ガネーシャ天との出会い②~占いと猫とトラジャのコーヒーvol.21
宗教に帰依するという話を以前書いたかもしれないし書いていないかもしれない。
何回書いてもいいかもと思うので書くけれど、私はこの宗教に属しています、というものはない。
たまたま生家が曹洞宗だから曹洞宗の様式に則って行事は行います、だけど、キリスト教のように洗礼を受けたわけでもないし、イスラム教のようにアラ-に全てを委ねる誓を立ててもいない。
基本的に日本人は自由なのである。
精神フリー。
これが本当に自分が日本に生まれた理由なんじゃないかと思うんだ。
わざわざ日本を選んだのは、そういう宗教を超えて、行くべき道を照らすため。
自分はどこから来て、どこにいくのか、って、人生の命題、いや、生命の命題に・・・ってそんな壮大なもんじゃないか。
自分自身の探求のためだけに日本を選んでるんだと思う。
だって他の国じゃ、こんなに好きな宗教選んでいいよ-何なら、色々お試ししてみれば-なんて国ないんじゃないかな。
そりゃあ生まれながらにお寺さんの子だとか(それでも自由はある方だと思う)神道の家庭で逃れられない的な人はいるだろうし、そこの特殊な人は含まない。なぜなら、多くの日本人はフラフラしているから。
それは私がわざわざ説明するまでもなく、日本人は実に上手に楽しんでいるなぁと感じる。
そしてそれを許されている。
特殊な民族なのだ。
それをまた、気が付かずに過ごしていけるところもなんだか不思議で。
日本に生まれたというだけでイージーモードなんて言われるけど宗教という面では本当にそうだと思う。
しかし、だからといって、そのぬるま湯に使ってていいのか、というのが私の長年の疑問なのだ。
好きな宗教を、帰依先を選べる。
だからこそ、もっと知る事が必要なんじゃないかと思う。
日本に生まれてよかったね-、じゃないのだ。
日本に生まれた意味がある。
日本でやらねばならぬことがある。
そう考えると色々腑に落ちることもある。
ひょんな事で、ガネーシャ天に帰依するという方法を知り、今はそれをほそぼそと実践中なのだが、多くの日本人が、この「帰依する」という感覚を失ったのは、実はとんでもなく不幸なんではないかと思うようになった。
信仰心は当然あるものだ。
それは、神様でもいいし、自然でもいいし、どこかの宗教でもいい。
とにかく、拠り所のない人間というのは芯がないのではないかと感じる。
芯は真である。←あ、いいこと言ったね。
自分の中に、確固たる芯を持たないことはぐにゃぐにゃと骨のないタコのようなものだ。
タコは食べれば美味しいが、芯のない人間は美味しくない。
話していても自分に得るモノがないし、相手が成長することもない。
芯がないから、その周りに肉付けすることができないのだ。
中身のない人間と言われてしまうのはそのせいだ。
私は中身のない人間になりたくない。
だからずっと、自分の芯を探してきた。
その大本はどこにあるのか、やはり心・意識じゃないかと思う。
肉体じゃない。
人間はエネルギーの容れ物という表現をよく見かけるが、そのとおりだろう。
そうでないと輪廻転生の理念が成り立たない。
死んだら無ではなく、死んでも続く、と考えるほうが好きだ。
カルマとダルマどちらも生きれば生きるほど自分に乗る。
カルマを解消するのが目的のはずなのに、ダルマが乗って、結局重くなるのか。
そう思うとちょっとむなしくなるけれど、それでもやるべきこと(カルマの解消)があるから、今生を頑張れるのだろう。
で、ガネーシャ天に帰依する話にいつまでたってもたどり着けなくはあるが、ガネーシャ天へのプージャーにとても興味がある。
まだ実際に取り入れてはいないが、占い師には必要らしい。
ガネーシャ天は占いの神だからだ。
ガネーシャ天の話はまだまだ続くのだが、今日は終いの時間が来たのでここまで。