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"おひさまの1人"であるが、"1人のおひさま"ではないと思ったお話

色々と考えた末に「私は"おひさま"です」と自称するのをやめたお話。

自分なりの"おひさま"を定義してみた上での結論。
ネガティブな内容でも、誰かを批判するものでもない。

はじまりは、Twitterアカウントを作成するうえでのふとした疑問から。

Twitterアカウントの作成と決意

自身のTwitterアカウントを作成したのは、渡邉さんの卒業セレモニー直後。

アイドルとして日向坂に興味を持ち、日向坂というグループを深く知りたいと思ったきっかけの彼女の卒業姿はあまりにも綺麗で、美しかった。心の底から感動し、彼女への感謝や喪失感からか、自分でも驚くほど号泣した。

「もっと色々と追いかけていれば良かったな」と、後悔してしまう気持ちも大きかった。だが、後悔しても遅かった。大切なのは後悔よりもこれからであり、「日向坂をグループとしてもっと追いかけよう」、「渡邉さんの卒業後の活躍も後悔の無いように追いかけよう」と決意した。

セレモニー後に始めたTwitterの第一の目的は、そんな「もっとメンバーの情報を知りたい、なるべく見逃さないようにしたい」という情報媒体としての活用である。

第二の目的に、「せっかくなので誰か感動を共有できる人が"少しでも"いれば」という気持ちだった気がする。「"より多くの"おひさまと交流してみたい」という気持ちはあまりなかった。正確には、不特定多数の方との交流は自分のキャパを超えてしまうので、抑えておきたい気持ちであった。

自分は"おひさま"なのか

さて、いざアカウントを作成しようとしたとき、そのプロフィールを設定するうえでふとある疑問が生じる。

「自分は"おひさま"と名乗ってよいのか?」

みな等しく"ファン=おひさま"なのだろうか。そうでないとすると、いったいどこまでがファンで、どこからが"おひさま"なのか。

そこまで気にする必要は無いかもしれないが、既存の呼称を名乗るのであれば一定の注意が必要であると構えた。すでにいる"おひさま"は「"おひさま"なのに**をしていないなんて」と排他的かもしれないし、「**をしてこそ"おひさま"である」と自負があるかもしれないからである。

そのように思った別の理由もある。渡邉さんの卒業セレモニーの数日前、アカウントを作成しようと思い立ったが、一度見送った過去がある。単純に、印象が悪かったからである。「ひらがな時代から推しているみほちー推しなのに、チケットが当たらないなんて」、「みほちーが最推しじゃないのにチケットが当たっているやつはトレードに出せ」、そんなツイートをいくつも見かけたためだ(今では一定の理解をしているし、それらのツイートを否定したいわけではない)。

では、渡邉さんの卒業セレモニーのチケットは、周りの"おひさま"から見て当選に値するボーダーラインが存在したのだろうか。同じように、"おひさま"を名乗るに値するボーダーラインは存在するのだろうか。

"おひさま"と名乗るに値するラインが存在するとすれば、それは冠番組や曲が好きになったらなのか、ライブに参加したらなのか、一定期間応援してからなのか、過去に握手会に参加しグッズや雑誌などもそろえてからなのか。当然そんな明確な定義は存在しない。

アカウント作成当時の自分は迷った末に「ライブなどに足を運ぶようになり、直接応援するようになることが"推す"ことだと考えれば、十分に"おひさま"なのではないか、大丈夫なのではないか」と自分なりに結論付け、自身のプロフィールにも"おひさま"と記載した。

メンバーから見た"おひさま"

そんな風に周りの"おひさま"に対し「自分も"おひさま"と自称していて大丈夫か」という一種の不安を抱いていた自身であるが、何回かライブに参加した頃には、自分の中での"おひさま"の定義が変わってくる。日向坂メンバーが"おひさま"をどのように捉えているか、という側面から考え直した。

彼女たちはよくJOYFUL LOVEにおいて「おひさまが作ってくれる虹」といった表現を使う。そして、「配信の前のおひさまの皆さん」と声かけを行う。では、ライブや配信を観ている人たちに対し、「この人は"おひさま"、この人は"おひさま"ではない」と何かしらのボーダーで区分しているだろうか。

みんなで「私達なんか」って言って活動してたんですけど、その頃の自分たちに言ってあげたいですね、こんなに素敵なおひさまの皆さんが待ってるよということを。本当に信じて…本当に信じて進んできて良かったです。

東京ドーム公演『3回目のひな誕祭』におけるキャプテン・佐々木久美のスピーチより

東京ドーム公演における「素敵な"おひさま"の皆さんが待ってる」というキャプテンの言葉において、例えば"東京ドームライブが初参加であるか否か"、言い換えれば"今までのライブにも参加して東京ドームライブを待っていたか否か"で、"おひさま"であるかないかを区分しているだろうか。

どちらも"否"であろう。

ライブで虹をペンライトで作ってくれている人たち、配信で観ている人たちは一様に"おひさま"として見ているだろう。観ている側それぞれの熱量や、メンバーからファンへの認知の程度に差はあれども、その差には依存していないと思われる。

そう考えると、"おひさま"は非常に大きな存在である。

また、ライブにはほとんど日向坂のメンバーを知らないレベルの人たちもいる。普段は別の坂道を推していたり、邦楽バンドのライブに参加しているような人たちが、興味本位で参加しているのをよく見かける。彼らは「日向坂ファンである」「"おひさま"である」と自称しないかもしれないが、ライブにおいては虹を作る一員となってくれていて、メンバーから見れば"おひさま"だろう。そういう意味では、"おひさま"は愛称や総称だけでなく状態でもあるのかもしれない。

このメンバーからの見方で考えれば、周りのファンが自分を"おひさま"ととらえるかを過度に配慮する必要はない。ライブや配信を共有している同じ空間において、同じ"おひさま"として存分に楽しめばよいのだろう。

改めて自分は"おひさま"なのか

ライブに何回も参加すると、会場全体の"おひさま"の存在の大きさや温かさを肌で感じる。"おひさま"一丸となって作る虹の景色はいつ見ても圧巻である。

だが、その虹も当然一人では作れない。自分は虹の一員であるが、自分一人では虹にはなれない。自分は"おひさま"の1人であるが、自分1人が"おひさま"ではないのだと、ふとした瞬間に感じた。

まるで、大海原や大草原などの大自然において、自分がちっぽけな存在だと感じられる、そんな清々しい気持ちである。

そして私は"おひさま"という存在を尊敬し、ある種の畏怖の念を抱き、「自分は"おひさま"である」と自称するのをやめた。"おひさま"と自称することが恐れ多いとも思ってしまった。

誤解されては困るが、"おひさま"を自称する方たちを否定的にとらえる気持ちは微塵も存在しない。自身にとっては、ライブ会場で熱い声かけや優しい拍手を送る方たちも、ライブ会場やTwitter上で温かく接してくださるFFさんの方々も、等しく"おひさま"であり、出会えて本当に良かったと思っている。

自身も"おひさま"という大きな存在の一部であるからこそ、今まで感じてきた"おひさま"の温かさをどんな時も心のどこかで意識し、新しいファンを自然と迎え入れたり、メンバーを見守っていく、なるべくそんな存在になれればと思う。

とらん

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