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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第4話 真葛の文体を培ったもの――真葛落穂拾い(9)
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9 だからどうだということを書かないということ――紀行文「いそづたひ」
『独考』をほぼ全否定し、真葛に絶交状を送りつけた馬琴だったが、真葛の境遇に深く共感し、自分としては精いっぱいの仕方での助力を申し出るという、いわば蜜月の期間もあった。
まずは検閲にかかる心配のない著作物を世に出し、著者の知名度を高めるべきではないか。そのためになら自分は尽力すると約束した馬琴に、そういうことなら、と真葛が送ることにしたのが、仙台で集めた聞き書をもとにまとめた説話集『奥州ばなし』と、松島湾の七ヶ浜を知人たちと旅した時の紀行文「いそづたひ」だった。
――葉月〔8月〕はじめの頃、磯づたひせんと思ふこと有て、塩がま〔塩竃〕の浦より舟にのりて、東宮浜を過ぎて、代が崎につきて、むねむねしう〔集落の中心と〕見ゆる所によりて、いこひたれば、あるじ〔主〕いでて物語す。
こう語りおこされる「いそづたひ」は、風景描写の部分では整序された道行文の形、土地の人びととのやりとり(聞き書)の部分では口語の呼吸をまじえた俗文体という、掛け合いのような二層構造をそなえた紀行文である。56歳の真葛が七ヶ浜を訪れたのは、文政元年(1818)の初秋。『独考』の本文はすでに書き終えられていた。
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CC 表示-継承 4.0 /ファイル:Matsushima miyagi z.JPG
自分に語りかけてくる人の言葉に耳をかたむけ、心にのこったことどもをただ書きとめるのが、真葛の方法である。家の主は、潮の満ち引きがはじまると、この海も面白いことになるのですがなと、鯨と鯱の話を語り出す。
――鯨は味よく身が多いので魚たちが狙うのだが、大きくて強いので簡単にはいかない。総身の鰭が針のようにとがり、両脇の鰭は鎌の形をしていて、これに裂かれてはひとたまりもない。獰猛な鯱でさえ、おおぜいで一匹の鯨を狙う。鯱に襲われた鯨が浦に身を横たえているのをみると、深さ七寸ばかり、長さ二三間ほどの疵が幾筋もついて、肉は左右に割れて、おそろしげなようすだ。一年前、こんどは鯨に打たれて死んだ鯱が浜にあがっていたことがあった。口が広く牙は尖って長く、背が反って剣を植えたような鰭が生えていた。
そう言って主が見せてくれたのは、白い岩のように苔むした、鯱の頭部の骨。直径七八寸ほどの丸い穴二つは鼻の穴で、異様に思われる。身の丈も明らかに六七間はある。
主の案内で八が森という所にのぼってみると、来し方の舟路で感心していた景勝など取るに足りない。趣のある崎々に波が打ち寄せるさま、果てもない海原に釣舟がうららかに浮かんでいるさま、もう言葉が出てこない。たくさんの島々のなかの牛島というのは、ほんとうに大きな牛がそこにいる形だ――。
だからどうだということを書かないのが、真葛の文の美質だ。
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※ヘッダー図:葛飾北斎画「千絵の海 五島鯨突」1830年ごろ
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