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20240117

示談金FINALが終わった翌日に人工呼吸器を付けた爺ちゃんとテレビ通話をした。

母親からいきなり電話が来たと思ったらいきなり爺ちゃんの顔が映し出され驚いたことを覚えている。

12/31に爺ちゃんが心筋梗塞で運ばれた。
母親は「俺がライブあるから」と俺に伝えるのは1/8の示談金FINALが過ぎてからにしようと思い黙っていたとのこと。

1/12に一般病棟に移り呼吸器を外す。爺ちゃんは牛乳が好きな人だったので、久しぶりに飲んだ牛乳が美味かったと婆ちゃんに話してたらしい。

医者に「来週には退院できそうですよ」と話され、安心していたのもつかの間。1/14 5時頃に急性心筋梗塞を発症。手術をした部位とは恐らく別の血管が詰まったとの事。89歳、あと1ヶ月すれば誕生日を迎えるところだった。

1/14の朝10時、姉に電話で叩き起される。「じいちゃん亡くなったって、日曜日で飛行機あるかわかんないけど、早く来な。」と。

何が起きたかよく分からないが、ひとまず喪服と革靴を用意しカバンに詰めた。その後、残り3席のところにギリギリで滑り込み、16時出発の飛行機を予約。

総武線と、快速モノレールに揺られる。窓際の席。キャリーバッグを運ぶ観光客が満足気な顔で空港に向かっていたのが頭に残ってる。

諸々の返信が遅れることをTwitter等で連絡。正直みんなのツイートも見てたしインスタも見てたけど、返信を起こす気は湧かなかった。

冬の網走は10年以上行っていなかった。交通も不便だし、何より爺ちゃんに「冬は来ない方が良い。寒いし。」と言われていたから行っていなかった。そんなこと気にせず行けば良かったな。

女満別空港着、ガラッガラの網走行きのバスに乗り込む。40分程度で網走駅のバスターミナルに着く。母親に車で送ってもらい爺ちゃんの家へ。

いつもは仏壇が置いてある部屋に、白い布団・白い布を被せられている。布を取り、眠るような表情の爺ちゃんと対面する。身体は腐らないようにドライアイスで冷え込まれていて、手が冷凍庫で冷やした蟹レベルに冷たかった。


心筋梗塞の後にカテーテル術を実施。手術中は輸血や点滴を絶えず行うが、術後に腎機能低下を起こし肺に鬱血。呼吸を楽にするため陽圧換気モードでの人工呼吸器装着。10日間もずっと装着していたと。

今まで働いていた病棟では人工呼吸器を10日間付けている患者はなかなかいなかった。そんななかで1度回復の兆しを見せたのは爺ちゃんの底力だと思う。その事を姉と母に伝え、まずは爺ちゃんを讃え、労いの言葉を送った。

親父も、網走の爺ちゃん宅に来ていた。骨折してて面白かった。「俺の担当の理学療法士が何も教えてくれないんだけど、教えてくれ」と質問攻めにあった。担当の理学療法士は仕事してくれ、俺に仕事を回すな。タダ働きさせるな。

網走に着いた日は親父と、従姉妹で酒を飲んだ。いつも忙しなく動いてるばあちゃんが、いつも以上に忙しなく動いてた。動かないと気が紛れないんだろうなと思っていた。

ばあちゃんの隣の家に住んでる従姉妹は、爺ちゃんが亡くなるって時に病院までの移動を手伝ったらしい。
その際ばあちゃんは気が動転してたのか、隣の家のインターホンを鳴らすという選択肢が頭の中に無く、玄関扉をゴリラのようにバタンバタンさせることでSECOMを作動させて従姉妹を起こすという荒業に出たらしい。
朝5時にセコムが作動したのが怖すぎて従姉妹はいまSECOMを付けていないらしい。そりゃそうだ。

あとセコムも、網走という辺境の地なのにも関わらず5分程度で到着したらしい。凄いな。セコム、クソ有能かもしれない。ちゃんと仕事してんだな。

ひとしきり従姉妹の愚痴と、親父の愚痴を聞きながら酒を飲んだあとは暖房のない部屋で寝た。電気毛布付けといたから!!!とばあちゃんは話すが、身体は暖かくて顔は寒いという状況に慣れず一睡も出来なかった。冗談抜きで一睡も出来なかった。

姉はばあちゃんの部屋で一緒に寝たとの事だったが、ばあちゃんのいびきがうるさすぎて寝れなかったという。安息の場はないらしい。


1/15、仕事の申し送りの記載や、各所への電話、棺を運ぶための道を作るために雪かきをしたり、何かとやることはあった。

全てを終わらせた後は、爺ちゃんの遺体が寝てる部屋で雀魂をした。

爺ちゃんは麻雀が大好きで、よくパソコンを使ってCPUと対戦していた。

中をポンして1000点くらいで上がる、っていう麻雀をしてるのを去年の10月辺りに見かけたけど熟年の動きなのかもしれないなと思った。俺らみたいに点数を変に狙いに行かず、勝てる時に勝てる策で勝つ。そういう雀士だったのかもしれない。

ちなみに爺ちゃんの遺体の傍でやった麻雀はクソほど負けた。結局生きてる間に対局することは叶わなかったな。それもひとつの後悔。いつかどういう打ち方をすれば負けないかを聞こうと思っていたのだが…まだまだ先になりそう。

仮通夜を終わらせ、一家総出で餃子を食べる。合計10人分の餃子、焼きうどん、酒を食らいながら他愛もない話をした。

途中、爺ちゃんが入院中に書いていた日記(ずっと前から日記を書くのが日課だった)を見ていた母が以下の言葉を見つけた。

孫4人の名前に「みんな元気でな」の文字。

他にも「〇〇(母の姉)、恵美子(母) 母さんを頼む」、「繁子に感謝、本当にありがとう」などと綴られていた。

孫も母も母の姉もばあちゃんも泣いてた、もちろん俺も。唯一、姉貴だけ泣いてなかったのが逆に印象的だった。涙腺コンクリートか?

遺言の後に、また日記が続いてるところを見ると本当に辛い山場があってもうダメだと思い記したものだったんだなと思う。
もしかしたら、1度回復して遺言が空振りに終わる可能性もあったのだと思う。今回の遺言は見事にクリーンヒットをかまし残された遺族全員に大打撃を与えた。

他にも、今まで記していた日記をみつけたので眺めていた。

俺が国家試験を合格した際の事も記載されていた。その後、散歩に行く回数が増えているのが凄い可愛い。「大洋にリハビリされないように自分でやらなきゃな」と意気込んだのかな。おもろい。

あとは、見ていないようでちゃーーーーんとばあちゃんの行動を見ているんだなと言うことが記されていた。
爺ちゃんはもともと寡黙で余計なことはあまり言わないタイプの人で、誰かが何をしてても反応を示さずじっとソファに座っていた。でもちゃんと、俺が来たことや、姉貴が結婚すること、ばあちゃんの些細なこともしっかりと記録されていた。

今はまだ平成30年頃からの日記しか見当たらないが、爺ちゃんが捨ててなければどっかから見つかるはずだとばあちゃん。次来る時が楽しみ。

あとは爺ちゃん関連の書類を保存した棚を見ていた。1度ばあちゃんが入院した時に、今までそんなに料理をしなければならない期間があった。その時に使ったであろう、パソコンから印刷して料理中の濡れた手でさわって紙が滲んだレシピが挟まれてるファイルを見つけた。

よく俺や姉貴が帰ってきた時に作ってもらったボルシチのレシピが1番前にあった。1番ボロボロのページだった。栗きんとんのレシピが書かれてるところもあった。母親はそれを見て「食べたかったのかな」と涙ながらに呟いてたが、多分「食べさせたかった」のだと思う。俺も声が震えちゃいそうだからそうは伝えられなかった。

他には、シルバー人材センターで活躍してたことや、介護保険関連の書類、大好きだった大谷翔平の記事が記載されている本が綺麗に並べられていた。

高齢者の医療費自己負担割合が1割から2割になることに対して「少ない年金で暮らしている我々にとって、1.5万円が3万円になるのは大きな痛手です。私はその政策に反対致します。」と裏紙に書かれてあるのも見つけた。普段そんなこといっっさい口に出さないから、そんなこともちゃんと考えていたんだと改めて思った。

普段は何も話さない爺ちゃんの意外な一面が、死んだ後に分かるって言うのが悔しかった。早く気づいて爺ちゃんに一言かけてやれる方が良かった。まぁ爺ちゃんはきっと「そんな所見るんでない」と恥ずかしがるだろうが。


1/16、葬儀屋が家に来る。棺に入れられ運ばれる爺ちゃん。葬儀屋の髪の毛が変なハゲ方してたのが気になった。

そのまま葬儀場に棺を運び通夜。お坊さんのお経を唱えてる間、お説教の間、イビキかいて寝てるやつが居たのが腹立たしかった。

通夜の後は葬儀場の隣にある休憩室で1泊した。酒を飲みながら爺ちゃんの昔話を聞いた。札幌の高校に合格したのにも関わらず親が入学させてくれず、元々の夢だった警察官になる事を諦めた時から寡黙になったのだと。今までずーーーっと拗ねてたのかもしれない。おもろい。

手違いで布団が足りず、掛け布団を母と半分こにして寝た。母の寝相が意外と悪く、俺の掛け布団はほとんど無かった。


1/17、朝ごはんはおにぎり2個。みんなが「2個は流石に多いよ」と言っているのを横目に俺は普通に平らげていた。気まずい。

諸々の支度を終わらせ葬儀場へ。
棺の中を花で彩る。爺ちゃんに宛てた手紙を手に握らせた。相変わらず寝ているような表情で死んでるじいちゃんは今にも起きあがりそうだった。

よく爺ちゃんはソファに座って、札幌に帰る俺を見て「おう、じゃぁな。」と笑顔で伝えてくれた。俺も爺ちゃんに向かって「じゃぁな。」と伝えた。撫でた額は冷たかった。

霊柩車に乗って、少し離れたところにある火葬場へ。網走で爺ちゃんがよく通っていたであろう道、最後の凱旋のようだった。

火葬場は東京農大の近く。あまり覚えてないけど、昔はここら辺に爺ちゃんの畑があった気がする。昔の事だからあまり覚えてないけど、畑に囲まれた場所で火葬されるのなら爺ちゃんも喜ぶと思う。

「これが最後のご焼香です。」と火葬場のスタッフが伝える。棺に入った爺ちゃんを一瞥する。なんと言ってるかは聞こえなかったが、母が泣きながら爺ちゃんへ沢山話しかけてたのが見えた。

火葬する場所に運ぶって際に「最後にもう一回だけ顔を見せて」と母が顔を見に行ってたのが印象的だった。母は3兄妹の末っ子で甘えんぼだったらしい。そんな母の恵美子の側面が垣間見えて、母である上でばあちゃんとじいちゃんの子なのだと思った。年齢なんて関係なく、哀しいものは哀しい。別に我慢なんてする必要無いんだと思い、上を向かずに泣いた。

火葬される前、合掌をし皆で見送る。給食用のエレベーターのような狭い場所に棺が運び込まれていく。南無阿弥陀仏と唱えて下さいと言われたが、見えなくなるまでありがとうと呟いた。

パークゴルフに連れてかれて、よく分からないままボコボコにされたこと。サッカーをやってたらいきなりキーパーとして爺ちゃんがゴールの前に立ってちょっと困ったこと。爺ちゃんに車の運転上手いねと言ったら「俺は大型免許も持ってるぞ」と自慢されたこと。帰る度にボルシチを作って待っていた事。美味しいと言うと照れるように酒を飲んでいたこと。爺ちゃんが自分の肌の角質が浴槽に入ることを気にして、普段はしない浴槽掃除をしていたこと。リスの森で最後に一緒に歩いたこと。パソコンの使い方を毎回俺に聞いてきたこと。麻雀で中で上がってたこと。少ない年金生活のはずなのにお小遣いをくれたこと。烏骨鶏を飼っていた時、卵が取れたら意気揚々と卵かけご飯を一緒に食べたこと。

数え切れないほどの記憶に支えられ、助けられていると感じた。爺ちゃんは死んで冷たくなっても、思い出は暖かいまんまだった。


火葬には2時間ほどかかると言われ、元々居た葬儀場に戻る。飯を食った後はいとこの子供(3歳児)のおもちゃになった。
俺が小さい頃も従兄弟に沢山遊んでもらってたから、今度は俺が遊んでやらなきゃなと思った。いとこの子どもは三兄弟なんだけど、末っ子としか中々遊べなかったから、そこが残念だったな。また次来る時はもっと遊ぼう。


火葬が済んだとの事で火葬場へ戻る。完全に骨になった爺ちゃんを見たときは特に涙が出なかった。寧ろ「ここまで綺麗に骨が残るものなのか」と感心していた。

大腿骨・脛骨・頭蓋骨はしっかりと残っていた。ここまでしっかり残る人は珍しいらしい。牛乳が大好きだったじいちゃんの事だから今まで飲んできた牛乳のカルシウムのおかげだろうな。俺も牛乳飲まなきゃ、もちろんプロテインも入れて。

納骨を滞りなく終わらせ、骨を家に持ち帰って葬儀終了。かなりコンパクトになった爺ちゃんを家に戻して、みんなで談笑した。

俺はその後すぐに東京に戻らなきゃならなかったので、2時間くらいゆっくりした後にみんなに挨拶して家を出た。


母に送ってもらった車の中で、少しの時間だったが色々話した。俺が爺ちゃんに「次来る時は彼女連れてくるから」って言ったのが叶えられなくて悔しかったので、その分ばあちゃんに会わせてやろうと話した。爺ちゃんの遺影はかなりコンパクトなサイズで、色んなとこに連れて行けるので、俺が色んなとこに連れていこうと思う。結婚式とかやるのかわかんねーけど、その時の遺影は俺の隣に置いてやろう。特等席だ。



各所で伝えてる通り、今年の目標は「哀しみに向き合う(負の感情と向き合う)」。今はまだ哀しくて受け止めきれていない所もあるけど、いずれ、向き合い切れた後、また楽しくやるから待っててくれよ。

上の世界があるのか知らねーけど、もしあるのなら見守っててくれ。網走に帰省した時は伝えられなかった俺の活動や、俺の普段の働き具合も。身体壊せねーように頑張るんでな。じゃあな。


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