食事
僕はパンを食べている。
何の変哲もない食パンである。僕は毎朝その味のしない小麦の布切れを口に入れる。少しパサついており、口の中の水分を奪っていくのがわかる。喉に異物が通る感覚がわかる。空気よりも重く、水よりも軽い。僕の喉仏がそれに応えるようにごくりと音を立てる。
数百年前、パンは庶民の生活食ではあったものの、僕らのような日陰者が口にできるような代物ではなかった。たった数100年でパンというものの在り方が変化したのだから、きっと100年後はパンはパンの形を留めていない。いや、パンなんて存在しないのかもしれない。そんなことを考えながらもぱさぱさとしたそれを口へ押しやる。半分にも満たない量しか胃袋に入れていないにも関わらず、身体はそれを拒むように喉につっかえる。仕方ないので、冷蔵庫まで行き、ほぼ色彩のない中から主張の激しい、小さくて赤い小瓶を手に取る。机に戻り、コンッと音を立てて置く。その甘ったるいイチゴジャムをスプーンで掬ってべたべたと塗り始める。僕にとっては贅沢すぎるのだろうけど。
「貴方は今まで食べたパンの枚数を覚えているのか」という台詞があるが、僕は毎朝食パンを食べるので、恐らく8395枚食べた計算になる。市販の6枚切りの食パンは約230円で買えるので、大体32万円になる。僕の価値はきっとこの32万よりも遥かに低いのだろう。何が言いたいのかと言うと、僕はこの32万に値しない己の人生を選択をしているということで、同時にそれは、その金額とを見比べた時に死を選びきれないということある。食べないという選択をするよりは、味のしない今日を惰性のように生きているということでもある。一時期、僕は食事という行為を通して生かされているという考えに取り憑かれていた。食事をすることは何をどうしても生と向き合うことである。よく、「命を頂く」と言うが、命を大事にするべきならそんなことを言わなくてもいいのになんて思う。その、命を踏みにじってまで生きようとする執念というか、本能というのか、とにかく生きることにしがみつこうとする愚かさは、人間であり「人間」でない僕には滑稽に見えてくる。それでいて、世の中の人間様は、それを平然と受け入れて生を営む。生きるという選択に躊躇などないのだろう。僕だって人間だから、家族ないし、友人と食事をする機会はあった。食べたパンの枚数には及ばないのだろうけど。僕は特に肉が嫌いだった。1番生きていた頃の原型を留めているからである。僕の両親は祝い事があると高い肉をよく買っていた気がする。牛肉の料理が多かったような気がする、他所ではあまり聞かない名前の銘柄だったけど。祝い事なんてただの名目じゃないか、「美味いもの」を食べるための。めでたいのは奴らの頭だけなんだなって勝手に思ってたよね。それでいて、奴らは皿の上に並べられた「命だったもの」を貪る。薄く切られた茶と赤のグラデーションが綺麗なシートを容赦なく銀のナイフで切り裂いていく。そのギリギリ塊として認識できるものをフォークで突き刺し、ドロッとした絵の具にそれを絡めて口へと運ぶ。「おいしいね」などと言い惨いことをするものだと思う。そしてこう言うのだ、「食べないと死んじゃうよ」と。有無を言わさず生きることを強要する奴らには選択の自由という言葉が通用しないらしい。震える手を奴らと同じように動かし、口に牛の屍を運ぶ。高いものだから当然、血抜きなり、臭い消しなり完璧なはずなんだ。なのに、生臭い。僕の意志に反したように口の中を蠢いている。屍のくせに生意気だぞと思うよりは生きる意思があるものが淘汰され、生きる意思のないものが延命されるのを毎日味わわねばならないのか、と絶望した。そして、「こんなのおかしい」という言葉と共に残骸を飲み込む。そして不自然な笑顔にならないように気をつけながら『おいしいね』などと思いもしない言葉を口から吐き出す。同時に喉を伝う生暖かい液体もこぼれ落ちないようにと口を閉じる。ずっとおかしいと思っていたんだ。
傍に置いてある牛乳をコップに継ぎ、くどい甘さを纏う不格好な藁半紙を思わせるそれらを流し込み、ふぅと息を着く。
目の前に置いてある木製の電子時計は7:30と表示されており、東向きの窓からは暖かい春の日差しが白いカーテンを透いて入ってくる。白で統一されたこの部屋に唯一異質な存在があるとするならそれは僕なのだろう。汚点である自分がどうしても嫌で、自分さえ取り払ってしまえばこの部屋に調和がもたらされるのにと考えてしまう。この部屋に無駄なものは無い。白を基調とした壁、床にはフローリングが敷かれており、埃や塵の類は見当たらない。中心に置かれた木製のシックな長机と椅子、そして壁の突起にあるのは置型のウッド電子時計、右横には大きな出窓があってそれを覆うように白いシルクのカーテンがある。それだけのつまらない部屋である。それがかえって僕には心地よかった。僕が誇れるものが何も無いからと言って惨めな気持ちにさせない部屋であった。そして、孤独でいることを肯定してくれるような場所でもあった。そんな僕でも、必要最低限の外出はしなければならない。僕だって仕事をしなきゃ今の生活を維持できないわけだし、少なくとも何かしら社会の役に立たなければ生きていけないのだから。そんなことを思いながら、奥の部屋……寝室のクローゼットを開ける。クローゼットの中に整列しているカッターシャツ達は工場で生産されたようにしゃんとしている。僕はその中から比較的薄地のカッターシャツ1枚を取り出して、それに着替える。下も綿素材のスボンに履き替えた。同じデザインのズボンとカッターシャツなのに、布の薄さで季節を感じるのだから不思議なものだとつくづく思う。薄手のパシャマたちを丁寧に畳んで、ベッドの上に置く。まるでホテルの寝室ようにベッドのシワをしっかりと伸ばす。一通り終えると僕はふぅと息をつき、まだ時間に余裕のあることを確認した。そうして僕は家を出る準備に取り掛かる。寝台の目覚まし時計の針は8:00を指していた。