見出し画像

野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第三話 只野真葛(ただの まくず)(4)

(↑ 楊洲 周延(画) メトロポリタン美術館蔵 C00)

→ 野口良平著「幕末人物列伝」マガジンtopへ
→ 野口良平「幕末人物列伝」総目次
← 只野真葛(3)からのつづき

4

 
  自分の立てた志をなしとげるために、何をどこから始めたらよいのか。身分や性の差別が支配する封建社会に生きる一人の少女にとって、これはとりわけ切実な問題だった。

 さしあたり取り組める課題があったとすれば、人間観察である。
たとえば、工藤家と母の実家桑原家との確執について。平助の名声と工藤家の盛運に対し、同じ医家として桑原家の人びとが不穏な思いを抱いているのを、真葛は感じた。世の中を動かしているのは、実は欲と欲のせめぎあいなのかもしれない。

 工藤、桑原両家の板ばさみになり、結婚生活の苦労が骨身にしみていた母は、真葛に早くも縁談がもちかかるとこれに反対し、奥女中奉公に出てまずは世間を広く知ることをすすめた。
安永7年(1778)9月、真葛は仙台藩上屋敷に上がり、奥女中として当主伊達重村(1742-96)の息女詮子あきこ(満姫、1770-1844)に仕えた。この奥女中勤めは、以後10年におよぶことになる。

現在の新橋駅近くの伊達家上屋敷跡
上写真の案内板
上の案内板の地図(真葛が勤めていた頃の図だ!)


 徳川家も大名家も、儀礼の場である「表向」と「奥向」という二重の空間構造を持つ点では同じだった。
「奥向」はさらに、日常の政治をつかさどる男性だけの空間である「表方」と、当主の妻子の住居である「奥方」とに分かれ、奥方は、奥女中と男性役人が共同で維持運営した。

 この奥方には、重要な政治的役割があった。表向と同じように奥の儀礼や大名間交際などを滞りなく行うこと。あるいは、男性当主がその役割を十分に果たせないときに、その妻が役割を代行すること。
伊達家の例でいえば、重村の正室観心院(近衛家の養女年子、1745-1805)は、藩主たちが相次いで死去して伊達家が危機をむかえた際、強い指導力を発揮しこれを乗りこえたことで知られる。源頼朝の妻北条政子、今川義元の母寿桂尼と同様の役割を果たしたともいえる。

 奥奉公には一般に、良縁を得る機会ということにくわえ、女性が実地経験をつみかさね、昇進や出世の可能性を開くという意味もあった。
だが真葛の場合は、奥はあくまでも「われにひとしき人なき世」であり、「独りづとめ」の覚悟で同僚たちと距離を置き、人間と社会に対する洞察力と認識を養う場所だった。

 奥という社会に出た真葛を強くとらえたのは、町家が武家にむける敵意と憎悪の強さである。
同僚には武家の出の者も町家の出の者もいる。同僚同士が二つに分かれ、武家と町家のいずれが善でいずれが悪かの言い争いになり、武家側が完全に言い負かされてしまうという出来事も、真葛は目のあたりにした。
もう一つ、男女の関係にも強い印象を受けた。奥女中は藩主の目にもとまりやすく、林子平の姉お清の方(円智院、1731-61)のように、実際に藩主の側室になる場合も少なくなかったし、大胆にも藩主に恋文を書き、暇を出された奥女中もいた。
真葛の眼には、一人の女と一人の男のかけひきには、身分や地位の上下関係には還元できない機微がぎっしりと秘められているようにみえた。

→ 只野真葛(5)へつづく

← 只野真葛(3)へ戻る
← 只野真葛(1)へ戻る(著者プロフィールあり)
← 野口良平著「幕末人物列伝」マガジンtopへ
← 野口良平著「幕末人物列伝」総目次

◆参考文献

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆著作権等について


・全文章の著作権は、著者(野口良平先生)に(版権は、編集工房けいこう舎に)帰属します。
・キャプションに*(著者撮影)、**のある写真・図像は、図像の転載転用はご遠慮くださいませ。
・記事全体のシェア、リンク、ご紹介は、とっても嬉しいです!! ありがとうございます!!
(編集人)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?