林浩治「在日朝鮮人作家列伝」07 李恢成(りかいせい/イ・フェソン)(その5)
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李 恢成──日本文学に斬り込んだ在日朝鮮人作家のスター(その5)
5.朝鮮総連に勤務する
大学卒業後も引き続き組織の活動に邁進する李恢成は、幹部養成学習の実習で総連京都太秦支部に派遣され、翌1962年は朝鮮総連中央教育部に配属された。
1963年1月、朝鮮新報社に転勤し記者として勤務するが、若い李恢成に対する雰囲気は良くなかった。済州島出身者の多かった朝鮮新報社は「済州島地方主義の巣窟」と総連中央から睨まれていたようで、父の出身が北朝鮮だった李恢成は、中央から派遣されたスパイと思われたようだ。
3月、28歳で許承貴と結婚する。留学同のサマーキャンプで出会った東京大学の学生だった。
この頃、在日本朝鮮人総聯合会(総連)は韓徳銖(ハン・ドクス)議長と、金炳植(キム・ビョンシク)第一副議長の支配下にあった。金炳植は韓徳銖の姪婿にあたり、2人は対抗勢力を追い落とし権力を握っていた。
金炳植は「ふくろう部隊」と呼ばれる私兵集団を使って抵抗勢力の排除を暴力的に押し進めた。やがては韓徳銖議長をも排除して在日のトップに立とうとしたため、1972年に本国に召還されて失脚した(ただしその後復権している)。
金炳植時代に朝鮮総連からは脱退者が相次いだという。
李恢成は朝鮮語による創作をめざしたが語学力不足で断念、日本語での活動を志したが、かつて米川正夫に指摘されたように日本語力も中途半端だと自覚していた。
しかし『統一評論』1964年9月号に小説「その前夜」を発表、第一回統一評論賞受賞した。金泰生がほとんど一人で運営した雑誌で李恢成のために用意された賞だった。
1965年6月22日、日本の佐藤栄作政府と韓国の朴正煕大統領との間で「日韓基本条約」が締結された。
これによって日本は韓国と外交関係を樹立し、韓国を「朝鮮半島唯一の政権」であるとしたため、朝鮮民主主義人民共和国は反発した。李恢成は、この日韓基本条約締結に反対するデモに参加している。
1965年頃、金炳植の組織私物化などの総連組織内部の矛盾に悩み、精神を疲弊して病院に通った。
自筆年譜(李恢成『可能性としての「在日」』講談社文芸文庫)に〈ある人物の追放にも衝撃を受ける。〉とあるが、ある人物とは留学同時代からの盟友金奎一のことだと思われる。
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*(ヘッダーの写真):ウラルフクロウ
本からの画像:Naturgeschichte der Vögel Mitteleuropas、Naumann、Band V、Tafel 7 - Gera、1899(フォン・G・バーグ、カール・R・ヘニッケ編 Naumann, Natural history of the birds of central Europe, 3rd ed. オーストラリア、1905)
パブリックドメイン(wikipedia「フクロウ」)
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