野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第二話 高山彦九郎(11)
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11(最終回)
6月19日、筑後久留米の旧知の医師森嘉膳宅に現われた彦九郎は、明らかに異状を呈し、指で歯を鳴らし歯ぎしりを繰り返すので、森は脈を診て薬を与えた。
森家の客となった彦九郎は、1日ずつ父、祖父、祖母を拝んだ(『筑紫日記』、17日には母を拝んでいた)。
26日、旅日記などの書類をたらいの水に浸し、揉み破りはじめる。なぜそんなことをするのかと森が問うと、狂気なり、と答えた。
翌日、その様子がひどくなったので、森は制止した。
一時落ち着きを見せたので安心して場を離れたすきに、彦九郎は着衣のまま自らの腹に刀を突き刺した。
彦九郎が虫の息で告げた言葉を、森は書きとめている。
「私が日頃忠と思い義と思ったことは、みな不義のことになってしまった。今にしてわが智の足らざることを知る。そのことで天は私を責め、このように狂わせたのだろう。人びとにはそう告げてほしい」。
そのあと都と故郷の方角にむけて姿勢を正し、柏手を打って何かを念じたが、気力を失い倒れ伏せ、28日朝、息絶えた。
遺書代わりに歌が2首。
故郷の高山家は遺体の引き取りを拒んだが、翌年叔父長蔵が久留米を訪れ、遍照院で改めて法要を営んだ。
彦九郎を追いつめた側の宰相松平定信も、幕藩体制の動揺を感知していた点では彦九郎と変わらなかった。二人の違いは、彦九郎があくまでもひとりの草莽だったことだ。
幕藩体制に代わる人民本位の文治政治が実現するための根拠を、彦九郎の場合、天皇への信奉にもとめた。人民の政治参加が困難だった近世という条件のもとで、それ以外にどのような考え方の道筋がありえただろう。
だが彦九郎の最後の言葉は、その近世そのものが一つの大きな壁にぶつかっていたこと、そしてそのことに彦九郎自身がどこかで気づいていた可能性を示唆している。
でなければどうして彦九郎が最後にみずから「狂気」を口にしただろうか。
何かを指す指が曲がっていたとしても、それ以上に大切なのは、その指で何を指そうとしていたかだ。
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※ヘッダー画像:久留米・森嘉膳邸跡「高山彦九郎終焉の地」(著者撮影)
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