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『声』第四章 巡査長 音無由紀夫…2035年6月【事件のあと】
◆あらすじ
事件現場周辺で聞き込み中の刑事、音無は課長から至急署に戻り、通り魔事件の被疑者、相神の取調べを担当するよう命じられる。署長は被害者が警察キャリアであることを気にしており、不特定多数を狙った通り魔事件として立件したい意向なのだ。取り調べができるのもあと三日。相神は「内なる声」に従って行動したと供述していた。周囲の意見に反し、音無は相神の言う「内なる声」の存在を信じた。同じ相神という姓の幼なじみ、崇が神の声を聞けるのを知っていたからだ。相神の一族は遠い沖縄の離島で代々、優秀なシャーマンを輩出していた。音無は友の話を呼び水に、相神からの供述を引き出すことに成功する。
◆本文
(一)呼び出し
「コーヒーでも飲もうや」
「え? もうサボるんですか」
まったくこの若造は口の減らない奴だ。すぐに生意気な口を利く。
「馬鹿野郎。今の聞き込みの総括だよ。総括」
手近な店に飛び込む。昔ながらの店構えはカフェというより、喫茶店だ。おそらく店のオーナーであろう蝶ネクタイの男性がサイフォンを使って、コーヒーを立てている。挽き立てのコーヒー豆の香りが店内に漂う。周囲に人がいない奥まった場所にあるテーブルを選んで座る。メイド服を着た女性店員がやって来た。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
二十歳くらいだろうか。可愛らしい子だ。柿谷の鼻の下が果てしなく伸びている。俺も柿谷も共にブレンドコーヒーを注文した。遠ざかる女の子の後ろ姿を目で追う後輩の馬鹿面に呆れる。
「いいっすね、この店」
馬鹿の戯言は無視して問う。
「どう思う、あの男?」
「城田ですか? そうですねえ……」
遠くから消防車のサイレンの音。またか。今年の春は、管内での火災の発生が驚くほど多い。
「今年は続くな」
「そうですね」
「で?」と問い直す。
「なかなかのやり手なんじゃないですか。結構、繁盛してるみたいですし。高そうなジャケット、着てましたよね。あれブランド物ですよ」
「それだけか?」
「はい、それだけです」
呆れた奴だ。城田のピリピリとした表情に何も感じなかったのか。
「あいつ、なんか隠してると思わなかったか?」
「え? 何をです?」
「はっきりとは分からんが、怪しい。お前、本当に何も感じなかったのか?」
「はい、感じませんでした。どこでそんなことが分かるんですか?」
「目だよ」
「目?」
「そう、目だよ。奴の目には色濃い警戒心が宿っていた」
普通、警察が訪ねて来て手を叩いて喜ぶ者はいない。それにしても……。
城田の警戒心に尋常ならざるものを感じたのだ。
「刑事に必要なのは観察力だぞ」
「はい、勉強になります」とまじめな顔で答える。
この若造は、ときどきだが、殊勝な態度をとる。
「まあ、今回の俺たちの聞き込みには関係なさそうだけどな」
コーヒーが運ばれてきた。先ほどの女の子だ。再び柿谷の鼻の下が伸びる。
女の子がいなくなってから俺は言った。
「あんまり、ジロジロ見るな。ただでさえ俺たちは堅気には見えんのだからな」
「そりゃ、音無さんはね。僕は普通の人に見えますよ」
「馬鹿言うな。お前も最近は刑事のいかつい顔になってきてんだ」
「そうですか?」と若い刑事はおどけたように答えた。
俺は、署より巡査長を拝命している。巡査長とは正式な格付けではない。俺の職位は単なる巡査で、それは警察組織のなかで最も低い格付けだ。出世には全く興味がない。警察内での昇進には試験がある。法の番人たる警察官には法律の知識が欠かせないのだから、それは仕方がないことだ。机に噛りついて勉強するより、靴底をすり減らしながらこうして聞き込みをしている方が、性に合っている。
最近の若い職員には、警視庁の総務部が人気だ。定時に上がれて、休みも取れる。昇進のための勉強をするには都合がいいというわけだ。特に刑事にはなりたがならい。何かあれば、すぐに休みは潰れるし、大きな事件の担当になれば、泊まり込みが続き、家族にも会えない。汚れ仕事もある。俺が若い頃は死体の始末を素手でやったものだ。初めて溺死体を見たときはしばらく肉が食えなかった。
供給が細ったため、経験豊富な刑事が減り、捜査技能の引き継ぎが警察全体の課題になっている。
俺が所属しているのは刑事課強行犯係。守備範囲は実に広い。盗犯と知能犯以外の事件はすべて強行犯係が扱う。昨今の治安の悪化により仕事が増えていることも人員不足に拍車をかけている。
俺が巡査長を命じられたのはそのような背景があってのことだ。つまり、俺の役割は、馬鹿面下げたこの若者を指導し、一人前の刑事にすることなのだ。
「音無さんもこの事件は、単なる通り魔事件だと思ってますか?」
「直感的に言うと、ノーだな」
「そうですよね。この広い東京で、中学校の同級生が偶然に事件の被害者と加害者になるなんてことないですよね。それに――」
柿谷が空になったコーヒーカップをソーサーの上に戻す。
「被害者二人の子どもがいずれも同じ音楽教室に通っていたってことも気になります」
「………」
「音無さん、考えています?」
「考えてるよ」
「警察官が被害に遭っているっていう点はどうなんですかね? しかもサッチョウ(警察庁)のキャリアでしょ。何か動機に関係してないですか?」
「チョウバ(捜査本部)に戻ったら、その話は禁句だぞ」
キャリア組である署長が、今回の事件に対して非常に神経質になっているからだ。
「分かってますって。ところで―――」
「なんだよ」
「奥さん、まだ帰ってこないんですか?」
一週間前、妻が出て行った。ダイニングテーブルの上に置手紙を残して。そこには、しばらく実家に帰ります、とだけ書いてあった。
喧嘩をしたわけでも、俺が浮気をしたわけでもない。埼玉の実家に戻った妻から、一度だけ電話があった。これからのこと考えたいの、そう妻は言った。俺に何か不満でもあるのか、と半ば喧嘩腰で尋ねたが、彼女は何も答えなかった。理由は分かっている。妻の気持ちも分かっているのにあからさまに冷たい態度をとってしまった。
心のなかにある気持ちを素直に言葉にできない自分がいる。
「お蔭様で、やもめ暮らしだよ」
いいもんだな、独身は、と強がって見せた。
とそのとき、上着の内ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。
「はい、音無です」
〈俺だ〉
課長の恩田からだ。
〈いまどこだ?〉
「現場近くです」
〈すぐ戻れるか?〉
「はい、戻れますが、何か?」
〈取り調べ、ちょっと手こずっててな。詳しいことは戻ってからだ。じゃあ、待ってる〉
通話は切れた。
「帰るぞ」伝票を乱暴に掴んで、席を立った。
(二)捜査資料
署に戻った俺は、刑事課長、恩田守から通り魔事件の被疑者、相神圭吾の取り調べを担当するよう命じられた。
若い取調官が手玉に取られている。対話の主導権を相神に握られていて、動機に繋がる話を聞き出すことができないらしい。このままでは有効な供述調書が作れない、と恩田は嘆いた。
「何で俺なんですか?」
「あの変人の相手をできるのはお前しかいないよ」
褒められているのか、馬鹿にされているのか、よく分からない。
「ところで、署長の意向は変わらずですか?」
「ああ」
恩田は、苦虫を潰したような顔で返事をした。先ほど、柿谷が言っていたように、被害者と被疑者の間に何らかの接点があったのではないかという意見が捜査員のなかから出始めている。署長は被害者である警察キャリアの勝山修と相神との間にある何らかの関係が暴かれてしまうことを恐れていた。署長の意向が強く働き、捜査本部は、本件を通り魔事件として立件する方針を変えないのだ。
「勾留延長は?」
「ない」と恩田はきっぱりと答えた。
「それも署長の方針ですか?」
「そうだ」
「ということは、取り調べができるのは……」
「あと三日だ」
恩田は振り絞るように言った。
通常、犯人逮捕後七十二時間以内に、裁判所に対し被疑者の勾留申請を行う。勾留期間は十日間。捜査や取り調べに時間を要する場合は、更に延長を求めることができるが、署は延長申請の意向を示していない。
恩田も捜査本部の方針には疑問を持っている。真実は一つ、が恩田の口癖だ。キャリア同士の馴れ合いに屈するのは彼の信条に反するはずだ。悔しくて仕方がないのだ。
恩田は最後に行った。
「音無、お前の好きなようにやれ」と。
さてと。
明日からの取り調べに向けて、資料を手に取った。
担当医の記録
[浅倉正美]
(ア)担当医 X市民病院 江川好美
(イ)執刀開始時刻 令和十七年六月八日午後七時十五分
(ウ)創傷の部位および程度 ①左胸上部、心臓の上側、深さ九センチメートルの刺創②
左右手掌に防御損と思われる切傷 ③①によって生じた肋骨の骨折
[勝山修]
(ア)担当医 G医大附属病院 寺内壮太
(イ)執刀開始時刻 令和十七年六月八日午後七時二十二分
(ウ)創傷の部位および程度 ①右背部、肺の手前、深さ七センチメートルの刺創②
左頬骨に達する深さ十ミリメートルの切創
[今橋拓海]
(ア) 担当医 G医大附属病院
(イ)執刀開始時刻 令和十七年六月八日午後七時三十九分
(ウ)創傷の部位および程度 左腹部、深さ八センチメートルの刺創。胃壁上部の損傷。
三名とも大量の失血だったと聞いている。複数の目撃者が、現場は血の海だったと表現している。実際の現場は見ていないが、陰惨な情景が目に浮かぶようだ。被疑者、相神圭吾は明確な殺意があったと認めている。大学生、今橋拓海を除く二名に対しては致命傷となる部位を意図的に狙っている。しかし、何か腑に落ちない。
力のある男性に対しては背後から襲いかかっている。勝山修の身長は百八十センチと、大柄だ。相神圭吾より八センチほど高い。しかも柔道は黒帯。流石のキャリア殿も後ろから襲われたのでは、何の抵抗もできなかっただろう。
三名を襲った凶器の写真がある。全長二十八センチ、刃の長さ十五センチのサバイバルナイフだ。どす黒く変色した血液が全体にこびりついている。相神はこれを、アウトドア用品の通販サイトで購入したと供述している。しかも同じものを二本。こちらはすでにウラが取れている。犯行に使用したのは一本だったが、もう一本は逮捕時に所持していたリックサックのなかに忍ばせていた。犯行には計画性があったと判断してよさそうだ。
しかし、相神には本当に殺意があったのだろうか。
浅倉正美、勝山修について言えば、傷があと数センチ深ければ、今頃二名ともこの世には存在していなかったことだろう。刃渡りは十分にあったはずだ。刺した瞬間にためらいが生じたか。
逮捕時に撮影された写真が三枚。いずれも上半身の写真で、正面、横、左斜め前からのショットがそれぞれ一枚ずつある。なかなかの美男子だ。だがその表情には鬱々たるものが感じられた。撮影を担当する刑事に、カッコよく撮ってくれよ、と言ったらしい。
この太々しさと犯行時のためらいはどうにも結びつかない。
前任者のメモをしっかり読んでおけ。
恩田はそう言っていた。大学ノートを開く。そこには取調官の性格を裏づけるような几帳面な字がびっしりと並んでいた。
[六月九日午後一時十七分取り調べ開始/初日]
午前中は写真撮影、指紋採取、人定質問を行う。午後から本格的な取り調べを開始。昨夜はぐっすり眠れたとのこと。「刑事さんは調書をつくりたいんだろ? 話すことないから、適当につくってくれていいですよ」「三人がしんだら死刑になるか?」と言う。死刑になるのが怖いのかと聞くと「全然」と答えた。雑談には応じるが、事件の話になると口をつぐむ。
[六月十日午前九時三十二分開始/二日目]
昨日に続き、犯行の動機については語らず。午前中はほぼ無言。唯一の会話は、欠けている小指の話。相神の左手の小指は第一関節から先が欠損している。それはどうしたのか、と聞くと「昔つきあってた女と別れ話で口論になった。根性のない男は嫌いだって言うから、目の前で切り落して見せた。小指の先は、女の口のなかに押し込んでやったよ。愉快だったぜ」と楽しそうに答えた。午後は検察に移動。検事調べ。勾留申請。十日間の勾留が決まる。
[六月十一日午前十時五分開始/三日目]
この日は、朝から妙に機嫌がいい。鼻歌を歌いながら、部屋に入って来た。笑顔を見せる。その鼻歌は何という曲かと尋ねると「曲名は知らないが、たぶん有名な曲だよ。五年くらい前に、子守唄で子どもを寝かしつける母親の動画が流行っただろ。そのときに覚えた曲さ」と答えた。機嫌が良かったお蔭で事件の日の足取りが確認できた。証言の内容は、防犯カメラなどの記録と一致していた。また犯行に使用したナイフの購入方法についても確認が取れた。動機については依然、語らず。
[六月十二日午後二時十二分開始/四日目]
午前中、検察へ。検事による中調べ。前日に母親が差し入れを持って、来署した。禁止されているタオルや食べ物を除き、下着や着替えなどを預かった旨を伝えたところ、態度が急変。昨日の態度とは打って変わって、不機嫌になる。「預かったものは全部、捨ててくれ」と言う。親子の情に触れて、更に態度が軟化するかと期待したが、逆効果だった。「本当に殺したかったのはアイツだったんだ」と激高。母親の代わりに尊い命を奪うことを考えたのか、と聞くと「そんなことはテメーで考えろ」と怒鳴り返してきた。
[六月十三日現場検証]
午前中から現場検証。移動の車のなかで、例の鼻歌を歌い出す。同行していた同僚が相神に向かって「殺人未遂の現行犯が、鼻歌か。この人でなしが」と怒鳴る。涼し気な顔で「鼻歌は犯罪か」と応酬。ちょっとした言い合いになる。興奮しているのは同僚の方で、相神は至って冷静な口調だった。現場では、事件当日の行動について確認。比較的、素直に応じていた。帰りの車には、行きと別の同僚が同乗した。移動中、「刑事さん、昨日は興奮して悪かった。明日からは心を入れ替えて、何でも話すから」と言う。
[六月十四日午前十時八分開始/六日目]
犯行動機について聞く。「声が聞こえるんですよ」と言う。その内なる声の導きに従って行動したと説明。俄かには信じがたい。その声の主は誰かと尋ねたところ、そんなことは知らないという返答。声が三名を殺せと命じたのかとの問いには、「いや、それはない。今橋を刺したのは、女の前に立ちはだかったからだよ。殺す気はなかったから、腹を加減しながら刺した」と答えた。更に、「内なる声のままに生きると決めている。俺は善悪の判断ができる男だよ。でもその声は人間の倫理観に従わない」と説明した。単なる責任逃れの発言ではないか?
[六月十五日午前九時二十四分開始/七日目]
被害者との接点について確認。今橋拓海を除く二名とは顔見知りではなかったという。殺す相手は誰でもよかったのかと聞くと、「いや、狙ったのはあの二人だ」とはっきりとした口調で答えた。知らない相手を何故、殺す必要があったのかと聞くと、「声に従った」との返答。
メモはここで終わっていた。
内なる声。しかもこいつの姓は相神。
昔の記憶が蘇ってきた。
(三)問答
「おはようございます」
柿谷が眠そうな顔で、捜査本部が設置された会議室に入ってきた。
「遅くまでかかったのか?」
「はい、終電でした」
柿谷も、今日から始まる取り調べに補佐官として参加することになっている。補佐官の仕事は記録係やお茶汲みなどの雑用だ。補佐官が取り調べを行うことはないが、柿谷も俺と一緒になって資料を読み込んでいた。
「前任者のメモも読んだか?」
「読みました」
「どう思った?」
「ほとんど嘘じゃないですかね」
指を切り落として女の口に詰めただの、どこからともなく聞こえてくる声に従って事件を起こしただの、相神の話は現実離れしているように聞こえる。だが俺はあいつのしゃべることがすべて嘘だとは思っていない。
「そろそろ時間ですね。じゃあ、警務課から記録用のPC、借りてきまあ~」
語尾があくびでよく聞き取れなかった。
柿谷とともに取調室に移動する。殺風景な部屋で、被疑者を待つ。
被疑者が脱走できないよう鉄格子が取りつけられた窓から、薄明りが差し込んでいる。今日はあまり天気が良くない。
「音無さん、奴をどう攻めるんですか?」
「そうだな……。とりあえず好きなようにしゃべらせてみるかな」
とそのとき、複数の足音が聞こえてきた。
近づいてくる。
足音は部屋の前でピタリと止まった。ドアが開く。
建付けが悪くなっており、ギーと金属が擦れる嫌な音がした。
留置係に連れられて、相神圭吾が入ってきた。写真の通りの男前だ。長い前髪がだらりと垂れ、左目を隠しており、隠れていない右目だけが、こちらを睨んでいる。相神は勢いをつけてドカッと椅子に腰を下ろす。太々しい態度だ。
「今日から取り調べを担当する音無だ」
「どうも。前の刑事さんは?」
「もう来ない」
「俺のせいで?」
「そうだ」
「刑事さん―――」
「なんだ?」
「おれは、結構まじめに話をしているよ。ときどき冗談で嘘を言うけどね。
だいたいは本当のことをしゃべってる。俺にだって話したくないこともある。前の刑事さんにも言ったけど、その辺は適当に書いてくれて構わない。裁判で、どんな判決が出ても、俺は異議を唱えたりしないから」
不敵な笑顔を浮かべ、そう言った。
「分かった。まあ、ゆっくりやろうや」
相神は、能弁だった。
―――家族はどんな人たちだ?
「親父は信用金庫の課長だったよ。小学五年生のときに両親が離婚をして、それ以来一度も会っていない。どこで何してるんだろうね。生まれ故郷の沖縄にでも帰ったかな? 離婚の原因は親父が会社を首になったからだよ。証券を偽造して、年寄りからお金を騙し取っていた。被害総額は一億円近かったらしい。よく飲み歩いてたよ。夜になっても帰ってこないから、俺は親父の顔をほとんど見ていない。でも俺は親父を軽蔑していない。なぜなら本能に忠実だったからな。それに引き換え、ババアは最悪だったよ。あっ、ババアって母親のことね。頭の悪い女だった。自分が頭悪いから、俺を何とかしなきゃと必死だった。九九の暗記が何より嫌だったな。まだ三歳か四歳の頃だよ。たし算、ひき算の練習もまだなのに、九九だよ。馬鹿でしょ。覚えるのは風呂のときだった。間違えると湯舟に沈められるんだ。頭を抑えられてね。もう死ぬんだって、何度も思ったよ。離婚した後、俺はババアに引き取られた。それまで専業主婦で、しかもちょっとイカれているから、仕事は何やっても長続きしない。すぐに生活保護に転落だよ。頭悪いから、生活保護の申請だって一人でできないの。ソーシャルワーカーに連れられて、役所に出かけていくババアの後ろ姿見たとき、思ったよ。ぶっ殺してやりたい、ってね。親父がいた頃は、結構いい生活していた。まあ汚いお金でだけど。でもババアと二人になったら生活が一気に変わった。下級市民に転落さ。ところでさ、下級って表現、刑事さんはどう思う? 昔はさ、上流階級とか下流市民みたいな言い方だったけど、最近は上級階層とか下級市民って言うよね。上級、下級って言い方には絶望感がある。だってさ、上流、中流、下流って一本の川で繋がってるわけでしょ。でも上級、中級、下級には連続性がない。上流から下流に流されていくことは、もちろんあるけど、力強く泳げば下流から上流にだって移動できる。希望があるよ。その点、上級と下級という表現には諦めと絶望しか感じない」
―――その小指はどうしたんだ?
「前の刑事さんから聞いてないの? そうか、聞いてないのか。中二のとき、ババアとの約束で切り落としたんだよ。数学のテストは百点を取ることが絶対だった。一点でも足りなかったら、その都度一本ずつ指を切り落とせと言われていた。中一のときは無事、百点を取り続けて指は一本も欠けなかった。俺頭よかったからさ。でも中二になって最初のテストで一問だけ計算ミスをして、九十五点を取った。まあババアにしてみれば、ただの脅しで本気じゃなかったと思う。まさか俺が本当に指を切り落とすなんて思ってなかっただろうよ。でもやってやったよ、約束通り。俺は。切り落とした小指の先を小皿に盛って、食卓に並べてやった。ババアは気絶したよ。それから、俺への干渉は止んだ。やってよかったね。あのとき勇気を出さなかったら、今も俺はババアの奴隷だったかもしれない」
―――お前、なかなかいい男じゃないか。モテたろ?
「モテたよ。女に不自由したことはないな。俺の初体験の話しようか? 高一のときだよ。あれは人生の転機だったね。その頃には、ババアの拘束はすっかりなくなっていた。でも人生を支配されている感覚はずっと消えなかった。小さな頃から暴力を受け続けたからだよ。気づいたんだ、暴力を与える側に回ればいいって。試してみようと思って、ナイフを懐に潜ませて、夜の街を歩き回った。人気のない路地に入ると、三人の不良中年が一人の女に乱暴しようとしていた。そのとき、初めて聞こえたんだよ、内なる声が。声は殺せ、と言った。考える前に身体が動いていた。一番鈍そうな奴の脇腹を刺した。加減が分からず、あまり深くは刺さらなかった。そいつの腹、贅肉でブヨブヨしてたな。他の二人はすぐに逃げた。刺した男を地面に押し倒し、今度はナイフを喉元に当てた。そいつは止めてくれって、泣きながら俺に頼んだよ。すーっとした。結局、男は殺さず転がしたまま、女の手を取ってその場から逃げた。女と一緒に走っているとき、顔に当たる風が気持ちよかった。女はたぶん二十歳くらいだったと思う。イケてたよ。いい女だった。そいつと寝た。関係は一回だけ。名前も聞かなかった。何か大きな力を手にした気分になった」
―――一年だけ仕事してるな。楽しかったか、労働は?
「そんなわけねーじゃん。派遣登録して、自動車部品の会社で働いたんだ。そのときは真面目になろうと思ってた。でも駄目だった。何で一年も続いたかって? そりゃ、美味しいこともあったわけよ。社員の奴らって、偉そうでさ。俺たち派遣社員を見下しているわけ。社員に澤田って男がいてね。当時、三十歳くらいだったかな。結婚したばっかりだって言ってた。会社のなかが迷路みたいでさ。一度迷って奥のほうに入っていっちゃったわけ。うろうろしている俺に澤田は言ったよ。ここはお前ら派遣社員が入って来るところじゃないってね。下等動物でも見るような眼つきだった。ムカついたから、仕返ししてやった。当時、つきあってた女にホテルに誘わせて、素っ裸の写真、撮らせてさ、会社中にばらまくぞって脅してやった。その写真がさ、笑えるんだよ。場末のラブホテルみたいなところでね。丸いベットの上に大の字になって、カメラにピースサインだよ。馬鹿面だったね。それから澤田は、毎月俺にお小遣いくれるようになったわけ。十万円。半年くらいで勘弁してやった。やり過ぎて警察なんかに行かれちゃうと面倒だろ。最後、お別れにボコボコに殴ってやったよ。顔が変形して誰だか分からなくなるくらいね。ああいう奴らって馬鹿だよね。自分が何者でもないことに気づいていない。正社員だからって、派遣社員より、人間としての格が上であるわけない。優れているわけでもない。哀れな男だよ」
―――今橋拓海くんの意識が戻ったそうだ。
「そうか。それはよかった。今橋には申し訳ないことをした。あいつ、確か母親と二人暮らしだったよな。今橋にもしものことがあったら、母親は悲しむだろう。悪かったと伝えてくれ。今橋と仲がよかったかって? 顔を知っているだけ。学校では一度も話をしたことない。そもそも俺は、友達いなかったしな。別に淋しくなんかなかったよ。今橋が現場にいたことは、もちろん知らなかった。突然、目の前に現れたから驚いたよ」
(四)真実
* * *
きたばやしかず @KAZUYUKI_Kitabayashi
被害者の二人、子どもを虐待してたらしいじゃん。ひでー話
スマイル・パンチ @0022smile-punch
しかも子どもを闇塾に通わせてたんでしょ。男の人の方は警察官なのにね
おぎママ @Ogihara-Mam1207
二児の母です。うちだってお金があれば、塾に通わせたいです。それがたとえ違法であっても。親なら誰でも子どもにいい教育を受けさせたいと思うはず
ジョーカー @Joker2019
金持ち死ね!
秋山りょう @Ryo_Akiyama_GTR
子どもを虐待し、違法行為に手を染めた者を抹殺しようとした相神圭吾氏はその名の通り神である
すぎ花粉 @SUGIMOTO_kafunshou
相神は神、深く同意!
* * *
注文したビールが運ばれてきた。
ここは行きつけの飲み屋。茄子の揚げ浸しが気に入っている。妻がいなくなって、毎日のように通っている。いつもは一人だが、今日は柿谷が一緒だ。普段なら日本酒でちびちびやるのだが、最初の一杯だけ、日本酒を飲まない柿谷に合わせた。時刻は夜の九時を少し回ったところ。夕方から飲み始めた客がバラバラと帰り始めた。すでに客は疎らで、俺たちにとっては都合がいい。
「お疲れ様でした」
互いのジョッキを軽くぶつける。乾いた喉にビールを流し込み、お通しの胡瓜と竹輪の和え物を突く。
「マルガイ(被疑者)、よくしゃべりましたね」
「そうだな」
「あいつの話、どこまでが本当で、どこまでが嘘なんですかね?」
そうなのだ。俺もそれをずっと考えていた。欠けた小指の話は、前任者のメモと全く異なっていた。どちらが本当なのか? それともどちらも嘘なのか? 何でもない雑談では能弁だったが、事件の話になると途端に口数が少なくなる。柿谷は相神の話のほとんどは嘘だと主張する。
「音無さん、知ってます? マルガイ、今ネットの世界でちょっとしたヒーローになってるんですよ。ちょっと待ってください」
柿谷はそう言うと、テーブルの上に置いてあったスマートフォンの操作を始めた。
ほら、とスマートフォンの画面を見せられた。
「なんだこりゃ」
そこには、米田を賛美する言葉の数々が並んでいた。
相神は神である!
その通り!
相神様、万歳!
書き込みからは、人々の熱狂が感じられる。
「何日か前から、こんな感じです」
今回の捜査にはITチーム二名が参加している。最近は、地道な聞き込みより、SNSの書き込みを探ったほうが、手っ取り早く有益の情報が得られるのだ。今回の事件は人通りの多い通りで起きたため、大量の書き込みがあり、事件の様子を伝える動画も数多く見つかった。そのため、現場検証は非常にスムーズだったと聞く。
柿谷が懇意にしているITチームの一人が、相神の評判がネット上で凄いことになっていると教えてくれたのだそうだ。
少し離れた場所にある壁掛けのテレビに目を移す。NHKのニュース番組が流れている。
淡々とした女性アナウンサーの声。
「失業率が十パーセントを超えました、三十四歳までの若年層に限れば、その率は十六パーセントに跳ね上がります」
続けて労働問題に詳しいという白髪の大学教授が、画面に映し出される。
「欧米のように転職市場が形成されておらず、従業員の解雇条件の厳しい我が国にあって、ここまで失業率が上昇したことは未だかつてありませんでした。二〇〇〇年代に入って崩壊したと言われる終身雇用制度ですが、実は多くの大企業では依然、制度が維持されているのです。失業率十パーセント超えの状況は、中小企業の相次ぐ倒産と、労働市場に入れない若者たちによって、生じたものです」
世の中に鬱々とした空気が広がっている。失職は主に中間層で起きている。この層は平均所得も減少しており、社会階層は上下に二極化している。消費税はとうとう十五パーセントになったが、お粗末な税制で所得の再配分機能は働いていない。
こうした社会状況を背景に、俺たちの仕事は増え続けている。口減らしのために親が子を殺す。職を得られない若者が麻薬の売人になる。窃盗や詐欺も急増している。ヒステリックに苛立つ無数の人々の顔が想い浮かんだ。
人は、希望を失いかけたとき、神にすがる。そして、犯罪者ですら神になる。
「もっとうまい酒が呑みたいな」と一言呟いた。
相神の取調べ二日目。
午後からは検察で検事による最終調べがある。したがって今日は、昼食までの半日しか時間がない。そして、明日が最終日だ。恩田に再度、確認したが、勾留延長は絶対にないとの返答だった。
相神が鼻歌を歌いながら、取調室に入って来た。そのメロディは静かでとても美しかった。相神のハミングは、逮捕のとき、取り調べのとき、現場検証に向かう車のなかで、常に関係者を不快な気分にさせた。なぜなら、それがあまりに場違いだったからだ。
柿谷が何かを訴えるようにこちらを見る。後で確認しよう。
「ご機嫌だな」
「いや別に」
「鼻歌ってのは、機嫌のいいときに出るもんじゃないか」
「普通の人はね。俺をそこら辺の人と一緒にしてもらっちゃ困るな」
「そうか、そりゃ失礼したな」
「刑事さん―――」
「何だ?」
「警察官は拳銃を持ってるよね。気に入らない奴を撃ちたいと思うこともあるかい?」
「そりゃ、あるな。でもな、刑事っていったって、いつも拳銃を持ち歩いているわけじゃない。アメリカなんかと違って、日本では簡単に発砲はできないからな」
「じゃあ、刑事さんが大切にしている人の命を奪った奴が相手だったらどうだい?」
こいつは遊んでる。人の気持ちの深いところにある感情をえぐり出して遊んでいるのだ。「撃たない」
「じゃあ、もし刑事さんが警察官じゃないとしたら? この世には法律もない。だから裁かれない。ただ目の前に殺しても殺し足りない憎い奴と、一丁の拳銃があるだけだ。どうだい?」
「……」
答えられなかった。
「撃つよ。刑事さんはきっと撃つね」
相神はそういうとゲラゲラと笑った。世界中の人間をあざ笑うように。
「今度は俺が質問する番だ」
相神が少し身構えた。核心に迫る対話が始まると察したのだろう。
「内なる声ってやつはいつも聞こえるのか?」
一瞬の間をおいて相神が答える。
「滅多に聞こえない。定期的に聞こえるわけでもない……。なに、刑事さん、俺の言うこと信じてるの?」と相神は茶化すように言った。
「ああ、信じている。お前の他にもう一人―――」
相神の眼を凝視する。
「もう一人、神の声を聴ける奴を俺は知っている。いや、知っていた」
パソコンに向かって背を向けていたか柿谷が、驚いたような顔をこちらに向けた。能弁なはずの相神がしゃべり方を忘れてしまったかのように何も言わない。俺は構わず続ける。
「幼馴染でな。小学校、中学校、高校とずっと一緒だった。奴が聞いていたのは声だけじゃなかった。教会にあるパイプオルガンが発するような荘厳な音で周囲が満たされるんだそうだ。音が鳴り出すと、その場から一歩も動けなくなる。天国が地上に降りてくる感じ、と表現していた。反応していたのは聴覚だけじゃない。目を閉じると暖かい手が触れるのを感じるそうで、奴はそれを神の手と呼んでいた。そして、神の声は言うそうだ、紡げ、と。奴はいつも悩んでいたよ。何を紡げばいいのか、とね。俺と違って、何にでもくよくよする奴だった。めそめそしているときには、よく呑みに誘ったよ。酒呑んで忘れちまえ、ってな。でも効果はなかった。やがて新興宗教にのめり込んでいった。」
相神の顔は真剣な表情に変わっていた。
「で、その人、今は何してんの?」
「死んだよ。自殺した」
俺は更に続ける。
「俺が警察官になったとき、崇からある物を貰った。木彫りのペンダントだった。お守りにしろと渡された。丸くくり抜かれた木の表面に六角形の紋様が掘られていた。そんなことがあったのを奴が死ぬまで忘れていた。突然思い出した。何故だろうな」
「そのペンダント、今も持ってるの?」
「いや、もうない」
傍らにいた柿谷が目を丸くしながら、俺たちのやり取りを聞いていた。
(五)ブラームスの子守歌
俺たちは署の地下一階にある食堂で、少し遅めの昼食を採っていた。数年前、運営を民間に委託してから、格段に味がよくなった。値段も安いので、ときどき利用している。この食堂は一般利用もできる。地下に伸びる階段の壁に『一般の方もどうぞご利用ください』と書かれた紙が貼られている。今どき手書きだ。張り紙はあまりに無味乾燥で、とても来客を歓迎しているようには見えない。それに、警察署にある食堂を利用するというのはなかなか勇気がいるはずだ。それでも日に数人は勇者がやって来るから、会話には注意が必要だ。時刻は午後二時近く。人は疎らで、一般人もいないようだ。
「音無さん、時間ないのに一人でしゃべっちゃって。取り調べなんですよ」
結局、昼食の時間まで俺は、死んだ友の話をし続けた。人のことを遮ってでもしゃべろうとする相神が、俺の話を黙って聞いていた。
食堂のかつ丼を掻き込みながら、反省しているよ、と答えた。
「ところでお前、奴の鼻歌聞いたとき、何か言いたかったのか?」
「分かりました? 俺、あの曲知ってます」
「有名なのか?」
「有名ですよ。ブラームス。『ブラームスの子守歌』です」
「なんだ、お前。その顔でクラシックなんか聴くのか?」
「顔、関係ないでしょ」
むくれながら、スマートフォンで検索を始めた。
「これです」
スマートフォンの画面を覗き込むとそこには、一遍の詩が表示されていた。
『ブラームスの子守歌』
こんばんは、おやすみ、
ばらに囲まれて、
クローブをまとって、
上掛けの下に入って!
明日の朝は、神様のおかげで、
あなたは目覚めるでしょう。
こんばんは、おやすみ、
天使たちに見守られて
(天使たちは)夢の中で見せる
子供のキリストの木を。
幸せに、優しく眠りなさい
夢の中で天国を見なさい。
「日本語の詩が付いているのか」
「もとはドイツ語ですけどね。ブラームスの他にもたくさんの作曲家が子守唄を創っています。シューベルト、ショパン、ストラヴィンスキー……」
「『五木の子守歌』も同じ仲間か?」
「あれは子守唄というより守子唄ですね。子どもを寝かしつけるときに唄うものではなくて、貧しい子守娘の恨み辛みを唄ったものです」
「お前、詳しいな」と大袈裟に感心して見せた。
それにしても、相神はこの唄の何に魅せられたのだろうか?
『幸せに、優しく眠りなさい』か。
子どもをあやす母親の動画を観て覚えたと言っていた。覚えようと思って覚えたわけではなく、数回の視聴で自然にメロディが頭に焼きついたと説明していた。
「ところで、さっきの話、幼馴染さんのことって本当の話ですか?」
「ああ、本当だ」
音無さんと相神で嘘つき合戦をやっているとしか思えない、と柿谷は言った。
かつ丼の最後の一口を掻き込んだ。
「俺は幼馴染が言っていることも、相神が言っていることも嘘じゃないと思ってる。内なる声、昔はそれを誰もが持っていて、人がよりよく生きるためのツールだったじゃないか、昔はもっとたくさんの人々が、内なる声に従って生きていたんじゃないかと。自然にな。人によってはそれを神の声と認識した者もいただろう。しかし、現代人はそれを抑圧してしまった。だから聞こえないし、そんなものを信じない」
柿谷が意外そうな顔でこちらを見ている。
「音無さん、供述調書にそれ書くんですか?」
「まあ、書けないよな」
正直、分からない。相神は動機について、内なる声に従ったとしか答えない。死んだ被害者とは面識もなかったと言う。引っかかるのは被害者二人の子どもがいずれも同じ音楽教室から出てきているということだが、偶然ということはあり得る。唯一、顔見知りだった大学生とも偶然に鉢合わせしただけだと供述した。意識を取り戻した今橋拓海の証言とも矛盾するところは見当たらない。これだけの事実だけなら、今回の事件は捜査本部の方針通り、単なる通り魔事件だ。だが、本当にそうなのだろうか。俺と柿谷、課長の恩田、そして捜査員の多くが何かあると睨んでいる。
昨日、城田尊が経営する音楽教室が、実は闇塾ではないかという報告を一人の捜査員が上げてきた。きっかけは年配の女性から密告電話だった。電話の主は、城田が経営する音楽教室が、闇塾であるとはっきり言ったそうだ。柿谷曰く、すでにSNSの世界では噂に登っていたという。
俺が聞き込みの際に感じた違和感が証明されたわけだが、それとて動機に繋がる事実であるかどうかは判然とはしない。虐待の事実はどうか? 捜査本部は早い段階から、被害者二人が子どもに対し、虐待を繰り返していた事実を掴んでいた。二人揃ってという点が気になるところだが、これも犯行の動機に繋がるとも思えない。
「明日の取調べ次第だな」
明日が最終日だ。遅くとも夕刻には検察から起訴状が届く。そこまでに決定的な事実を聞き出せなければ、俺たちの捜査は終わる。
(六)声
朝からどんよりとした曇り空が広がっていた。天気予報では午後から雨になるらしい。湿気を含んだ空気が重たく感じられる。
一階の少年課の前を通る。奥にあるテーブルに高校生くらいの男の子が座って、署員から聞き取りを受けている。身なりが薄汚れている。また万引きか。しかも恐らくホームレスだ。貧困率の上昇とともに、家族の崩壊が続いている。家を失った家族は、やがて離散する。親が子どもを棄てるケース、子が不甲斐ない親から自らの意思で離れていくケース。全国的に年少のホームレスが急増しているのだ。生きる術を持たない彼ら、彼女らは犯罪行為によって、はじめて社会のセーフティーネットに拾われる。
哀れな少年を横目に二階へと急ぐ。
会議室には三十数人の捜査員がほぼ揃っていた。これから、恐らく最後になるだろう捜査会議が開かれる。
課長の恩田が部屋に入ってくると、全員が一斉に着席する。俺も柿谷と並んで席に着く。
恩田が一人一人の捜査員に語りかけるように部屋全体を見渡す。その視線は、済まない、と言っているようだ。俺は察した。
「昨夜、検察から連絡が来た」
全員が次の言葉を待つ。
「不特定多数を狙った通り魔事件として、相神を起訴するということだった。勾留延長はない。本日午後には起訴状が届くだろう。それをもって捜査本部を解散する。皆、ご苦労だった。以上」
終了宣言だ。前に座る刑事の舌打ちが聞こえた。多くの捜査員がうな垂れた。
柿谷がこちらを見詰めている。
「音無さん、いいんですか?」
俺は無言で立ち上がり、部屋を出た恩田の後を追った。
「課長!」
恩田が立ち止まり、こちらを振り返る。
駆け寄った俺の顔の前に手のひらを出し、声を発するのを制した。
「お前の声、でかいんだよ。何も言わなくていい。まだやりたいんだろ、取り調べ。好きにしていいぞ。面白い話が聞けたら、すぐに報告しろ。期待しないで待ってる」そう言うと、そそくさとその場を後にした。俺は恩田の背中に深く頭を下げた。
取り調べ室。
「看守が、今日の取り調べはたぶんないって言ってたけど」
「上司に願い出て少しだけ時間をもらった」
「よかった。実は刑事さんに話したいことがあってね」
カタカタ。傍らに座る柿谷が記録のため、パソコンを叩いている。
「そうか。どんな話だ?」
「昨日の夜、声が聞こえた。映像も見えたよ」
「話してくれよ」
目の前に置かれた湯飲み茶わんを取り上げ、一口だけ口に含む。
「俺、ときどき声と一緒に映像も見るんだよ。昨日の夜、悲しい顔をした女が現れた。誰だかは知らない。大切な人を失くしたか、大切な人とうまくいかなくなったか、たぶんそんなところだろう。年の頃は、そうだな、四十の手前くらいかな。左の口元にホクロがあった」
口元にホクロ?
「美人だったよ。あと十歳若かったら、俺惚れてたかもな」
「髪型は?」
「短め。あれ、何て言うんだっけ? うなじが見えてて、前から見ると丸い……」
「ショートボブ」
「それそれ。刑事さん、詳しいね」
「髪の色は?」
「栗色」
「眼鏡は?」
「かけてた。丸い縁のね」
妻だ。
「その女、そんなに悲しい顔してたか?」
「ああ。女は絶望してた」
「何にだよ!」
声を荒げてしまった。相神は何も言わず、こちらを静かに見ている。
「すまん。それで?」
「……」
相神は辟易として表情を見せた。
「それで、声は何と言った?」
少しだけ間をおいて、相神は答えた。告げろ、と。
「何故、俺に話した?」
「今、俺が自由に会話できる相手は刑事さんしかいないからね」
「お前はその……、声の意図というか、意志というか、目的というか……、分かって行動しているのか?」
「そんなものは分からない。俺はただ声に従っているだけだ」
人は皆、何かに縋って生きている。家族であったり、会社であったり、宗教であったり。皆、何かを懸命に見つけようとしているのだ。だが対象となるものはそう易々とは見つからない。たとえ見つかったとしても、それは砂でつくった城のように、一回の波で簡単に壊れ、消え去ってしまう。
俺たち夫婦には子どもがいた。男の子だった。翔太と名づけられたその子は、先天性心疾患を持って生まれてきた。医師から、肺動脈につながる右心室の出口が狭く、心室に大きな穴が開いていた。妻は大きなショックを受けた。妻にとっては待ち望んだ出産だった。結婚八年目でやっと授かったその子は妻の希望だった。翔太は二度の手術を受けた。一度目は生後わずか一か月で。二度目は一歳の誕生日を祝った翌週だった。手術室に運ばれていく我が子を見送ったのが、最後の別れとなった。
打ちひしがれた妻の様子に、俺はかける言葉を見つけられなかった。小さな命を失ってから一か月ほど経った頃、乳幼児の心臓病手術における成功率は、病院によって大きな差があること、静岡に高い成功率を誇る大学附属病院があることを知った。妻は自分を責めた。なぜもっとよく調べなかったのか、もしかしたらあの子を救うことができたのではないか、と。日に日にやつれていく妻を見ていられず、俺は仕事に逃げた。
「お前が見た女は、俺のカミさんだ。カミさんは何に絶望してるんだ?」
「知らねーよ。自分で考えなよ」
これは取り調べだぞ。被疑者に悩み相談をする刑事がどこにいる! しっかりしろ、と自分自身に言い聞かせた。
「カミさんの話はもういい。それより、犯行のとき、声は何と言った?」
少しの間を置いて、相神は救え、と答えた
パソコンを叩く音が止まる。
「それだけか?」
「それだけだよ」
「お前についている神様は、随分と口数が少ないな」
「ああ、いつも一言だけだ」
「その一言で何故、あの犯行に繋がるんだ?」
「あのときも映像が見えた。何人ものガキどもが現れた。皆、一様に沈んだ目をしていた。死んだ魚の眼だ。俺はすぐに気づいたよ。俺もあんな眼をしていたからね。あれは虐待を受けているガキの眼だ」
「それでどうした?」
「探した。あの眼をした子どもをね」
「どうやって?」
「いくつかの闇塾を当たった」
「そのうちの一つが城田ミュージックスクールか?」
相神がふっと笑う。
「日本の警察は流石だね。そこまで調べたんだ」
「相神―――」
「なんだ?」
「話せ。全部、話せ。お前が見たこと、聞いたこと、考えたこと、すべて話せ」
俺はこの後、こいつが語ることに嘘はないと確信した。
(七)二つの告白
相神の虚空を見詰める眼。部屋の空気が凝縮していく。
待つ。
一瞬、涼しい風が吹き抜けるのを感じた。頬を撫でるその風は、どこか清々しく、どこか懐かしく、どこか不思議な感じがした。もちろんそれは錯覚に違いない。窓は閉じられ、この部屋は密閉された空間になっている。
「犯行の前……、声を聞いたのは、去年の春だった。さっきも言った通り、声は、多くを語らない。解釈は俺自身に委ねられる。言われたのは、救え、という一言だ。でもその一言で十分だった。あの沈んだ眼をしたガキどもを見て、俺は自分のすべきことをすぐに察した。問題はガキどもを探す方法だった……」
相神の声は過去の記憶が蘇らせた。
自死した友、相神崇にまつわる記憶。そう我が友の姓も相神なのだ。
俺は、今はこんなだが、幼少の頃は引っ込み思案な子どもだった。そんな俺の傍らにはいつも崇がいた。まだ小学校に上がる前のことだ。俺たちはよく近所の公園で遊んだ。そこに行くには近所の金持ちの家の庭を突っ切るのが早い。よく忍び込んでは、誰もいない庭を駆け抜けた。単に近道を行くという以上に、見つかるかもしれないというスリルを楽しんでいた。ある日、いつものように庭を走っているとき、庭に並んだ盆栽の鉢を落としてしまった。今にして思えば、高価なものだったと思う。どうしていいか分からず、おどおどと立ち尽くす俺に崇は言った。謝ろう、と。結局何も言えない俺に代わって頭を下げたのは崇だった。友はどこまでも優しい男だった。
後悔。
二十一のとき、崇は七階建てのビルの屋上から飛び降りた。頭を強く打ち、即死だった。自死する当日、携帯電話に崇からの着信があった。当時、交番勤務だった俺は、その日、非番だった。交番勤務は一勤二休制。二十四時間の勤務を終えたばかりだった。通常であれば、勤務の日の明け方には仮眠が取れるのだが、その日は管轄区内のスナックで傷害事件があり、休むことができなかった。徹夜明けで家に戻った正にその時、電話が鳴ったのだ。いつものぐちぐちとした電話だろうくらいにしか思わなかった俺は、電話のコールを無視して、ベットに潜り込んだ。あのとき、電話に出ていたら―――。
遺書はなかった。だが俺は崇の苦しみを知っていた。あいつは神の声に応えられない自分を責めていた。新興宗教に救いを求めたが、駄目だった。
自分は神の声を聞き、神に触れることができるとあいつは言っていた。俺はあいつの言うことを全く信じていなかった。神などと言うものは人がこしらえた想像上の産物でしかないと。仕事の忙しさもあり、大切な友を避けるようにさえなっていた。
懺悔。
崇の葬儀に出た後、その足であいつの生まれ故郷に向かった。お守りだといって貰った木彫りのペンダントを持って。沖縄の離島があいつの郷だ。あいつはよく言っていた、島に帰りたいと。五歳の頃まで住んでいたのだそうだ。
崇の生家を見つけるのは簡単だった。畑仕事をしている年配の男性に尋ねた。
「この辺に相神さんというお宅はありますか。大きな家だと聞いているんですけど」
男性は人懐こい笑顔で答えた、この島は相神だらけだよ、と。崇の名前を告げると、西家の由紀子さんの息子さんだ、と教えてくれた。相神家は本家の他に大きな分家が三つあり、島の人間は屋敷のある場所でそれぞれを西家、東家、南家と呼び分けているという。
崇の母親は島でちょっとした有名人だった。二つの意味で。
一つは父親の分からない子どもを身籠ったこと。沖縄本島の短大に進学中、男遊びに狂い子を宿した。生まれた子が崇だ。出生の事情が事情だったために、親子は小さな島のなかで随分と肩身の狭い思いをしたようだ。結局、母親は小さな子どもを連れて島を出た。
そして、もう一つの理由。それは彼女が並外れた霊力を持っていたことだった。
「由紀子さんは、生まれてくる時代を間違えたね」
畑の男性はしんみりとした口調で言った。
相神家は代々、ノロを輩出する一族だった。ノロとは村落の祭司を担う女性神官のことだ。琉球神話の神々と交信ができると言われている。相神家は島の祭司だけでなく、琉球王朝にも霊力の強い者を派遣していたそうだ。沖縄の政に相神家は大きく係わっていたとのだ。
崇の母親が持つ神秘的な力は島中の人々に知れ渡っていた。まだ症状の出ていない病気や、森で行方不明になった子どもの居場所を言い当てた。由紀子さんの家に足を向けて寝られないと言う島民が今でもいると聞いた。
相神家の人が神と交信する場所があると聞き、案内してもらった。湿気を含んだ重たい空気に抗いながら森林の道を進む。少し拓けた場所に樹齢六百年のガジュマルの木があった。ガジュマルの寿命は長くて三百年。この木には神が宿っているに違いない、と案内役の老人は言った。
俺は、預かっていたペンダントをその木の下に埋めた。そして言った。
「崇、故郷の土だぞ。分かるか?」と。
相神の告白は続いていた。
「しばらく悩んだよ。何せ、普段の生活のなかで子どもとの接点なんかないからな。ガキの姿は何度も見えた。いつも同じ表情で俺を見ていた。早くしろ、と急かされているようだった。ある日、思いついたんだよ。闇塾のことをね。小学生の頃、ババアが俺を塾に入れようとしたことがある。あの頃はまだ、親父も勤めをしていたから、家には金があった。塾が法律で禁止される少し前だと思う。数年後、法律が始まるのにあわせて、塾が次々と地下に潜り始めた時期だよ。ババアが最初に見つけてきたのが、城田のところだった。
あそこはお高く留まっててね。一見さんお断りなんだよ。推薦状がないと入れない。親父の知り合いに市議会議員がいてね。その人に推薦状を書いてもらったって、ババアは喜んでたよ。でも受からなかった。入塾のときにテストを受けさせられるわけ。そこは馬鹿お断りなの。だから手を抜いてやった。勉強なんか、したくなかったからね。算数も国語も分からない問題なんてなかったけど、答えを書かなかった。城田は言ったね、俺たち親子に。もう一度お勉強してから来てください、とね。汚物でも見るような眼つきだった。勉強ができないような奴は人間の屑だとでも言ってるようだった。感じ悪かったね。ババアからは殴られるしね。散々だった。その後に尋ねたのが、古川って奴が古いマンションの一室でやってる塾だった。
古川っておっさんは愉快な人だったよ。この人のところなら、勉強しに行ってもいいかなと思った。そこは城田のところと違って、テストなんかなかったよ。誰でも歓迎ってところがよかったね。でも、それは叶わなかった。親父の横領が会社にバレたから。刑事さん、知ってる? 闇塾って月謝高いんだよ。びっくりするくらい。俺がやった二人も金持ちだっただろ。裕福な奴らしか塾には通えないんだよ。塾を禁止したのは、貧乏人が損しないようにって目的だったはずだよね。皮肉なもんだな。
前置きが長くなった。そんなことで、俺が知ってた二つの塾を訪ねた。講師をやらせてほしいってことでね。どちらも採用されなかったけどね。
その後、子どもが出入りする時間帯に、二つの塾の前で張ったよ。古川のところは早々に追っ払われた。城田のところには一週間くらい通ったかな。すぐに目星がついた。目で分かるんだよ。それがあいつら二人の子どもだよ。二人とも悲しい眼をしてたよ。
後をつけて家の敷地にも忍び込んだ。何度もね。家のなかも覗いた。あれ? 殺人だけじゃなくて、不法侵入とかもついちゃうのかな? まあいいや。おばさんの方ね、気に入らないことがあると滅茶苦茶に娘を殴るんだよ。あれは完全に狂ってたね。
おっさんの方はね、嫌味な感じだった。ああいうの嫌いだね。でもね、あの家には娘がいてね、これが感じのいい子なんだ。あれはたぶん愛情深い子だよ。
おっさんも下の息子を虐待していた。手こそ上げていなかったみたいだけどね。窓の外で様子をうかがってたら、聞こえてきたのは暴言の数々だった。あの子も辛かったはずだよ。眠れないように椅子に縛り付けたりもしてたな」
蘇る記憶は、いつしか妻のことに変わっていた。
妻が何に絶望しているのか、本当は分かっている。俺は彼女の悲しみと向かい合わなかった。受け止めきれないと思って逃げた。そんな俺の態度に絶望したのだ。傷は時間をかけ、ゆっくりと癒える。それを二人寄り添って、待つ。そう覚悟することが、俺にはできなかった。
その後も相神の告白は続いた。
俺は、蘇る記憶とともに奴の話を聞き続けた。
(エピローグ…二〇三六年六月【事件の一年後】に続く)