『埋める』連作

Ⅰ さみしい。

さみしさは穴に喩えられるが、つまり、そういう身体感覚である。
身体にぽっかりと穴が開くと、そこにあるはずのものを捜した。
愛、お金、友人、自信、健康、幸せ、お菓子、ごはん、おふとん...??
や、おふとんは今くるまっている。
でも、どこか寒くはある気がする。

誰かが私になにかをしてくれたなら。
私が誰かになにかをしてあげられたなら。
私が私をどうにかできたなら。


埋めたい。
埋めて欲しい。




というのは過去のお話である。

今の私は、さみしくなったら、さみしいのだと思うだけだ。
穴が開いたら、ただ、穴だと思って穴を眺めている。


んっ。



やっぱおしるしがみえましたね。

以上、今月の生理現象でした。

Ⅱ  おまじない

☆「さみしい・さみしい・さみしい・さみしい・さみしい・さみしい・さみしい」と、「さみしい」を脳内で唱えること×7回をワンセットとします。

☆これを×7回の7セットで一周とします。

☆もし足りなければさらに×7回、7周して下さい。

☆「さ・み・し・い」と区切るくらいのつもりで、一音一音を大切にかつ最後までハッキリと、脳内だからといい加減にせずに唱えて下さい。

☆数は正確に数えて下さい。

☆数が途中であやふやになったら最初からやり直して下さい。

「…あと二回も唱えるのか」
「めんどくせ」
「残り3セットとか、冗談だろ?」

とうんざりしてきたら、たぶん成功なのでやめても構いません。


《お断り》
・大嶋信頼センセイにインスパイアされついさっき創作のおまじないです。
・おまじないの効果にはたぶん個人差があります。


Ⅲ  私の心臓を見せたい

「分かるわけない!」と突き返す血の滲んだ涙目は、もうとっくに私に取り憑かないどころかそういう「若さ」を消費すらできる中年になっている。 

かつての私はサービス精神旺盛な「女の子」であった。

「女の子」を消費したがる誰かの欲望通りに私を振る舞わせたものは一種の自棄である。 

そんな「女の子」はどこにも存在せず、 みんな、「振り」もしたがらないと察したからこそ私はそうなった。 

隙間にぬるりと型通り嵌まった私は求められた。 

出来合いの夢を見る男や女を眺めて若い私は満足した。

三十を迎えるまでもたずにオワルと信じた生はその後も続いた。 

「分かるわけない」のは日常となった。


Ⅳ  父の胸の中

父の胸の中には心臓のペースメーカーが植込まれている。
ペースメーカーは必要な時のみ動き、働く。
動いて電池を消耗すれば、胸を開いて再手術をし、電池交換をしなくてはならない。

それが、ほぼ動いてないらしいんですよ。
せっかく?植込んだのに。

ロクに出番が来ないまま、五年経ち、十年経ってしまいました。
合併症等の恐れがあるため、どんな体調不良もペースメーカーの植込み手術を受けた大学病院にかかっていた父でしたが、町の病院に行って下さい、大丈夫ですからと言われるようになったそうで。
「手術しなきゃ良かったな」とこぼしています。
再手術をすれば、痛いし、お金もかかるし、体力も奪われますから、喜ぶべきなのですが。 


実家の庭

父は不動産の仕事をしていたが、我が家すら動産だとでも思っていたのか、売り時と判断したら売ってしまう。
そんな父の自分勝手に疲れ果てた母の子宮癌の手術が決まったとき、父はようやく終の棲家を建てた。
築三十年になるまでにあと数年と数えると、夫婦の時間というものにめまいがしそうになる。
娘としては単純に、二人共長生きしてくれてうれしい。

実家の庭師は高宮さんというおじさん、いや、今はおじいさんである。
こちらの高宮さん、父に借金があるらしく、「やあ、鹿子ちゃん、こんにちは。お父さんいる?今お出かけ?じゃあ、これ、お父さんに渡しておいてくれる?いつもありがとうね。お父さんによろしくね」と言って薄い茶封筒を置いていくことがしょっちゅうであった。
庭には松やら石やらがしつらえてあり、定期的に高宮さんが手入れにいらっしゃるが、それも借金の埋め合わせとうかがえた。
返済が終わっても、きっとタダ働きで手入れに駆り出されるのだろうと思ってはいたが、つい先日実家に寄ったとき「やあ、鹿子ちゃん、久しぶり」と高宮さんが例の茶封筒を置いていったのにはたまげた。
いくらの借金を、どういう約束で返すことになっているのか。
父か高宮さん、どちらかが死ぬことをもって帳消し、になりそうだ。

高宮さんの腕の良し悪しは私には分からなかったが、母もあれやこれやを好き勝手庭に植えているので、もう関係ないだろう。
渦紫陽花と金柑の木はオバケがモクモクと膨らむように繁って、ゆっさゆっさと重そうに身を揺らしている。
芍薬は立派な花を咲かせてくれるが、葉が閑散としていて、枝に花がついているように見える。
そのすぐ隣のブルーベリーも実をつけるが、やはり葉が乏しい。
どこから栄養を吸い上げ回しているのやら不思議なコンビである。

父からは、甥っ子が生まれたときに金木犀を、息子が生まれたときに銀木犀を植えたと聞いた。
柄にもない素敵なことをと見直したが、どちらも根付かず枯れてしまった。
父が自分で植えたのか、高宮さんにやらせたのかは知らない。

そうかと思えば、正体不明の芽が枝になり、木になっていくのを数年に渡って見守っていたら柿の実がついたと、ある年母から息子に報告があった。
そういえばと、しだれ桜の樹のふもとのその辺りで、幼児だった息子が柿の種を埋めていたのを思い出したという。
言われてみればと、十一歳の息子もオレが埋めたと思い出した。

秋晴れの日、息子と私は実家に出かけた。
ぽかぽかと日の当たる白木の広縁に、息子はいそいそとお茶とお菓子と座布団を広げた。
庭の赤い柿の実を眺めながら茶をすすり、「あ〜癒される~」としみじみ呟く姿は少々じじくさかった。

しだれ桜も、数本の枝先だけにぼそぼそと花をつけていた。
この家の孫である息子や甥っ子がそれを不思議がることがないくらい、いつの頃からか、秋にも地味だが狂い咲くようになっている。