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2月18日 100人以下の村社会が「理想」でしかない理由。人間は他人の秘密を暴きたいという欲求に逆らえない。

 今日はこんなお話し。
退職し東京から限界集落へ「移住失敗、もう限界」 一家の絶望と希望【有料】

ユーチューバー「限界集落で暮らす」が引っ越しすると報告 住民から嫌がらせ


 私もこの件についてニュース記事で見た程度の話しか知らないのだけど……。お話を要約すると、都会生活をしていたとある一家が、コロナウィルス蔓延を切っ掛けに限界集落に移住した。
 はじめの頃は村の人たちも歓迎してくれたけども……次第にありもしない噂話を流され、えん罪で通報されたり、村のイベントに参加を拒否されたりするようになっていく。村の「地域協力隊」への参加を強制させられるのだが、それを拒否したことが村人らの嫌がらせが始まったという。しかしその「地域協力隊」は国から補助金を受け取っていながら何の成果も上げられていない団体だった。
 そういった諸々があって、移住失敗。都会に戻るのだった……と記事内容をまとめればだいたいこんなお話になる。
 詳しい経過は当事者が動画で話しているそうなので、詳細を知りたい人はそちらを見てもらおう。

 このブログでも何度か繰り返している話に「人間の認知能力」は思ったほど高くはない……というものがある。どれくらいが限界なのかというと、イギリスのダンバー先生が提唱した説によるとだいたい100~250人くらいまで。平均的に150人前後が人間の認知能力の限界。この150人を越えると、1人1人を認識できず漠然とした「ただの群像」くらいにしか認識できなくなる。150人までの社会であれば、その全員が顔をつきあわせて話し合いをやって結論を出す……ということができるが、これを越えると話がまとまらない以前に、お互いの顔を覚えることすらできなくなる。
 ネットの世界は常に罵詈雑言がひしめきあう世界である。どうしてそうなるかというと、ネットの向こうには人がいる……ということを「知って」はいるけど「認識」はできない……という状態になるから。これが「知っている」状態と「認識している」状態の違い。認識できていないから、「相手が迷惑だろうな」とか考えず、自分の一方的な感覚だけで罵詈雑言が言えてしまう。
 ではどうすればいいのか。どうすれば世の中の出来事を認知可能な状態にしていけるのだろうか。
 人間の認知能力がせいぜい100~150人ほどが限界であるなら、100人以下の村を作ってそこに住めばいい。100人以下であれば村で起きていることは「他人事」ではなく、「自分事」になる。その領域全体が自分のテリトリーの一つになるわけだから、ゴミのポイ捨てもしなくなる。なぜなら自分の住んでいる場所に、ゴミのポイ捨てなんてするやつなんていないからだ。

 と、いうのが「理想論」なのだが、実際に限界集落へ移住するとそこに直面するのは人々の容赦のない扱い。妙な噂話を流され、あっという間に排除されてしまう。現実の世界であればネットでやっているような罵詈雑言の世界から解放されるのか……というとそんなことはなく、現実世界でも人間は“他人”と一度決めた相手に対して、どこまでも冷淡になれる。これが100人以下の村に住んだ場合の現実だ。

 ではどうしてこんな現象が起こるのかを考えていこう。

 先日読んだ本『昨日までの世界』にはこんなお話しが書かれている。
 ニューギニアの狩猟採取民の人々は意外なくらいお喋りだった。暇な時間はとりとめもなく、えんえんお喋りをしている。では何を話しているのかというと「噂話」。なぜ噂話をしているのか、というと「情報共有」のためだった。集落の中で何が起きたのか、誰が何を言ったのか、集落の外でどんな事件が起きたのか……。そういう情報を共有し合うことによって、将来起こりうるかも知れないカタストロフに備えているのだ。
 狩猟採取の生活でもっとも恐ろしいのは、いつ「飢餓」がやってくるのか。天候不順、狩りの失敗……狩猟採取の世界ではほんのちょっとのあやまちで飢餓が起こり、集落の全員が餓死してしまう。もしも天候不順があるなら、その予兆となるなにかが他の村で起こるはず。自然界で異変があったら、どこかの誰かが必ず察知しているはず。そういう情報共有は常に大事だ。もしも近隣の村で危機があったり、あるいは自分の村で危機が起きたりしたら、助けたり、助けてもらう必要もある。
 そういう危機への備えのため、相互的に支援をしあう余裕を作るため、部族社会の人々はお喋りをえんえん続ける。

 このお話だけだと狩猟採取民のお喋りは意義あること、良いこと……というふうに聞こえるかも知れないが、実際にはプライバシーのない社会になる。個人の秘密を一切持つことが許されない。「秘密を持っている」という気配を出しただけで無理矢理でも公開させられるし、その秘密は集落の中の共有情報になり、さらに集落の外の人にまで知られるようになる。
 狩猟採取民の人がアメリカの都市に招待されてなにが嬉しかったかというと、人々が自分を放っといてくれることだったそうだ。はじめて「プライバシー」なるものを持つことができた。集落の中ではあらゆるものが共有され、いつも集落で一体となっていたが、都市に招待されてはじめて「個人」になることができた。狩猟採取民の人にとってそれが初めてのことで、そのことがとにかく嬉しかった……という。

 日本は非常に文化・文明ともに発達した国家であるが、狩猟採取時代の人々となにか機能的変化……つまり身体的・脳的変化があるのかというとまったく同じ。体のつくりや脳の形状をいくら細かく調査したところで、文明生活者と狩猟採取民の身体はほぼまったく同じだ(それどころか狩猟採取民のほうが体は丈夫だし、脳はより発達しているという)。
 私たちは高度な文明生活を送っているが、実は意識面・精神面に関しては狩猟採取民と同じ性質を引きずって生きている。どういう性質かというと、私たちは常になにかしらの「噂話」と接していたい。「噂話」に接していないと不安にさえなってしまう。噂話をしたい、という欲求に抗えないのだ。
 だから私たちはいつでもご近所の噂話を続ける。ご近所の噂話に飽き足らず、会ったこともない芸能人の噂話もいつも求めている。そんな噂話の一つ一つに意味があるのかというと、大半は意味がない(特に芸能ニュースは知る必要がまったくない)。意味がないのにかかわらず、常に噂話を知りたい、聞きたいという欲求を持ち、その欲求に抗えずにいる。
(その欲求を満たすための娯楽として芸能ニュースなるものが提供されている。権力者のスキャンダルや芸能ニュースなるものがなぜあるのかというと、「噂話を聞きたい」という欲求に逆らえないからだ。しかしそれ以上の意義は実はまったくない。実は「どうでもいいもの」というふうに考えられないところが、本能に突き動かされている結果だと言える)

 そんな暇があったら身になることを勉強すれば……という気がするが、しかし私たちの意識はそういう噂話を知ることを「快楽」の一つにしてしまっている。私たちの意識の中で、噂話をすること、噂話を聞くこと、この行動を取ることで「快楽物質」が出るようになっている。そしてどうして噂話をし続けるのかというと、より多くを知ることで「安心感」を得ることができるからだ。
 一方、勉強はいくらやってもそこで快楽が発生することはない。だから勉強はすぐに気分が折れてしまう。本を読んでいても「退屈だ」という感じになってしまう(事実として「本を読む」という行為は面白くない)。噂話ならいくらでも知りたい、聞きたいという欲求のままに行動できてしまう。だから多くの人は勉強よりも噂話をし、噂話をすることで満たされた気持ちになる。
 どうしてそういうふうに噂話をしてしまうかというと、狩猟生活時代から長く続けてきた習慣だからだ。カタストロフを回避するため。飢餓を回避するため。より多く噂話をすることで人類はカタストロフを回避し続けた。私たちはいまだにその時の意識のままに行動しているのだ。
 しかし文明都市の暮らしになって、そういう噂話をする必要はなくなった。そんな噂話をしたところでカタストロフへの対応になるということがなくなってしまった。にも関わらず、私たちの感性はいまだに狩猟採取民時代のままだから、噂話をし続けたいという欲求に抗えない。他人の秘密を暴き、秘密をみんなで共有したいという衝動に抗えない。
 文明の生活がこんなに浸透しているのに、どうしていまだに狩猟採取時代の感性から抜け出せないのか……という問いはごくシンプルだ。ホモ・サピエンスの歴史はおそらく20万年ほどあるのだが、現代のような文明生活をし始めたのがごく100年ほどでしかない。人類の歴史の大半は狩猟採取の暮らしだった。だから人類20万年の歴史ある行動様式から抜け出せないのも不思議はない。

 150人以上の大人数で暮らす社会になると、あまりにも人が多い世界になるので逆に「気にならない」状態になるが、150人以下の社会になると人は常に誰かの秘密を暴きたい、共有したい……という欲求に抗えなくなる。これが人間の本能であるからだ。
 思い出してみても、そういえば小学校、中学校の社会はそうだった。小学校や中学校という社会は1クラス30人という集落社会だから、秘密を抱えることができなかった。あらゆる秘密は暴かれ、共有されてしまう。誰かがオシッコを漏らしたとか、ウンコを漏らしたとか、秘密にしていてくれない。あっという間に全員に知れ渡る世界だった。そこは放っといてくれ……というような話でも、子供たちは面白がって広めてしまう。なぜならそれが本能に基づく行動だからだ。

 噂話が共有された後は、人はその社会を「守ろう」と行動を始める。その集団において不穏当と思われる発言や行動や、すぐに全員が共有する問題事項に格上げされて、やがて誰となくジャッジを下すようになる。ここから「イジメ」が始まる。なぜイジメなんてするのか……視点を反転してみるとわかるが、そこには「正義」の心がある。イジメのもともとの動機は「集団を守ろう」という「正義」から始まる。「これは正義だ」と心で決めた瞬間、倫理から外れても良い……という免罪符が心の中に生まれてしまう。これがイジメだ。
(ネットを見ると、「あの芸能人は昔あの不祥事を起こした……許せない」と言い続ける人も多い。こういう人が限界集落へ行くと、率先して人の秘密を暴き、正義の名の下に制裁を加えても良い……と行動してしまうタイプになるだろう)

 100人以下の集落に暮らすと、直面するのがプライバシーのない世界。あらゆる秘密は暴かれ、共有され、そのなかで不穏当に思える発言や行動をしたと認識されたらただちに排除の対象にされる。なぜならそれが集団のカタストロフを回避するためだから。
 どうして秘密を暴き、共有し、排除するのか……それはカタストロフを回避するために、人類が20万年の歴史の中で繰り返しやって来たことだからだ。「実績ある行動」と言ってもいい。私たちはとっくに「安全な社会」に到達し、昔のようなカタストロフの心配をしなくてもよくなったのに、しかし身についてしまった感覚は忘れられず、いまだに私たちは本能のままに行動をしてしまう。
 150人以上の社会になるとこの感覚が鈍感になっていくが、150人以下の社会になり、全員が顔見知りの世界になると、どうしてもこの感性が顔を出してくる。この感覚は、100人以下、50人以下になるともっともっとキツいものになるし、小学校や中学校といった30人から40人という社会になると苛烈になってくる。30~40人になると1人1人が「警察」になり、常にお互いを見張り、少しでもヘンな発言をしたら激しい糾弾の対象にし始める。小学校や中学校でイジメが起きやすいのは、当たり前だという話だ。
 誰もが小学生や中学生の頃にやった覚えがあるだろう。他人の秘密を暴き、他人のちょっとした言動が気に入らないという理由でコミュニティから排除したり、逆に排除されたり……。どうしてそういうものがなくならないのかというと、それが人間の本能だから。小学生や中学生は理性よりも本能の方が強いから、どうしてもその本能に基づいた行動をしてしまいがちになる。そういう感覚で暮らしていた時代の方が圧倒的に長いから、どうしてもその本能に基づいた行動をしてしまう。これをやめるためには、私たちはもっと高度な存在にならなくてはならないが……それは容易ではない。理性や正義感をいくら身につけても容易ではない。というのも、イジメが発生する要因は、カタストロフを回避するために長年の感覚が導き出した答えであって、むしろ「正義感」に基づく行動でもあるからだ。集団の正義があって、イジメは発生する。だからイジメの発生は止めようがないのだ。

 こうした行動を回避する方法は、そういう行動が本能の声に突き動かされた行動に過ぎない……ということを知り、1人1人が「気を付けること」だ。そういう心得がないままに100人以下の村社会が理想だ……とやろうとしてもうまくいくわけがない。なんの考えもなしに100人以下の村社会を作ったところで、すぐに他人の秘密を暴き合う社会になり、次にイジメが起きるようになってくる。
 私は理性の方が強いから、そういう噂話にまったく興味がない。「○○さんと△△くんが付き合っているらしいよ」と言われても「うん、それは私とは関係ないよね」と考える。「情報の価値」として低い、とすぐに判断する。芸能ニュースにも興味がない。どこぞのアイドルが恋愛をやっていた……とか言われても「いや、そもそも誰だか知らんし」ってなる。
 私は常に「情報の価値」が高いか低いかで考える。いや、考えてさえいない。考えるまでもなく「それを知っても意味がないね」と判断する。噂話、芸能ニュース、どれも情報の価値が低い。知る必要もない。だからテレビ・新聞・ネットのニュースは基本的に何も見ない。見てもしょうがない……という感覚があるからだ。それよりも知識がほしい。本を読まなくちゃ、映画を観なくちゃ……というのが私の価値観だ。
 こういう話をすると、本能的感性の強い人は「それは強がっているだけだ」「自分は理性的な人間とアピールしたいだけだ」……ってこういうことを言う人は本当にいる。こう言ってしまう人は本能的な行動を抑制できないタイプの人だ。しかもそういう本能的行動を「正義」であると疑えないタイプだ。そういう行動を抑制できない人が他人の秘密を暴き、率先してイジメを始めるタイプになっていく。
 そしてそういうタイプの人間は常に一定数確実にいる。なぜならこういう本能的感性の強い人の方が、もしも本当のカタストロフに直面したときに生存の確率が高いタイプでもあるからだ。
 いくら文明化したとはいえ、そういう安寧の時代が永久不変に続くというわけではない。むしろ本能的行動を抑制できない人の方が必要とされる可能性もある。
 逆にカタストロフが来たとき、真っ先に死ぬのは私のようなタイプ。なぜなら集団に馴染めず、排除を受けやすいタイプだからだ。(逆に理性的に分析できるから、カタストロフを目前にしても生存できる可能性もあるが……実際はどっちなのかわからない)

 100人以下の村社会を作ってそこに暮らす……というのが理想ではあるが、それはきっとうまくいかない。集団の人数が少なくなればなるほど、人間の本能的感覚が顔を出してくる。他人の秘密を暴き、全員と共有したい……という行動を抑制できない。次にイジメを始めてしまう。それが「コミュニティと環境を守ろう」という本能的行動だからだ。
 だから集団の中で少しでも協調性のない人を見付けると、全員の問題にして、正当な理由を見付け出してイジメを始める。ただし実効的な行動……つまり「暴力」はダメだ。暴力を始めると自分たちの正義を正当化できない。だからその相手を無視し、自発的に逃亡するように仕向ける。
 そこで一度交流を断絶し、“他人である”と心の中で決めつけると、その相手はもう「認識できる他人」ではなくなる。ただの「他人」となる。その人の家の前でいくらゴミのポイ捨てをしても気にしない。その人を罵倒しても、その人の家にゴミを放り込んでも、正義に基づく正当な行為……と認識される。100人以下の村社会であっても、その中の誰かを「認知外」の存在になってしまう……なんてことはいくらでもあり得るのだ。
 これが100人以下のコミュニティで起き得る人間の問題。
 都市生活者が「人間同士の温もり」という理想を求めて村に移住しても、間もなくこの問題にぶち当たる。個人の秘密は許されずすべて暴かれ、そのなかに不穏当に思える兆候を一つでも見付けられたらただちにイジメの対象となる。
 そういった理不尽にぶつからないためにどうしたらいいかというと、全員が理性的に「情報の価値」が高いか低いか分析できるようにできればいい。そうすれば無闇に他人の秘密を暴いたり、ほんのちょっとした言動で誰かを排除したりとかもしなくなるはず……。
 そうはいってもこれも理想論(100人以下の村に住みたい……という以上の理想論)。果たして人間はそこまで理性的に行動ができるのか。そういう実例が今のところ存在していないから、おそらくうまくいかない。どんなに抑制しあっても、どこかで人類が長年の歴史の中で培った本能が顔を出し、お互いの秘密を共有し、誰かを排除したい……という単純な欲求に逆らえなくなるだろう。
 とはいえ、なにごとも実証が必要。誰かここに書いている心得を身につけた上で100人以下のコミューンを作って暮らす……ということをやってくれないだろうか?


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とらつぐみ
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