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寺田和代「本と歩く アラ還ヨーロッパひとり旅」 第3回 ブルガリア篇(5)

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ブルガリア篇(5)
コスモポリタンが築いた豪邸の村(コプリフシティツァ)


 観光案内所のパンフレットによれば、村の歴史はオスマントルコの侵攻で土地を追われた人々がこの山奥に逃れた14世紀にさかのぼる。
オスマントルコ支配下の暗い時代にあっても、村では織物業や手工芸品などの海外貿易が盛んだったため、スルタン(オスマントルコ皇帝)から税の軽減と村人の武器携行が許され、商人のなかにはここからエジプトのアレキサンドリアやイタリアのナポリやベネチア、オスマントルコのイスタンブールにまで出かけて財を成した人たちがいた。
ハウスミュージアムの多くは、そうして富を築いた豪商たちが贅を競うように建てた屋敷群だ。

まずは村を代表するオスレコフの家へ。
敷地に入ってすぐファサード(正面)に描かれた街の絵に目を奪われる。
家が建てられた1856年当時、毛織物業を営み、海外に販路を築いた主人オスレコフの取引先だったカイロやイスタンブールの景色だそう。
屋敷内には主要貿易品だった毛織物の作業場や、遠来の客をもてなした応接室などがそのまま残されている。

夢のような話だ。鉄道すらない時代、こんな山奥から果敢にも国境を越え、欧州からアジアにかけての繁栄都市に商路を築き、国の頭越しに人、モノ、文化の交流をしていたなんて。
世界にはいつの時代も目をみはるようなコスモポリタンがいる。その人たちの冒険に思いをはせるだけで、ちっぽけな自分の人生にまで遠い世界から風が吹いてくる。

貿易先の街の風景が正面に描かれたオスレコフの家
オスレコフ家の内部。
商談室は客の出身地に合わせてインテリアが施されている。
ここはトルコの客用


 オスレコフの家のすぐ北には外壁のブルーがひときわ目をひくデベリャノフの家(写真)。
1887年生まれの詩人ディンチョ・デベリャノフが幼年時代を過ごした家として知られるものの、1916年に第一次世界大戦に招集され、遠いギリシャで29歳の生涯を終えた。
庭の女性像は、戦場から帰らぬ息子を待ちわびるディンチョの母の姿だ。頬杖をついた哀愁あふれる存在感に胸をつかれる。

内部にはオスマンふうのファブリックを活かした温かみのある居間や、当時の食器や調理用具が並ぶキッチンなどが公開されている。貴族階級でもない一家の贅沢でゆたかな暮らしの一端が垣間見られ、この村の短い夢のような栄華をありありと感じた。そして家自体にそうさせる力があるかのように、いち外国人旅行者にすぎない自分が、かつてここで暮らしていたような感覚を生き生きと思い浮かべていた。

デベリャノフの家。ゆりかごが置かれた子ども部屋
異国で戦死した息子デベリャノフの帰還を待つ母の像


 ドラマチックな歴史をそれぞれに閉じ込めた家々を訪ねるのは、波乱の人生を生きた高齢者に話を訊くのと同じくらいエネルギーを消耗する。
主要な家をいくつか訪ねると脳と感情の許容量が満杯になってしまったためハウスミュージアム巡りの踏破はあきらめ、観光ルートとは離れた村の小径を夕方までのんびり歩いた。

 子どもたちが写生をしたり、小川の岸で草を食む馬たちに姿にホッとしつつ、今は静けさと寂寥に包まれた村が歩んだ劇的な歴史を思う。ここに産まれ生きた人々の野心や夢や冒険や失意の痕跡の上を、バルカンの澄んだ風が吹き渡っていた。自分に詩も絵も描けないことがもどかしかった。

廃屋や古い屋敷を写生する遠足中の小学生
小川のほとりでのんびり草を喰む馬
街のあちこちに設置された優しい木のベンチ

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