一枚の中に、物語を納める”芸術”-アレック・ソスの写真展で感じた「自由」
ノックアウトされた日
東京写真美術館に行った。
そして、私をアレック・ソスさんの写真が完全にノックアウトした。
そんな出会い。
プロってすげえ。
そんな想いを情熱一本背負いで綴りたい。
さぁ、「物語を一枚に納めるアートの世界」へ
写真を知る人も、知らない人も巻き込まれて欲しい。
写真家ではない私が、写真にハマるまで
まず、私は写真家ですらない。
現実のカメラを持つことすら滅多にない人間だった。
それが最近、VRChatを始めたことですっかり写真を撮る世界にハマった。
幻想的な風景や、素敵なアバターは何もかもが新鮮で、気づけば私は記録に残す為にシャッターを切っていた。その内に、『もっと上手く撮りたい』という欲求が芽生えていた。
有難いことに、私は仮想空間の中で写真を撮ることで色んな出逢いに恵まれた。さらに、つい最近出した記事である「愛嬌の魔術師-ろくちゃん-」のフォトエッセイがかなりの反響で、その影響もある。
さらに良い写真を撮って、自分の表現をしてみたい。そういう思いが強くなっていた。
「写真界のメジャーリーガー」アレック・ソス
そんな折、「東京写真美術館」が恵比寿にある事をたまたま知った。
「へぇ?プロってどんなもんなん?」
という中学生も赤面必須の上から目線で訪れることを決意した。
行われていた展示は「アレック・ソス」さんの【部屋についての部屋】という展示会が行われていたのでそちらにお邪魔した。
アレック・ソスさん。
簡単に紹介すると、「アメリカ現代写真のメジャーリーガー」みたいな方であり、個展・ファッションブランドとのコラボ、そしてトークショーなど多岐に亘る活躍をしている。図録の表紙は今回の展覧会開幕から20日間で完売。トークショーは整理券を求めて長蛇の列だったそうだ。
世界的写真家、という奴だ。
そんな方の写真展にたまたま出会える私も世界的な人という事でOK?
さて、ソスさんの写真の特徴だが、一枚一枚の写真にこれでもかというくらいのクリエイティビティと物語、そして構図の美しさがてんこ盛りなのである。
たった一枚の写真から想像の種を植え付けてくれるような、そんな写真が特徴だ。
特に、今回の展示会は「部屋」というものにフォーカスしている。それは彼が宅配の仕事をしていた時に、「部屋は人を表す」と考えたからだそうだ。そのため、主に写真は部屋や空間という、ある種、閉鎖的な空間で撮影された写真ばかりである。
しかし、そこからは無数の「自由」を感じる。
今回は自分の特に好き4枚を紹介したい。
印象的な写真たち
是非、美術館に訪れて実際に間近で観てもらいたい写真の一つだ。
この写真の1番素晴らしいところは構図の完璧さだと感じた。ところで、iPhoneのカメラで撮影しようとするとグリッド線が表示される。このグリッド線は写真術の基礎である「3分割法」を意識できるためだ。グリッドの交点に写したいものを、そして、そのグリッド線を境界線にして写すものを変えると写真全体の豊かさに大きく影響を与え面白い作品になる。
私はこの写真を見た時に、何か感じるものがあった。スマホのカメラを構えるてみると驚いた。天幕と、ステージの台が丁度グリッド線上にあるのだ。また、両サイドの幕も綺麗にグリッドのインサイド、アウトサイドで表情が変わっている様に見えた。
この写真に見た時に感じた、ステージの説得力や迫力は、確かな構図に裏打ちされて発現しているのだと痛烈に感じた。
メディアというものには子供の頃から触れ、紛いなりにも写真というのはテレビや配信などで観ることはあっても、
それらの写真とは一線を画している事が伝わってくるのだ。
露光やシャッタースピード。もちろん補正というものもあるんだろうが、この写真の色合いや荘厳さは空気感をそのまま切り取ったようなリアリティがある。
このステージの上にはどう言った人達が立つのだろう?星条旗は掲げられてるからちゃんとした式典なのだろうか?それにしては中央の絵は色合いこそ荘厳だが内容はそんなに深い物ではない。ステージの高さも、私が通っていた小学校の体育館にあったステージと同じくらいの高さだ。ということはあまり形式ばったりしないことも行われそうだな...
なんて想像が次々と浮かんできて、気づいたら10分ほど、この写真の前で止まっていたような気がする。まだこの写真は全部で6つある部屋の内、1つ目の部屋にある写真だ。随分と序盤である。(ちなみに調べてみると、サーフボールルームというライブ会場みたいだった。実におシャンである)
しかし、序盤であってもこのレベルの写真が出てくるのだから、私はこれからの旅に期待を寄せずにはいられなかった。
全く隙のない構成をしようという意志を感じたからだ。
プロとしての格を見せつけられた私はすっかりこの展覧会に呑み込まれ、次へ足を向けた。
そんな一枚だった。
印象の変わる写真
ステージの写真と同じく、構図の取り方が絶妙だと感じた写真の内の一つ。
写真の左側、中央、右側で全く印象が変わっているのが特徴だ。例によって、写真の中央に立ってグリッド線を覗くと、右と左は綺麗な比率を保っていて美しいと言う事が分かる。このことから、確実に左・中・右で性格を分けようとしているのが分かるし、それはオーディエンスにも印象としてバッチリ感じられる事だと思う。
私がこの写真ですごいと思っているのが、この写真の仕掛けだ。前述したとおり、左、中、右で性格(明るさ)がまるで違う。
そのため、この写真を右から観るか、左から観るかで印象が全く異なって見えるのだ。
左から観ると、手前側が暗い印象の椅子と電球が見える。窓から差し込む太陽光が奥から差し込む形だ。
翻って右から観ると、手前側が明るく、奥の部屋はそこまで暗い印象を感じる事がない。「あっ、奥にも部屋があるんだなー」という位だ。
また中央の写真も右と左でその印象を変えるのに一役買っている。
左側から観ると、絵は厚みがある画材で描かれた事が分かるが、右側から覗くと、その陰影がうまく見えなくなるので、平たい(ともすればチープな)絵が壁に貼り付けられるように存在しているように見える。
これによって、右から観るか左から観るかの違いで感じる物語が違ってくる。その様に思えた。
この写真で特に私が好きなのが、左側に椅子と電球の箇所だ。この写真を三分割法の比率で分割した時、この奥の部屋になる空間が見事にすっぽり収まる。
しかし、そうするとその分割した奥の部屋だけを切り取っても十分に表現を携えた画が浮かび上がってくる事に驚嘆した。
「ここで完成されてる!」
頭の中でその考えがスパークして、思わず声に出ていた。小声だったので許して欲しい。
そう、完成されているのだ。
品の良い椅子が、わずかに差し光る太陽光を背中に受ける姿はなんとも意味深い。それを力足らずな電球が、部屋を照らす奥の部屋に、空間こそ感じるが完全な明るさは感じない。そこに、想像の余白を感じざるを得ない。
「奥の部屋はなんなのだろう」と。
写真の面白さをこれでもかと伝える素敵な写真だった。
「アメリカ!」でいて繊細な部屋
そうか!アメリカの部屋をまとめてるんだった!
と、まさにアメリカらしい自由な部屋である。緑のペンキをぶちまけたコンクリートの壁とその部屋に置かれた椅子のコントラストが実に面白い部屋だなと思った。椅子の足元に置かれているエロシズム溢れる雑誌は、さながらアクセントの様。キュートに感じてしまった。
加えて、このお部屋の素敵な所で、住人のアーティスティックな感性を特に感じる所がある。それは、椅子の左側にある鏡だ。画角の妙ももちろんあるかと思われるが、借景しているようにライトと煉瓦ブロックを写しているこの自由な発想や感性は見ているだけで楽しくなってしまう。
取り上げる題材、被写体となる人。
その人の物語や感性が伝わってくるような一枚だ。
遊び心に溢れた一枚
今回の展示会の主役の様に看板に飾られている写真。この写真一枚から感じるインスピレーション、遊び心というのは私から言及する必要もないだろう。
ホテルの一室(恐らく東京だろうか?)で男がベッドでくつろぎながら携帯で動画か何かを観ている。
この自然で、リラックスしている体勢と都会の夜という構図が、なんとも「現代的なくつろぎ」というイメージにぴったりだ。
構図や題材、理論を積み重ねるのはもちろん大事だが、遊び心がなければそのうち不自由になる。
心の底からこういう写真を撮ってみたいなと思える一枚だった。
おわりに
写真っていいな。
この展示会で率直にそう感じた。
写真を撮られた人々には暮らしが存在して、
そしてこれを撮った撮影者が存在する。
写真が絵と大きく違うところは、「繋がり」を内包している事だと気付かされる。
時代、場所、その人の縁。
良くも悪くも、その繋がりを映し出す。
この写真展を見て、「写真っていいな」と、そう思えた。
「人との繋がり」
「世界との繋がり」
自分にとって、写真はそれを接続をしてくれるケーブルのような物だと思えたから。自分はそういう”繋がり”を感じたい人間なんだと改めて感じさせられた。
最後になるが、私の写真は、この写真展の魅力を10分の1も伝え切ることができていない。だから、今度同じ機会があれば、是非行ってほしい。
また、同様の機会があったら是非行ってみたいものだと心の底から感じたひと時だ。
帰り際、エビスビールBarに立ち寄って、滑らかなエールを喉に流し込みながら考えを纏めていると、自然と筆をとってこの記事が出来上がっていた。それだけ自分にとって影響を与えてくれた時間だったということだろう。
今回、本物のプロの写真術をみて、「こんなの撮るなんて無理だ!」と思うと同時に「自分もそういう人になっていたい!」と思う様になっていた。
アプローチは違うかもしれないが、写真を撮る意義、流儀みたいなものを教わった気がしている。
ただシャッターを切るのももちろん良い。
でも、その時その瞬間を、構図と技術を使えば、
「物語を一枚の中に収めることができる」と感じさせられた。
こんなアート、他にない。
リアルな人の物語、時にはその場所に脈々と続く物語が、幻想の中でシャッターを切る私にも撮ることができれば、一体どんな表現ができるのだろう?
そう、次に繋がる期待を抱かせる、そんな一枚達だった。
文章:虎に翼、僕に孤独。
文量と情熱があまりにも凄すぎてまとまりきらなかった分を掲載。
よければ読んでください。