【掌編小説】三月三日

 節句とは季節の変わり目、毎年懲りずに着るものに困ってしまう。迷った挙句、黒のノースリーブトップスとダークオレンジのロングスカートの組み合わせに見えるワンピースに、カーキのライダースジャケットを羽織って出かけた。
 陽ざしは明るく暖かく、幸い風もない昼下がりだった。ピンクがかったコッパーのバレエシューズはヒールがなくぺたんこで、素足でいるかのように軽い。ブーツを脱いだのは久しぶりだった。歩くと、裾のフレアが足首の辺りで柔らかく揺れた。ほんのぽつりと落とした香水をはらんだ風が、きっと私にだけ感じられた。
 ワンピースは、着るのは自分一人で出来ても脱ぐにはお手伝いが必要な代物だった。後ろにあるファスナーを、上げられるが、下ろせない。
 夕方六時頃に帰宅する夫の手を借りるつもりで、外出先から戻った。

 自宅マンションの敷地内に踏み入り数歩、ふと振り向くと、夫らしき人が歩くのが目に入った。
 もしすれ違ったのであれば、私が夫に気付かれないはずはない。しばしばぼうっとしながら出歩き視力も弱めだが、気配を察して見やると、にこにこしている夫と目が合うことは何度もあった。
 ついさっき通ってきた道へと向かってゆく後ろ姿を眺める。夫の兄たちと共通する小ぶりな頭の形、中肉中背、腰の位置、どちらかといえばがに股の足の運び方、サイドにラインの入ったジーパン、厚地で紺色のパーカーと、似てはいるが人違いなのだろうか。
 立体駐車場を見上げ、最上階に夫が通勤で使っている車のナンバーを確認した。帰ってはいるようだ。
 車の顔というものがよく分らない。判別が可能なのはせいぜい色くらいだが、夫の車のようなグレーっぽい車体はゴロゴロしていて、手掛かりにならない。黄昏時なら尚更に。
 また振り返ると、誰の人影もなかった。


 玄関のドアを開けすぐ視線を落とす。午後、家を出るときにはなかった夫のNIKEのスニーカーがあった。くるりと回して揃えた。パンプスを脱ぎ、隣に並べる。ジャケットも脱ぎすぐ側にあるハンガーにかけた。ノースリーブになると家の中でもまださすがに肌寒い。
 洗面所に入った。椅子に置いたタオルの上にセルフレームの眼鏡が乗せてある。深緑を水に流したような色調が特徴的な、夫の愛用品だ。
 摺りガラスがはまった浴室の扉は内側から電灯を透かし、ほんのりと明るい。しんとしているが、ひと気はあるように感じた。
 扉を軽くノックし、返事は待たずに細く開け覗き込んだ。
 肩まで湯に浸かった夫が、半分閉じかけた目のままゆっくりとこちらへ首を回した。
 
「おかえり」

 小さく声をかけた。

「ん……」

 夫は眠たそうに、くぐもった声を出した。

 そっと扉を閉めた。洗面台で手洗いうがいをした。

 台所へ行きエプロンをつけ、留守中タイマーで炊き上がっていたお米を酢飯にする。ちらし寿司の具と菜の花のおひたしは外出前に調理を済ませて冷蔵庫にある。ボールにぬるま湯を張り、花麩を戻すために浸した。花麩を入れるお吸い物はインスタントを使う予定で、夕食の準備はすぐに終わった。娘のいないわが家にしては上出来のひな祭りだ。
 手は動かしながら、物音には耳を澄ませていた。エプロンを外して寝室に向かう。風呂から上がった夫がいるはずだった。

 寝室のベッドに、夫は腰かけていた。トランクス一丁で俯き手元のスマホを見ている。ほてりを冷ましていたのだろう。つつと側に寄ると、スマホから顔を上げてこちらを見た。

「ん?」

 はっきりとした、いつもの夫の声だった。

「ワンピースのファスナー下ろしてもらいたいんだけど、いい?」

 そう言って、背中を見せた。

「分かった」

 夫はスマホを横に置いて立ち上がり、ファスナーに手をかけ一気に腰まで引いた。そしてすぐ座り直してまたスマホを手に取った。
 腰から折れて夫の方へと屈みこんだ。ワンピースが背中で二つに割れて開いていく。軽く触れるだけの口づけをした。夫が固まった。

「夕食、後でもいい?シャワー浴びてくるね。すぐ戻るから、待っててくれる?」
「浴びなくてすぐでいいよ」

 低く押さえつけたような声でそう言い、私の二の腕を掴んだ。夫の手はまだ風呂上がりのじっとりとした熱さだった。微笑みながら手をそっと重ねて、言った。

「いってきます」

 引き留められることも抵抗することもなく手は離れた。
 シャワーから戻ると寝室の灯かりは落としてあった。スマホもいじらずなんだか神妙に鼻先にまで布団をかぶっている。ちょっと可愛らしかった。


「どうかした?珍しいね」

 コトが終わった夫のご機嫌はだいぶ良い。あなたのドッペルゲンガーを見てしまったから、今生の別れと思って、なんてまさか言えない。

「お腹空いたでしょ。ごめんね。夕食すぐ出せるから」

 するりとベットから降りた。