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“一刻を争う”〜 ジャックバウアーの憂鬱 〜
日頃当たり前のように使っている言葉。
考えてみると、その言葉の意味を知らずに使っているなんてことがある。
タイトルにある通り、『一刻を争う』という慣用句。
私はこれまで、1分1秒を争うという意味で使ってきた。
しかし、実際に『一刻』がどれぐらいの時間をさす言葉なのかを知らずに使っていた。
現代っ子らしく、気になったらすぐに偉大なるGoogle先生に聞いてしまおう。
すぐに答えが得られた。
どうやら『一刻=約15分』らしい。
思った以上に余裕あった。
映画とかで、「急げ!一刻を争う事態だ!!」
なんてセリフをよく聞くけど、一刻=15分て考えたら、
スタバ寄ってから向かってもギリギリ間に合いそうな気がしてきた。
懐かしの「24」で、ジャックバウアーがスタバ寄ってからテロを阻止しに行くシーンを想像したらニヤニヤしてしまった。
「やぁ、スターバックスラテ サイズはグランデ、ミルクは低脂肪で頼む」
「急げ、一刻を争うんだ」
「支払いは現金で、、、くそぅ!足りない‼」
「注文はキャンセルだァ、本当に…スマナイと思うぅッ!」
ちなみに『一刻を争う』という言葉が生まれたのは、西洋の時間制度が入ってきた明治時代あたりという説がある。
江戸時代では1日を12分割するする数え方で「刻」という単位を使っていたため、「一刻=約2時間」と考えられていた。
慣用句として使われる場合の「刻」が、短い時間という意味で使われるようになったのが明治時代のことだとChatGPT教授は教えてくれた。
ここで一つ気になったことがある。
昔の15分と今の15分て同じ長さなのか?
もちろん、数値としての時間という意味ではなく、体感時間としてどうだろうか。
それを知るために平均寿命について調べてみると、
現代の平均寿命は約85歳。
明治時代の平均寿命は約44歳。
つまり、現代人は明治時代の人たちの倍生きることができているということだ。
そう考えると、当時の人たちにとっての15分は、私たちにとっての7分半という見方もできる。
なるほど、確かにスタバに寄る余裕はないかもしれない。
新作が出たばかりは女子高生が行列を作ってる可能性が高い。
運よく時間内に注文できても、オーダーによっては順番が前後する可能性だって十分に考えられる。
ほら、やっぱり一刻を争う事態にスタバに寄るなんてどうかしてる!
私たちをとりまく時間の密度はどんどん濃くなっていっている。
いつだか、テレビで言っていたが、
「現代人が一日に得る情報量は、平安時代の人が一生で得る情報量と同じ」
平安時代の平均寿命は30歳前後と言われている。
つまり、私たちの1日は当時の30年分の密度になっているといえる。
そう考えると、私は34歳だから、これまでに平安時代の人の約1000年分の情報を浴びていることになる。
1000年分の情報はエグいって、、、
鳴くようぐいす平安京、794年に平安時代が始まり、良い箱作ろう鎌倉幕府で1185年に平安時代が終わるまでで約400年。
更にその600年後となると、江戸時代中期にまで飛ぶ。
鎌倉殿の13人を飛び越えてしまった。
小栗旬も唖然とした顔でこちらを見ている気がする。
とはいえ、もっとすごいのは現代の義務教育だ。
小学校6年生は縄文時代から現代までの約1600年間を1年間で学ぶ。
そんな情報を詰め込んで、果たして意味があるのか甚だ疑問だ。
勉強が苦手な当時の私は、情報過多でお腹がはちきれそうだったに違いない。
こう考えると、スマホを触らず、情報や連絡を遮断した上で何も考えずにユターっと過ごす時間も大切に思えてくる。
一刻を争わない生き方を選ぶ勇気も、時には必要そうだ。