林浩治「在日朝鮮人作家列伝」07 李恢成(りかいせい/イ・フェソン)(その1)
↑ 樺太・真岡の本町(1945年、撮影者不明、国書刊行会「目で見る樺太時代」より。パブリック・ドメイン)
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李 恢成──日本文学に斬り込んだ在日朝鮮人作家のスター(その1)
1.故郷サハリン
李恢成は、1935年2月26日樺太(サハリン)真岡郡真岡町相浜町4丁目10番に生まれた。二人の兄がいて、後に妹二人が生まれた。
当時、サハリンには30万の日本人とともに約4万3千人の朝鮮人が居住していた。日本政府が炭鉱やインフラ建設の労働者を朝鮮半島で募集・徴用したためである。
李恢成の父も1930年前後に北朝鮮の黄海道から募集に応じて渡日、湯本炭鉱、常磐炭鉱から北海道に移りタコ部屋生活も体験して樺太まで流れてきた。
父はサハリンの真岡では協和会(朝鮮人の同化推進団体)の地区幹部を勤めた。現実主義者だった。
母は南朝鮮の出身だった。渡日して炭鉱で働いているときに知り合った父と北海道から樺太へと渡り歩いた。ニシン漁でわく浜辺でもっこを担いで働き、家では料理も裁縫も上手で野草を摘んできて薬を作ったりもした。
李恢成は1940年5歳の時、母に連れられて朝鮮慶尚道延日郡に母の実家を訪ねた。そのとき母は日本の着物を着て行った。
李恢成少年はおねしょの多い子どもだった。寝小便をたれると「おばさんの家に行って塩をもらってきな」と言われた。器を持って塩をもらいに行くと尻を叩かれるのだった。
李恢成少年は紀元2600年奉祝の翌年(1941年)尋常小学校から国民学校に改編された小学校に入学し、皇国少国民としての教育を施された。
明治政府は神武天皇が即位したとされる西暦紀元前660年2月11日を「紀元節」と決めて、1940年を建国から2600年の節目として国を挙げて祝賀行事を挙行した。
国民学校入学の日、李恢成少年は和服を着た母親に手を引かれ、新品の学童服を着て帽子をかぶりランドセルを背負っていた。ほぼ同世代の高史明と較べると経済的には恵まれていたと言える。
両親は仲が悪く、父は母を足蹴にし髪を引きずり回した。その母張述伊は1944年に36歳で病死する。
サハリンの北緯50度以南の南樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により日本領となっていたが、1945年8月8日、ソ連は対日宣戦を布告し11日南樺太に侵入交戦開始した。
日本人の一部は、朝鮮人がソ連軍と連絡をとっているという妄想に捕らわれ朝鮮人狩りが始まっていた。
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