品が、別の角度から見ることで、別の面白さが発見できた、という、割に、よくあるパターンではある。

そう考えると、実は、個人的な見解では、村上春樹の長篇小説は『ねじまき鳥クロニクル』以降詰まらない、という考えを持っていたが、あるいは、そうではなかったのかも知れない、とも感じている。つまり、何を以て、文学作品を面白いと思うか、いかなる基準で、その作品に価値があるとするのか、といった或る種の批評の枠組みのようなものがわたしの中で変わってしまったのかも知れない。

 人はそれを老化とか衰えとか言うのかも知れぬが、人は寄る年波には勝てぬものである。

 いずれにしても、これはこれで長丁場になりそうだ。

 出典は忘れ、今となっては原文すら不明だが、かのマルティン・ハイデガーは人間をして「向死」の存在、すなわち「死に向かう」存在としたそうだが、それに対して、かのアンドレ・マルローは人間とは「抗死」の存在とした、らしい。無論、死を超克することは、どんな人間にもできない。しかしながら、「老い」に抵抗することは可能ではないか。老いに抵抗する一つ一つの行動こそが、ひいては死に抵抗することに繋がるのではなかろうか。

 すなわち、そう簡単には死ねないのである。

 人は生まれながらにして、苦しみと共にある。生きることは、あるいは苦しみと同義である。しかし、われわれは、例えば、文学作品や、芸術作品などを通じて、それを喜びへと変えることができる。

 村上春樹作品を読むことは、その喜びの一つであることは間違いない。

というような訳で、別の視点からの『一人称単数』論については他日を期したい。

 

  はじめに

本稿は、本作品集が刊行された直後に、と思っていたが、そうでもなく、刊行後、半年ぐらいして読んだときの感想文である。何故、半年も寝かせたかというと、雑誌掲載時に一読していて、正直、これはいかがなものかと思っていたので、手に取る気持ちが萎えてしまい、買ったものの、本棚に並べて置いたのだ。半年ほど過ぎて、流石に読むかと思い、読んだものの、残念ながら、謎は深まるばかりであった。詳細は以下に記すことになるが、恐らく、作者は意図的に文学上の定型を破ろうとしているのではないかと思った。

 それは、今春(2023年)に発表された長篇小説『街とその不確かな壁』(新潮社)でも同様なことが言えると思い、一旦お藏入りさせていた本稿を取り出した次第である。

 本来は、より細部に渡る読解こそが必要なのだと思うし、むしろそうでなければならぬとさえ思うのだが、今回はこれで御勘弁頂きたい。

 それでは、諸君、早速、始めよう。

 

前置き、あるいは結論 

 

 あらかじめ結論から言うと、この作品集は意図的な「失敗作」か、あるいは意図せざる失敗作のいずれかである。 

 わたし個人の予測で言えば前者なのだが。 

 本来は、では文学作品、あるいは何らかの表現にとっての失敗作とは何なのか、さらには村上春樹にとって、失敗とは何かについて論じるべきなのだが、これらの問題については一旦措くとして、この結論を予測するに至った経緯について説明したい。 

 正直に言って、あまり面白くない内容である。その点、お断りをしておきたい。 

 

1 これははずれなのか? 

 世間の評価はともかくとして、村上春樹6年ぶりの短篇小説集と喧伝される割には、正直、わたし個人は首を傾げるしかなかった。さらに、わたしは、本作が雑誌に不定期に掲載中もずっと目を通してきた。

一言で言うなら、これは一体何?   というところだ。もう少し言うと「面白くない」ということに尽きるが、さらにもう少し言うと「もしかしたら、面白いのかも知れない、しかし、少なくともわたしにはその面白さが分からない」ということになるだろうか。

 

2 『一人称単数』とは?

そもそも題名『一人称単数』というのが、もう分からない。無論、これは表題作「一人称単数」の中の一節による。バーの中の鏡を見ていた主人公が、自身の、投影された姿を見て、違和感を感じるシーンに登場する。自身の人生でいくつかの分岐点があったのだが、「そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。」*[1]という割には、その「実在」は不確かで「でも、この鏡に映っているのはいったい誰なんだろう?」*[2]と思う。この不確かな自身に疑問を持つ直前に、主人公が捉えられる考えはこうである。「自分というコンテントが、今ある容れ物にうまく合っていない、あるいはそこにあるべき整合性が、どこかの時点で損なわれてしまったという感覚だ。」*[3]というものである。

言ってみれば、「一人称単数」の「私」というが、その実在は不確かで、本当にそれは「一人称」なのか、あるいは「単数」なのか、疑わしい、というようなことなのかとも思うが、果たして、そんなテーマでこの連作短篇は書かれているのであろうか? それについては甚だ疑わしい。 

 したがって、この感想は大変個人的な傾斜がかかっているものだとご承知おかれたい。

 

3 本作の特異性

 それにしても、冒頭からこのような言挙げをしているのは、本作品集が従来の村上のそれとはかなり様相が変わっているからだ。今までの村上作品においては、少なくとも短篇小説については、所謂外れがなかった*[4]。 

  では、いわゆる村上春樹らしい短篇小説とは何か? 

 恐らく、物語構成上の切れと、或る種の断念と、そこから来る適度なユーモアと乾いた悲しみ、である。 

  ところが、しつこいが本作品集にはそれらが見られないわけではないが、なんといったらいいのか、それらの断片がそのまま編集されることなく、投げ出されている印象を受ける。無論、これらが作者のやる気のなさや、あるいは単なる過失ということは、恐らくないだろう。 

 相当な意図をもってこの作品集は書き上げられ、上梓されたに違いないのだ。 

 通常、村上は短篇小説も長篇小説も出版社の求めに応じて書くのではなく、事前に書き溜めておいてそれを渡すことで知られている。 

  短篇小説をバラバラに書くのではなく、ある一貫したモチーフで書き、それを一冊に納めるという、連作短篇という形は2000年に刊行された『神の子どもたちはみな踊る』から、今に至っている。その際は、5作が連続で発表され、最後の一作を書き下ろしで附して単行本が刊行されている。この間8か月だ*[5]。 

  以下、2000年以降の短篇小説集を、表の形で時系列的にまとめると、以下のようになる。 

書名 

掲載誌 掲載期間 

単行本刊行年月 

連載から刊行までの期間 

『神の子どもたちはみな踊る』 

『新潮』1999年8月号から12月号 

2000年の2月 

8か月 

『東京奇譚集』  

『新潮』2005年3月号~6月号 

2005年9月 

8か月 

『女のいない男たち』 

4作品が『文藝春秋』2013年12月号~2014年3月号、1作品が『MONKEY』SPRING,2014(2014年2月発売) 

2014年4月 

6か月 

『一人称単数』 

いずれも『文學界』。3作品が2018年7月号、2作品が2019年8月号、残り2作品が2019年12月号、2020年1月号 

2020年7月 

25か月(2年1か月) 

 

 まず、発表の間隔が驚異的な断続性を持っていることと、それによって発表開始から、単行本刊行まで、なんと2年という時間をかけているのだ。一体ここに何が起きていたのだろうか。 

 無論、この間、村上が遊んで暮らしたとはいささか考えづらい。実際の執筆期間は不明ではあるが、刊行された時期で考えるしかないが、以下のようになる。 

 

ジャンル 

題名 

刊行年月 

小説

『一人称単数』3作品

2018年7月

翻訳 

『巨大なラジオ/泳ぐ人』 

 

2018年11月 

翻訳 

『私のおじさんのロバ』 

2018年12月 

対談 

『本当の翻訳の話をしよう』 

2019年5月 

翻訳 

『ある作家の夕刻――フィッツジェラルド後期作品集』 

2019年6月 

小説

『一人称単数』2作品

2019年8月

翻訳 

『スタン・ゲッツ 音楽を生きる』  

2019年8月 

小説

『一人称単数』1作品

2019年12月

小説

『一人称単数』1作品

2020年1月

エッセイ 

『猫を棄てる』 

 

2020年4月

エッセイ 

『村上T』 

2020年6月

小説

『一人称単数』刊行

2020年7月

翻訳 

『心は孤独な狩人』 

 

2020年8月 

翻訳 

『「グレート・ギャツビー」を追え』 

2020年10月 

 

 確かに翻訳の本数が際立っている気もするが、それもさほどでもないかもしれぬ。 

 いずれにしても、この執筆(構想? 推敲)期間の異様な長さは、単行本化に当たって、書き下ろされ、収録された「一人称単数」という、いささか、人工的な、つまり不自然な作品の、言葉はよくないが、投げ出すかのような結末と相俟って、村上自身の迷いなり、試行錯誤なりが表れているとするのは言い過ぎだろうか。

 

4 音楽の小説化なのか?

 この時期に村上は「村上RADIO」*[6]なるラジオ放送のディスク・ジョッキーを始めているが、あるいはこんなところにヒントがあるかも知れぬ。 

  一つは音楽の持つ作品世界を小説化するという試みがなされているのではないか、ということである。 

 作中「謝肉祭(Carnaval)」というシューマンのピアノ曲が登場するが、わたしにはよくわからないが、どうもかなり支離滅裂な難曲らしい。それに相応する(?)かのように大変「醜い」とされる女性が登場する。 

  要するにその支離滅裂な曲を短篇小説として表現したかったということなのだろうか。 

 確かに音楽的題材は背景にはあると言えば、あるけれども、しかしながら、そのこと自体と作品の結構の連結が捉えづらい。 

 

5 セルフ・カヴァーなのか?

 別の視点で考えてみると、これらはセルフ・カヴァーではないのかとも考えらえる。 

 村上が先に述べたラジオ番組「村上RADIO」で、「セルフ・カヴァー」という特集を組んだことがあった。 

 セルフ・カヴァーとは音楽用語で、一度リリースした自作の曲を再度別の機会に演奏することである。村上によれば、これは正規の録音でないといけないらしいが、それは一旦措いておこう。 

 つまり、本作において何らかの先行する村上の作品があって、それを再度「演奏」しているのではと考えてみる。 

 一番典型的なものが「品川猿の告白」である。無論、これは「品川猿」という先行作品がある。しかしながら、これはセルフ・カヴァーというよりも、「パン屋襲撃」に対して「パン屋再襲撃」が存在するように、続篇と言うべきである。 

 あとは何となく雰囲気が似ているぐらいで、それは同じ作者だから当たり前ではないか、ということにもなる。 

 

6 無防備な二重構造

 また、それと相まって、これも全作品に言えるわけではないが、無防備とも思えるような二重構造、多重構造を持つ作品がある。 無防備というのは、断絶とも思えるような接続で、別の挿話が語られる、ということだが。短篇小説としては余りにもそれらが無媒介過ぎて、異和を感じる。むしろ、そのゴツゴツした手触りこそ読者に味合わせたい、とでもいうかの如く。

 

 作品名

 

 

音楽的要素 

セルフ・カヴァー元 

二重構造/多重構造 

「石のまくらに」 

短歌(音楽と言えるのか?) 

「めくらやなぎと眠る女」「中国行きのスロウ・ボート」 

現在と過去 

「クリーム」 

よもや、バンド「クリーム」? 

「めくらやなぎと眠る女」 

現在と過去:女の子に架空のピアノ・リサイタルに誘われた話と老人の語る「クリーム」の話 

「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」 

題名通り。アルバム名。 

『風の歌を聞け』のデレク・ハートフィールド 

過去と現在:作者が架空のレコード批評を書く話とそのレコードをニューヨークで見つける話とチャーリー・パーカーが夢に出てくる話 

「ウィズ・ザ・ビートルズ」 

題名通り。アルバム名。 

『風の歌を聞け』『ノルウェイの森』「我らの時代のフォークロア」「中国行きのスロウ・ボート」 

過去と現在:高校の時、『With the Beatles』のレコードを持った少女に遭遇した話とガールフレンドと付き合っていて、その兄と話す話とその後兄と偶然出会いガールフレンドが自殺した話を聞く話。 

「ヤクルト・スワローズ詩集」 

詩集(音楽と言えるのか?) 

 「ヤクルト・スワローズ詩集」(『夢で会いましょう』*[7]所収の数篇*[8])、エッセイ「「ヤクルト・スワローズ詩集」より」*[9]

 過去と現在(小説というよりエッセイの文体に近いのでこの接続は不自然ではない)

「謝肉祭」 

シューマンのピアノ曲。 

 「中国行きのスロウ・ボート」 

 近現在と過去。醜い女性と何度も一緒にシューマンの「謝肉祭」を聴いた話とあまりぱっとしない女の子とデートして別れた話

品川猿の告白 

ブルックナー交響曲7番・9番。 

「品川猿」 

 過去と現在:かつて温泉場で知り合った人語を話すサルと現在の消息

一人称単数 

BGM以外では特にない 

「トニー滝谷」「木野」 

 バーの中と外の街:バーで見知らぬ女性に難詰される。外に

出ると街は「死の世界」(?)に変わり果てていた。

 

7 「正解」を拒否する

 

 以上、様々な可能性を考えてきたものの、これと言って「正解」らしきものはない。無論、文学作品の読解に正解などあろうはずがないのは言うまでもないが、それにしてもこれは一体何なのか? 

 

   と、最初の3作品を初読して以来、かれこれ2年近く、わたしなりに考えてきた。 

  ……、なるほど。

実はこれが「正解」ではないにしても、「正解」のある一部を占めているのではないか?  いや、「正解」を拒否することこそ「正解」ではないのか、という考えに辿り着いた。ユリイカ!

 つまり、こういうことだ。 

 集中、「クリーム」という難解な(?)小説がある。 

 知り合いの女子生徒にピアノ・リサイタルに来て欲しいと誘われて行ったものの、何もなかった、つまりは騙された(?)男子高校生の主人公が困惑していると、そこに或る見知らぬ老人が突然現れて「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」を思い浮かべよ、と言う*[10]。 

そして、「ええか、きみは自分ひとりだけの力で想像せなならん。しっかりと智恵をしぼって思い浮かべるのや。(中略)そういう血のにじむような真剣な努力があり、そこで初めてそれがどういうもんかだんだんに見えてくるのや」*[11]と言った老人に主人公が「むずかしそうですね」*[12]と言うと、それに対して、次のように述べる。 

 

「この世の中、なにかしら価値のあることで、手に入れるのがむずかしうないことなんかひとつもあるかい。」(中略)「けどな、時間をかけて手間を掛けて、そのむずかしいことを成し遂げたときにな、それがそのまま人生のクリームになるんや」 ( [村上, 『一人称単数』, 2020年]p.42)

 

 と、これが表題である「クリーム」の由来である。 

 

 後日、この話を聞いた、「年下の友人」に向かって「原理とか意図とか、そういうのはそこではさして重要な問題ではなかったような気がするんだ」*[13]と述べている。 

 つまりは主人公が女子生徒によって仕組まれた事態や、老人の謎かけに直面して困惑するような事態に読者も同様に困惑させられる、このこと自体が実は目指されたのではないか? 

 

   と、考えてくると本作品集に収録されている短篇はいずれも奇妙と言えば奇妙な話ばかりであるが、要はそこに何らかのテーマ、あるいは小説作法上の何らかの方法論などを読み込むな、分析するな、何らかの枠で捉え込むな、これらの奇妙な物語の奇妙さを、虚心にそのまま受け取れと言っているのではないか? 

  猿が人語を話し、自らの人生遍歴と性癖を語る「品川猿の告白」ではこう述べられている。「テーマ?  そんなものはどこにも見当たらない。」*[14]と。 

  要するに、村上はこの作品集で、「安易な」村上春樹的な「軟着陸」をせず、相当強引な「難着陸」をしてみた結果、あちらこちらで意図的な、あるいは意図せざる脱臼やら骨折が生じているのだと言えまいか? つまりは、小説として面白いかどうかは別の問題である、ということである。

 

 

【主要参考文献】

鴻巣友季子, 上田岳弘, 小川哲. (2020年). 「最速誌上読書会――いくつもの中心のある短篇の円環」. 著: 『文學界』2020年9月号. 文藝春秋.

沼野充義. (2020年). 「偶然に織り成された唯一の「私」――村上春樹『一人称単数』における回想と虚構の交錯」. 著: 『文學界』2020年9月号. 文藝春秋.

村上春樹. (2014年更新). 名誉会員・村上春樹さんメッセージ・第2回「「ヤクルト・スワローズ詩集」より」. 参照先: 「東京ヤクルト・スワローズ」HP: https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/fanclub/honorary_member/murakami

村上春樹. (2020年). 『一人称単数』. 文藝春秋.

村上春樹. (2023年). 『街とその不確かな壁』. 新潮社.

村上春樹, 糸井重里. (1881年/1986年). 『夢で会いましょう』. 冬樹社/講談社文庫.


 

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 第一稿 5,392字(14枚) 20230521 2106



*[1] [村上, 『一人称単数』, 2020年]p.226。

*[2] [村上, 『一人称単数』, 2020年]p.226。

*[3] [村上, 『一人称単数』, 2020年]p.225。

*[4] 皆無とは言えないが、かなり少ない。しかし、ここが難しいところだ。一見詰まらないと思われていた初期作品の幾つか(「中国行きのスロウ・ボート」、「貧乏な叔母さんの話」、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」)に重大な意味を見出したのは、加藤典洋(『村上春樹の短編を英語で読む1979~2011』2011年・講談社)である。かといって、それらが小説として面白いかどうかは別問題だと思うが。

*[5] 文芸誌『新潮』に、連作「地震のあとで」との通しタイトルのもと、1999年8月号から12月号まで5作品が連載、翌2000年の2月に単行本刊行。

*[6] 2018年8月開始、東京FM。

*[7] [村上 糸井, 『夢で会いましょう』, 1881年/1986年]。

*[8] 文庫では次の5篇が「ヤクルト・スワローズ詩集」となっている(単行本未確認)。「オイル・サーディン」(p.45)、「スクイズ」(p.104)、「スター・ウォーズ」(p.106)、「チャーリー・マニエル」(p.129)、「ビール」(p.167)。

*[9] [村上, 名誉会員・村上春樹さんメッセージ・第2回「「ヤクルト・スワローズ詩集」より」, 2014年更新]。本作中の「ヤクルト・スワローズ詩集」はこれが元になって、拡充したものである。

*[10] [村上, 『一人称単数』, 2020年]p.41。

*[11] [村上, 『一人称単数』, 2020年]p.42。

*[12] [村上, 『一人称単数』, 2020年]p.42。

*[13] [村上, 『一人称単数』, 2020年]p.45。

*[14] [村上, 『一人称単数』, 2020年]p.209。

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