小説『ラビリンスとメス』書評(ネタバレあり)
性器に問題があるゆえに「出来ない」という設定で書いてみたいと長く思っておりました私でございますが、千本松由季様の作品・小説『ラビリンスとメス』を拝読する機会に恵まれました。個人的に思い入れのあるテーマだったため、偏った感想であるかもしれません。
おおよそ三十歳の主人公は、自分の性器の形状が「普通」ではないと気づいていなかった、という設定です。
何故気づかなかったのか。本人の特質や家庭環境を推測可能ですが、私に思いつくのは「ステレオタイプなそれら」です。
私は「トラウマ」を揶揄して虎馬鹿子を名乗っております。ある時期の、なんでもかんでも「トラウマ」で説明する流行(に見えました)を、創造的でないと思いました。一人の人間がある葛藤を抱え、ある行動を取るとは、もっと個人的であり個性的であるはずなのに、一言「トラウマ」で一括説明してお終いにしていやしないかと、反感すら覚えていました。(そして馬鹿子とふざけてみました)。
「ステレオタイプなそれら」で主人公を説明できると思うのは、「トラウマ」で済ませるのとやっていることは一緒です。
吉田知子の短編集『蒼穹と伽藍』角川書店 (1974)には、たくさんの異形が登場します。例えば「大広間」にはなんとも言えない不気味さを感じますが(一番好き)、アンドロギュノスが登場する短編では張られている伏線が完璧に思えました。つまり両性具有者の葛藤や行動がまるっと理解可能に感じたということですが、いや、おかしいと。逆になんで?と、小説『ラビリンスとメス』を読み、目が覚めたようにはっとしました。私は両性具有者ではありませんし、もしそうだったとしても、まるっと理解可能ではないはずだと。そうと「感じる」ことはあっても。
嶽本野ばらの『鱗姫』 小学館 (2001)を読んだときも「ここに私の書きたかったことが全部書いてある」と衝撃的に感じました。数年後にはほとぼりが冷め、思い込みだったと思い返しましたが。
私は、何かを読んだときに自分を言葉に寄せ、言葉で自分を上書きしています。人は、そうしがちと思われます。すると、読み、書き、読まれ、聞き、語り、聞かれるがめぐりめぐってどうなるか。「人間とはこういうものだ」「こんなの人間じゃない」と、人々に共有されている思い込みがあることでしょう。
千本松様はエッセイ・121、作家の自尊心 小説の定義 私の小説の書き方において
>私は人の作品を読んで「あの作品の中には私の書きたいことが全て書かれている」とは言わないし、思いもしない。私の書きたいことは、他の人には書けない。
>他人に自分の書きたいことを全部書かれてしまう、ということはそもそもありえない。
と、言い切っていらっしゃいます。かっこいい。
千本松様の小説を読むと、なにか怖さを感じることがあります。私が意識せずに「人間ではない」と排除していた「人間」が、そこに存在しているからかもしれません。私にとっては事件であり問題作です。もちろん、称賛しております。
(了)
【追記】
『ラビリンスとメス』ってタイトル、めっちゃよくないですか?!