#01 「好き」で埋め尽くす人生をデザインしてみた
はじめに
とある朝、人生がいつものように嫌になりながら布団にくるまっていた。
そんなことは日常茶飯事なのだが、その日はことさらにその思いが強かった日だった。
頭の中で嫌な事とか、どうにもならないことをぐるりと一巡させて、そして天啓を得たように思い出した。
「そういえば、大谷翔平ってすごくね」
そんなごくごく当たり前のことを、なにか唐突に思ったのだ。
好きな野球を好きなだけやって、今では全世界でもNo.1の選手だ。現在彼は30歳で年棒は200万ドル…日本円にすると2億9千万円が彼の年収だ。凄すぎる。毎年宝くじに100%の確率で当たっているようなものだから、途方もない事だと思う。
でも、冷静に考えて欲しい。
彼は「野球をしているだけ」である。
もっと言えば「好きな事をしているだけ」なのだ。
好きな事を純粋に楽しんでいるだけで2億9千万円だ。
もちろん、その中に含まれる血のにじむような努力はある。
だが、プレーをしている彼の表情は、「もう楽しくて楽しくて仕方ない」としか思えない。だから彼の中で野球の努力というのは、「遊びを更に楽しむための準備」であるんじゃないだろうかと思う。
我々がBBQを楽しむために、お肉やら野菜やら器具とかの調達をして楽しむように、彼はトレーニングをして食習慣を整え、「楽しみにしていた週末の大リーグ」でホームランをかっ飛ばすのである。
そんな彼の姿を見て、思い出して、単純に「羨ましい」と思った。
それは、年棒とか、才能とか、綺麗な奥さんが居るとかじゃなく、ただ単純に「好きなことを純粋に楽しみまくっている人生を生きている事」が羨ましくてたまらなかった。
翻って、自分のことを考えると・・・
あんまり好きではないことに心身をすり減らして残業をし、したくない努力と犠牲をしはらって仕事にすがりついている。
さらに孤独感と絶望感に日々苛まれながら毎日を悲しく生きている…
なんじゃそら!
そう考えてとっても嫌な気分になった
「好き」なことが一つもないじゃないか!!!
この先もそうやって生きていくことになるのだろうか?
死んでもゴメンだし、なんなら今すぐ飛び降りてしまいそうである。
という訳で、考えてみた。
「好き」で埋め尽くす人生のデザインを、大谷翔平みたいに
この文章は、その「好き」に誠実に向き合おうとする私の足跡である。
私が成功するしないは別として、これを読んでいる人たちに
「へぇ。興味深い」
とでも思ってくれれば御の字である。
そして、もし、私がこの先の未来で
「好きに囲まれながら、毎年宝くじに当たる」
くらいになったら肩で風を切って「note界」を練り歩いてやろうと思う。
好きに囲まれて生きたい
・理想の状態
自分がやりたい事で生活することができ、人間的な生活ができている。自分が好きな事、好きなもの、好きな人に囲まれて生活ができて幸せな状態。
・ギャップ、原因
会社員としての仕事(会社とお金に縛られた生き方)。
自己肯定感、自己効力感の低さ。
自分の実業が存在しない。
孤独から生じる人間関係の希薄さ。
・現実
義務感が強い仕事で、好きな人と長くいれない。仕方なく仕事をしていて、絶望感と孤独感に苛まれながら過ごしている状態。
今の人生の所感メモ
自分は仕事の給金や、仕事先の人間関係を槍玉に挙げているわけではないなと客観的に思った。恐らく、そこに関しては妥当性を感じているんだろうな。
むしろ、自分自身の問題が大きく目立つ。
例えば、具体的な自分の実業のプランだったり、自分のやりたい事を見つける+定期的なお金を稼ぐことができることで、大きく改善できるかもしれない。
恐らく、それを邪魔しているのは自己肯定感の低さだろう。人間関係に前向きになれない事や、自分がやっていることや好きなことに打ち込めないのは知らず、義務感のうちに動いているから。人の顔色を伺ってばかりいるからだろうなと思う。
この鎖から自分を解き放つ → やりたい事にのめりこむ → 実業につながる → 収入プランの改善 → 会社を辞めて自分の仕事をしていく
ってことなんじゃないかな?
だとすると、一番大きな問題は自己肯定感だな。まぁそれが一番難しいんだけど。
そのためにも、自分の「好き」なものに集中していくことで、自分の肯定感や効力感を上げられると思う。好きなものに囲まれれば自然と気分が良くなるしね!
全ては連動してると思う。未来に思い描く理想は、今の現実と地続きだ。
だから、今から好きなものに囲まれる努力をしていこうと思う。そのために、「自分が好きな物は何なのか」を一つ一つ真摯に考えていきたい。
1.好きな活動
【好きな「活動」を選んだ理由】
自分が「やりたい事」って結局何なんだろう?って思った。能動的にやっていて、「フロー状態」を感じる時とか、力が湧いてくる時を想像して書いてみた。
やりたい事が「好きな事」だったら幸せだと思う。そうすれば、「やる時点で幸せ」だから。結果のあるなしはどうでも良くなる。だから、お金とか他人の評価に縛られなくなる。
でも、やり続ければ自然と結果はついて回る。「好きな事で生きていく」というのはそういう事だと思う。
神にも他人にも操られない、そういう人生を生きたい。
①「書く」
「書く」という行為は、自分が自然に居られる活動の中で一番最小単位の活動の様に思う。「書く」から全て始まっている。理想とかやりたい事とか、プランとか、アーティスト活動とか。
自分が「書く」時にフロー状態に入る決まりみたいなのがある事に最近気づいてから、それを意識して環境を整えたりしている。
・「フロー状態」に入る条件
スマートフォンに打ち込むとき
「投稿」を考えないで打つとき(SNS上で文章を作成しない)
座高が高い椅子に座る時
歌詞のないインストゥルメンタルの音楽や、英詞の音楽(ジャズやボサノヴァ)がステレオで鳴っている時(イヤホンを装着していない)
自分の服装が整っている時(自分の自己イメージがオシャレだと思えている時)
コーヒーを飲んでいる時
カフェに居る、もしくはカフェみたいな雰囲気の場所にいる時
フロー状態で感じる身体的な兆候
スマートフォンに打鍵している指の感覚が、液晶画面と混じって、まるでボタンを押していないのにボタンを押しているような感覚がある。指先に暖かい感覚、チョコレートみたいに溶けるような感触を感じる時がある。
頭の中で打ち込みたい文章を読み上げるように、スルスルと出てくる時。頭の中と液晶画面に出力されている文字が完全に同期している感覚がある。
その感覚がある時、自分は「フロー」に入ることに成功していると感じる。その時だけは時間とか、しがらみとか、足りない自己肯定感とか、そういったもの全てを無視することができる。
他の活動と比較して「書く」が優れている点
他の活動だとあまり感じられないけど、「書く」動作はフローに入るトリガーが簡単で、最近は訓練というか、書くこと自体が自然体なので数多くこなしてきた。
昔は小説を書いていたこともあって、技術力がついてきているのかもしれない。今では条件を忠実に整えなくても発動することがあるから、「書く」はお手軽な活動だと思う。
お金も必要ない
設備も必要ない
どこでもできる
自分にぴったりの活動だと思うし、たまたま手のひらの中にあって、今まで何十年と生きてきた中で唯一溢れずに持ち続けることができたのが「書く」という動作だった。
書くことで得られる幸福感
だから、できることならずっと書いていたい。日々の気に食わないことでも、嫌なことでも、研究していることでも、好きなことでも、正直対象なんてどうでも良い。
「書く」ことができれば、自分は幸せの入り口に入れるんだと思う。アートでもあり、生活の基本でもある。
理想を言ってしまえば、仕事をせずにずっと「書きたい事を書ける人生にしたい」というのが本音なところかもしれない。
自分にとって「書く」とはそういう存在。だから「好き」だし、自分の中では少し超越した存在だと思っている。
・「書く」で好きなもの
エッセイや、自分の感情を思うままに書くこと
詩(作詞はまだ感覚が掴めていない)
叙景文章(小説はムリ)
ギャグ、オチのある短文章(SS、2500文字以内が得意)
論理構造(フローチャートなど)
ラブレター
ジャーナル
レタリングで作るアート
②「歌う」
歌うことは好き。音楽を作るというより、「自分に合った歌」を歌うのが好き。誰かに聞いてもらい感動してほしいし、「頭を割られたような感覚」を与えられるような表現をしたいと思っている。
ただ、自分では歌が下手だと思っているし、改善しようという気持ちがあまり湧かない。好きだけどどうしていいかわからない活動のひとつ。
歌う中でフローに入る時
ラップ詞のように韻を踏んでいる歌詞を歌い上げている時
低声パート〜自分の好きな音域の歌を歌える時(裏声を使うとフローが解消される)
歌詞にメッセージ性があり、それに同意できる時
自分のオリジナル曲を歌っている時
スタジオで録音している時
自信があり、新規性のある表現をしている時
英語詞をカッコよく歌い上げている時
無理をしない、張り上げない時
こうやって俯瞰してみると、自分は「言葉の流れ」をとても意識しているのかもしれないと思う。
聴く時と歌う時の違い
聴いて楽しい歌と歌って楽しい歌は別だと思う。自分はどちらかというと、歌って表現したい欲求の方が強い。
③「ゲーム」
ゲームをする事は自分の中で大事な要素だと思う。切っても切り離せないもの。それがゲーム。小学生の頃から兄の影響でゲームをやることがあったけど、1日に16時間とゲームをやる事すらあったほど没頭できるものでもある。
最近は、ゲームに没頭する体験は少なくなって来てしまった。恐らく、現代がyoutubeだったり配信社会になってしまった影響で、心のどこかしらに「ゲームは楽しくやらなければならない」というプレッシャーを感じるようになってしまったからかなと思っている。
「何者かになろうとする」社会の弊害が自分の心にも影を落としていることを思うと、ゲームに対して辟易としてしまっている自分を見つける。
それでも、ゲームという存在は自分にとって価値のあるものだという実感は変わらない。
好きなゲームのタイプ
TRPGやボードゲーム(会話主体のゲーム)
RPGゲーム
シミュレーションゲーム(十三機兵防衛圏など)
麻雀、ポーカー
戦略ゲーム(信長の野望など)
ゲームと知的欲求
ゲームは自分にとって、ただの娯楽ではなく「知的欲求を満たすもの」という側面が強い。読書や勉強の代わりに、ゲームを通じてインプットを行っている感覚がある。他の人とは少し違った捉え方をしているかもしれない。
④「会話」
人と会話することに基本的に飢えている。話したいし、知りたいし、見解を述べてほしい。
「私はこういうふうに考えているけど、あなたはどう考えている?」という真理的なアプローチが多い。
言葉遣いが独特な人、経験に裏打ちされた言葉を持つ人との会話が好き。
手垢のついた言葉をさも真理の様に話す人はあまり好きになれない。
後は聞き上手の人が好きかな? 基本的に自分は自説がかなり多いので、永遠に話を聴いてもらって相槌を打って欲しい。そして見解を述べよ。
なので、大学生ノリとか、経験に裏打ちされた言葉が一切でてこない哲学貧乏野郎とか。 そういう人との話は拷問だと思う。 いくら掘っても掘っても、「他の人が」が主軸になってたりしてて、霞と会話してる気分がしてくる。だったら独り言の方がまだ有意義である。
好きな会話のテーマ
哲学、真理、パラドックスに関する会話
(例:「どこからが友達でどこからが恋人?」)学問や専門分野の話(相対性理論、量子力学、哲学など)
その人の心に根ざした会話
(例:「最近の世の中は自己肯定感を外部化しているよね」)音楽や歌詞の話
(例:「星野源は最高」)
基本的に心を問う会話が好きだ。 当たり障りのない会話はあまり好まない。
会話がしやすいのは、TRPGやネット上の友達、Bar、上司との面談など。逆に、歳が近い人や家族との会話はしょーもない話が多くてすぐに飽きる。
⑤「思考」
「思い悩む」というのは自分の長所だと思っている。
そうじゃなかったら、「あんまりクヨクヨ悩むなよ!」って言われた瞬間キレ散らかすことも無い。 クヨクヨ悩んで何が悪いんだ?
悩む才能と自己肯定
悩むことは才能だ。私はそこに関して他の追随を許さないほど傑出してる。
朝起きて、その2秒後くらいには
「愛とは何だ?よくわかんねぇ」
と思ってたりするほどだ。
寝る時もまた然りで、
「最近の若者ってのは、何者かになりたがろうとするあまり結果主義に陥ってる。でも、その結果主義って悪いものではないよな?だけど、どうしてこんなに心に違和感があるんだろう。例えるならやば眠いzzz…」
みたいなことは日常茶飯事である。寝るより気絶に近い。
そもそも、思い悩む才能がなければこんなに文章を書けないし、書かないだろう。「悩める才能」があるのだ。
そして、自分のこの特性について、そこまで悪い物だと思ってない。基本的にパッシブで発動されるものだから、消そうにも消せないし、どう考えても人と違う「ユニークスキル」だと感じるからだ。
大谷翔平がユニークなように、俺もまたユニークである。なら、否定すべきじゃない。 私は考える事が好きである。
好きな思考
社会に対する通説や普遍的な思考に疑念を抱いて問いを立てること
心の違和感を考えること
好きなものがどうして好きなのが考えること
嫌いなものがどうして嫌いなのか考えること
難しい論理や、分かりづらいことの例え話を見つけだすこと
人の感情を推理したり考察すること
社会の流れや因果関係を考えること。原因究明とその改善を考えること
こうして書くと、すごい能力のように思えるから不思議だ。でも、冷静に俯瞰して見てみれば「面倒事が大好きな人」という難儀な人物像が浮き上がってくる。
⑥「独創性」
人と同じ事をするということは自殺行為だと思って来た。
これは過去の話になるが、私は小学生の時からかなりシャイな人間だった。中々、自分に価値があると思えない、自己肯定感の低い子供だったように思う(それは今でもそうなんだけれど)
今と違うことは、それを「戦略的」にシャイであることを帳消しにしようと考えていたことである。
つまり、「人と違うことができる必要な人材になる」という事だ。
そうすれば、シャイ人間でも人が集まらざるを得ない訳だ。その考え方が染み付いているので、自然と人と違うことをする、考えるのが好きになっていった。
まぁ、独創性というのは諸刃の剣だけど。人の価値をいかに他人と違うかという所で測ろうとしたり、値付けまがいなことを考え出すという超ド級のコミュニティ弊害がある。これにかなり苦しめられている。
しかし、それが骨まで染みているのも事実だ。人と違う事をしてるという実感がある時は「スカッと」する。だから好きだ。多分これは一生変わらないと思うし、なんならこれからの人生は特に、独自性の高い人生にしたいとも思ってるからもはや病気である。
好きな独自性の形
既存の分野で新しいことをする独自性
既存のものを掛け合わせて作る独自性
パクって作り変える独自性(フォーマットを活用)
ハイセンスにまとめ上げる独自性
省力で大きな結果を出す独自性
文章力や世界観を活かす独自性
#01はここまで
まだまだ先が長いのだが、一旦ここまでにする。
それにしても、「好き」というものをここまで掘り下げて考えみたのは初めてだったのでとても新鮮な感じがした。
さらに自分の「好き」に迫っていきたいものである。
「好き」の輪郭がぼやけてしまえば、自分が何者かであることを忘れてしまいそうになるから。
「好き」で人生をリデザインする旅はまだ始まったばかりだ。
書いた人:「虎に翼、僕に孤独」