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林浩治「在日朝鮮人作家列伝」04   鄭承博(チョン・スンバク)(その4)

鄭承博──差別を跳ね返し淡路島の文化人として生きた歴史の証人(その4)

林浩治

(その3)からのつづき

鄭承博『水平の人 栗須七郎先生と私』みずのわ出版、2001年刊
(品切れ中?)


4)栗須七郎と出会う


一日2時間の自由時間に近くの寺で休んでいた承博は、そこで水平社運動の指導者栗須七郎と出って、こんなことを言われる。
「おまえはまだ子供のくせに、こんな汚らしい着物を着て、仕事ばっかりしていたのでは人間になれない。」
栗栖七郎は「学ばざる者は草木に等しい」という持論を持っていた。

1937年8月13日の朝、お盆の給金15円をもらった鄭承博は、翌朝3時に農家を脱走し、始発列車に乗って大阪の栗須家を目指した。

栗須の家は大阪市浪速区栄町の長屋だったが、大阪水平社西浜本部を兼ねていた。ここで承博はいきなり家族扱いされた。ここでは朝鮮人も日本人もなかった。
翌朝には近所の朝鮮人の子供たちが集まってきた。
早朝に栗須先生の講義を聞いてから登校するのだった。
承博は彼らや栗須の娘である文子に勉強を教わり、翌1938年4月から大阪市立栄町第二尋常小学校4年生に編入した。14歳だった。

承博は根っからの働き者であるのか、子どもながら無為徒食を恥じたのか、栗須に頼んで新聞配達を始める。幼児期から家の手伝いをし、8~9歳には松葉売りをして金を稼ぎ、日本に来てから飯場の飯炊きをして来た。働きづめの鄭承博である。

成績優秀だった鄭承博は6年生になって級長を任せられるほどだった。
栗須に進学を勧められ工業学校や農学校など上級学校を受験するが、ことごとく不合格になった。明らかに朝鮮人として差別された結果だ。

鄭承博は一旦、入試のない芦原高等小学校に入学したが、1942年ここを中退し、東京の日本高等無線学校に入学した。
18歳になっていた承博は、池袋の女性装飾品工場で働きながら通学した。

しかし翌年、朝鮮人学生全員が校長室に呼ばれ、放校が言い渡された。朝鮮人に無線技術習得を禁止したための放校処分だったと思われる。

大阪に戻った鄭承徳は生野区の軍需工業米沢金属の徴用工として入社した。この会社で、食料品調達係りとして買いだし闇屋をして検挙されたことは、小説『裸の捕虜』に書かかれた通りだ。

(その5)へつづく

「裸の捕虜」所収の本たち

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◆参考文献 

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◆著者プロフィールは

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