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寺田和代「本と歩く アラ還ヨーロッパひとり旅」 第3回 ブルガリア篇(6)

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ブルガリア篇(6)バラの谷、カザンラク

歩くだけで体にバラの移り香がつきそうな街

 翌朝は村全体が冷たい霧雨のヴェールに覆われていた。
再び乗合バスでコプリフシティツァ駅に戻り、ブルガリア国鉄でさらに東にあるバラで名高いカザンラク行きの列車に乗る。

早朝のせいか駅には列車を待つ数人の地元の人らしい客以外、外国人ふうは私だけ。なんてさびしい景色だろう。

すでに自分がいま世界のどのあたりにいるのか、すぐに認識できない。甘い感傷と言われても、国や言語などの属性から解かれ、世界の誰ともわからない人間である自由、ただ一人の旅人である喜びが、孤独やさびしさにまさる。それもまたソロ旅にとり憑かれた理由かもしれない。

 約2時間後、カザンラクに到着して空を見上げると、晴れ間が広がり始めていた。3日後から世界的に有名な《バラ祭り》が始まるタイミングだった。駅前を見る限り旅行者の姿はまだまばらだったけど、3日後からホテルは満杯、宿泊代も目玉が飛び出るほど高額になる(私はその前に街を去る)。

 ここでカザンラクとバラの関係を簡単に。
ご存知の人も多いけどこの地域でバラといえば鑑賞用ではなく精油を抽出する品種ブルガリアンローズ(正式名はダマスク・ローズ)を指す。花の直径は5〜8㎝ほどと小さめで鑑賞用のようなバリエーションや華やかさはないものの、甘く優美な香りがする。
これを大量栽培しているのがブルガリア中心部、バルカン山麓の“バラの谷”とよばれる一帯で、中心都市がこのカザンラクというわけだ。世界のバラ香水の原料のうち約7割はこの地域で生産されているそう。

 駅から中心地に向かって歩く道すがら、開花まもない街路樹ならぬ街路バラが甘く香り、それだけでこの街に歓迎されている気がして、荷物の重さも、道順が合っているかという不安も忘れた。さすが世界一のバラの街。

満開の街路バラ。歩道を歩くだけでほんのり移り香が


心霊スポットふうのアパート、部屋に入れば…


 予約したsquare viewという名の "広場を見下ろす” アパートは中心地セヴトポリス広場のすぐそば、のはず。だってその立地ゆえに選んだのだから。ところが、すぐ近くにきているはずが見つからない。
あたりを行きつ戻りつし、ここしかない、というアパートを特定したものの、入り口の集合ポストはぶっ壊れ、呼び鈴は錆びて荒んだ姿。まるで心霊スポットか殺人現場みたい。

 こみあげる不安をなだめながらしゃがみこんでいると、どこからともなく、ハロー、という声が。
声の方向を見上げるとソフィアのカリナ同様、アパート上階から手を振るその人が、予約した部屋のオーナー、ニコラだった。

 手を振り返すと、すぐに降りてきて荷物を預かってくれ「あと1時間で部屋の準備ができるから、広場でなんか飲んでて」と告げると、部屋の鍵と、3日後から始まる《バラ祭り》のパンフレットをくれた。
聞き取りやすい英語と知的な雰囲気に安堵のあまり、またもへたりこみそうになる。弱気なBBAツーリストは窮地でも安堵でもへたりこんでしまう。

ニコラのアパート入り口。不安にさせる玄関の集合ポスト
ニコラのアパート。呼び鈴を押したくてもこのありさま
外観イメージとは真逆だった美しいアパート内!


  その安堵すら、1時間後に掃除の終わった部屋に入った時のさらなる安堵の深さには及ばなかった。
隅々まで清潔な1LDK。わが家よりずっと広くてきれい。
リビング卓上には、手作りとおぼしきポプリが置かれ、控えめなバラの香りが部屋じゅうに漂っているではないか。外観と室内の印象落差という点ではカリナの部屋以上だ。旅の神よ、ありがとう。

 ひと休みのち、ニコラがくれたパンフレットに紹介されていたバラ博物館まで散歩に出る。
2016年にオープンしたばかりの建物には、バラと街の歴史、バラ精油の製造過程や、道具類などが展示(写真)されていた。
バラは、花そのものはもちろん、香水などの化粧品、食べ物、飲み物、歴史、芸術、詩……、すべてが人を幸せな気分にする。だからショッピングコーナーが楽しいのなんの。化粧品類のサンプルや試食品をさんざん試し、バラの香気に舞い上がりながら、いつもは節約のために買わない(買えない)おみやげにバラのクリームや化粧水などを求めてしまった。
なぜあの時もっと買わなかったのだろう、と帰国後に珍しく悔やんだことを覚えている。

バラの化粧品類。奥はニコラ手作りのポプリ

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