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明らかに何かが壊れ始めた音してる気がする

「茨城で起こった事件に、何かが壊れ始めたような音を聞いた気がしたんだよね。」

今、カナダに住んでる親友にいつの間にかそんな話を私は始めてた。

「昨日茨城でさ、電車内でタバコ吸ってた28歳の男高校生男子が注意をしたんやけど、返り討ちに遭ってしまって、顔面骨折した挙句、ホームで土下座させられてそこから頭踏まれるっていう事件起きてんけど、明らかに何かが壊れ始めた音してる気がするんよな。」

ちょっと詩的な表現を入れてしまいたくなるような、そうしなければ心が持っていかれてしまうよな、悲劇的な事件だったと私は思っている。


「みんなはこの事件に何を思ったのだろう?」


そんな疑問が生まれたため、ここに残そうと思ってこの文章を書き始めているのだが、もしよければお付き合いいただきたいです。


どんな感情が人間には芽生えるだろう。

この事件を考え始めてまず思ったのが、「どんな感情が人間には芽生えるだろう」だった。

この事件によって、さまざまな考えが一人一人に生まれたのではないだろうか?

だが、私は考えた挙句「どこの目線から見るべき事件なのだろうか?」とそんなことに思考を巡らせていた。

例えば、
高校生の男の子の視点とすれば、「正義感? 苛立ち? 嫌悪感?」
その場に居合わせた人ならば、「自分ならどうしただろう? 無責任? 自分ではない安堵感?」
殴った男であれば、「同族意識? 共感? 欲求? 自尊心? 」


高校生の男の子の立場の感情か、自分がその場にいた人としてか、
はたまた、殴った男の心理への共感か。

何を主体として率直に(無意識下で)見てしまっているか?と言うところでを見つめると、
「今の自分がどうなりたいか」とか、「今のリアルどう言う立場に立っているのか」とか「どう言う感情が占めているのか」など、自分が”求めているもの”がわかるんじゃないかと思った。


だからこそ私は、あえてこの「殴った男にフォーカス」するべきじゃないのだろうか?とそんなことを思う。

※ちなみに私はこの事件を知った時に、無意識下では”その場に居合わせた人間”と自分を想定して見ていた。そして延長で「歯が折れる覚悟で立ちはだかれるか?」と考えて、考えて、辞めてしまった。「その場に居合わせないとわからない」そう思うことで”自分のリアルではないこと”から逃げたのかもしれない。喉の奥から苦い汁が出てきそうな正義臭い想像をしてしまいそうで気分が悪くなった。
だからこそ、あの場のリアルで、自分の脚で立ちはだかったあの高校生は、あの日心の何かが壊れたかもしれない。。だが、その壊れたところを埋めるのに、恨みや憎しみで埋めず、侵されず、どうかどうか、、と切に願う。


この男にとって高校生の存在とは?


私からしたら高校生の男の子は可愛い盛りだし、言い方を変えればピチピチギャル(ちょっと違うが、まぁニヤピン)だ。
箸が転げただけで笑っちゃうような、それが許されるし、許されるべき存在だし、そもそも私がそうだった。

まぁ、態度のでかい高校生とか、ガキンチョは、そりゃムカつかされる時もあるし、
「なんだこのク○ガキ(怒)」ってなるけれど、ぶっ飛ばしたいくらいにはならない。

だってそれは、彼らは日々間違えて、「キャいんっ!」って強い(賢い)人から言わされながら成長をしていくべき存在だし、成長すれば良いと思っているからだ。

そして、「明らかに高校生より自分の方が社会で強い存在だし」っていう自負が私自身にあるからだ。
高校生にどうこう言われても、正直蚊に噛まれた程度に思ってしまう。
(正直仕事でごちゃるクライアントの方が厄介だ。)


でも、この28歳の男は殴ったのだ。
そして、ホームで跪かせ、その頭を踏んだのだ。

その心理とは何なのだろう?

きっと彼の中ではどこかでこの男の子の方が優った感覚が走ったのではないだろうか?
だから、唯一勝てるもの(物理的な力)で勝負をしてきたのではないか。

「こんなに強い俺はここにいるぞ!」
そんなことを考えていたんじゃないだろうか、と思えて仕方がない。



みんな誰しもこう叫んでる、「ここにいるぞ!」


最近読んだ本から、【みんな誰しも「ここにいるぞ!」と叫んでいる】と、
このようなメッセージを受け取ったのだ。

その本のタイトルは「無理ゲー社会」

橘 玲(たちばな あきら)さんが執筆した2021年に出版された本だ。


内容としては、現代社会においてひたすらに掲げられている「自分らしさ」にフォーカスを当てているものになるのだが、
最初は若者の「自殺願望」と言うところから切り掛かっていくのだが、そこからの本の展開の仕方が非常に面白い。

わたしたちは「自由な人生」を求め、いつの間にか「自分らしく生きる」と言う呪いに囚われてしまったのだ

引用:無理ゲー社会

「自分探し」なんて言葉が当たり前に使われるようになってだいぶ月日も経つが、これは一種の呪いになっていないか?

そんなダークヒーローのような立ち位置からこの本は「自由ってなんだ?」と言うことを解いていく。

この考えが最近私の考えていることにかなり近いものだったので、さらに面白いと思えた本だった。

※この本全体の話では、
もっと心理的な、はたまた哲学的、倫理的、論理的な内容も含まれたかなりミックスした内容なのだが、今回は「自分らしさ」というところをピックアップしたいのと思っている。


「自分らしさ」が人の首を絞めているのではないか?

 
人々が欲しがっている「自分らしさ」というものが、人の首を絞めているのではないか?まさに【不都合な自分らしさ】ではないか?

そんなメッセージを感じる作品であり、
そして、今回のこの事件に、この本の内容は(皮肉まじりに強いて言うと)寄り添っているかもしれないと感じてしまった。

この本ではよく【リベラル社会】と言う言葉が出てくるのだが、

リベラル: liberal)は、「自由な」「自由主義の」「自由主義者」などを意味する英語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

筆者はこのリベラル社会に対して、そこまで好意を抱いている印象をこの本では出していない。


そもそも、自由、とは何だろうか?

自分とは、他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。

引用:Oxford Languagesの定義

上記の定義から考えると、「他人からの関与ではなく、自分の決定で物事を進めることができること」だ。

と言うことは、よく大人達がいう「子供はいいなぁ、自由で」と言う言葉はこれに合っているのだろうか?

そう、厳密に言えばNOだろう。

子供なんて、正直、どこに住むかの決定権もないし、金もないし金を生み出すのもほぼ難しいからほしいものは買えないし(一部天才はおいておく)が大人に束縛(管理)され放題だ。
(むしろそれすらも気付いてないレベルだ)

なのにどうして大人達は子供を「自由」ということに結びつけてしまうのだろうか?

それは、「心」にフォーカスを置いているからだと推測する。


多様性という罪深い美しいもの

多様性が認められるほど探すべき自分は消失していく。これが自分探しを陳腐化していってる理由だろう。

引用:無理ゲー社会


筆者はこの本の中で上記のように語る。

この文言が出てくる流れもまた面白いので本をぜひ読んでほしいのだが、

私は、多様性という言葉は、美しく、そして罪深いものだと思う。

多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



異なる存在が交わり合い、繋がりあっているからこそ、同じ空間に存在することができる、なんて美しいものだろう。

ただ、
多様性(選択できるもの)が増えるということは、ただ単に選択できるものが増えただけで、要は「選択できてしまう」ことになるのではないだろうか?

例えば、1つ2つ程度の選択肢であればそこまで考えなくても、済むのではないだろうか。
「自分は右だ」とか、「自分は赤だ」とか、
「大体・おおよそ」で誤魔化すこともできただろうし、
ちょっと憧れた方に寄らせる「曖昧さ」に逃げることもできただろう。
※絶対どっちか!のような絶対的選択ではなく、中間地点の解答などもOKと仮定するが、選択肢は与えられていると考える。

でも、多様となったことでどうだろうか?

多様性。

無限に答えがあるということは、むしろ「答えがないこと」そして全く違うはずの「答えがあって当たり前」の2つと同意語なのではないだろうか?

まさに「リベラル」であり、「自分の答え」を言えるのだから、
決定権があり「自分らしさ」になるだろう。


だがこれはむしろ「答えをもたなくてはならない”脅迫概念”」が、どこかで自ずと生まれてしまっているのではないだろうか?



「自分を出すことで逆に縛られる」そんなふざけたリベラル社会

私は今の「リベラル社会」を上記のように感じている。

そして、今回の殴った男はこの思想を歪んだ状態で取り入れてしまったのではないかと思う。

前述したように、
私は、人々が「ここにいるぞ!自分らしい自分がここにいるぞ!」と、躍起になっているように感じてしまっている。

それは、「自分らしい」「あなたらしい」という言葉が、一種の褒め言葉となり、自尊心を満たすワードになってしまっているからだ。

どうにか、この言葉を自分に向けられたいがために、躍起になって”探しまくっている”人が増えたように感じる。

だが、本当に自分らしさを見つけられているのだろうか?

そもそも「今の自分は自分じゃない!」などと思った瞬間に、
「自分らしさ」は達成できているのではないか?と私は思ってしまう。

だって、「自分じゃないことを知った」のであれば、それが自分らしさなのではないか?わざわざ探す必要はなく、その心を受け止めれば良いのではないのか?と思ってしまう。

だが、多くの人はどうしても外部から「あなららしい」「自分らしさがあって素敵」など”評価”をもらおうとしている。

そう、

「評価をもらうための自分らしさ」を探そうとしてはないだろうか?

まるで通信簿で5をもらうために、本来の勉強とは違うこと(先生に媚を売る)などで成績向上を測っているかのようだ。

学生の頃はそれで目的の高校に入れるなどの「制約」があり、「決定権」がある種無いから良いのかもしれないが、

「自由=決定権」を得たいために「自分らしさ」を求めている社会の大人が、「評価をもらうための自分らしさ」を探すのは本末転倒では無いだろうか。

そして、この本末転倒により、さらに転倒していることに気づいていない人も多いと思う。


”自分”という”自由を持つ”ことと背中合わせになると、途端に背中に寒気は走らないだろうか?
それはまるで悪魔や黒いものに背中を取られたような恐怖に似ている感覚のはずだ。

だって、自分が「”自分らしく、自由になれる”」ということは、
赤の他人も同じく「”自分らしく、自由になれる”」ということなのだから。


赤の他人が侵入してくるかもしれない恐怖とリアル

みんなが「”自分らしく、自由になれる”」ということは、
「自分で選択をする」ということだから、
その分を逆の見方をすると、
外部からの侵入が激化してくる時代になって来たのでは無いだろうかと考える。

茨城で起きたあの事件がまさにそうでは無いだろうか。

極論を言えば、高校生の男の子、殴った男、どちらも「”自分らしく、自由に行動”」をしたのでは無いだろうか。

にもかかわらず、あんなに悲惨な結果になったのだ。
「自由」が土足で上がり、更なる自由が暴走してしまった。


なぜだろう?


あるニュースキャスターが言っていたが、
「言葉が通じない、いくら言っても理解できない別の世界の人間だ」と。

そう、彼らは、言語が違うのだ。


言語、自由、、とりあえず考えまとめて寝よう。

言語が違えば、意思疎通がそもそもできない。

努力したくても、家のこととか、もともとの障害とか、顔があまり良く無いとか、そういう先天的な(遺伝的な)問題で、努力できない人がいる。

それを煽るかのように、
ちょうど、私たちの(殴った男の)年代くらいから、
テレビなどで【天才子役!】とか、出来る子供を称賛する文化が出てきた。

あの放映の影響で、一気に劣等感とか、惨めさとかを持ち合わした人が増えたんじゃないだろうか。

その裏で、ナンバーワンじゃなくて、オンリーワン的な、
個々個人の美学に見せかけた、共同体(みんな横一例社会)の美学があり、
この矛盾(自由のようで一つの物体になっているという矛盾)をうやむやにしてしまった(ただの美談のように話し続けた)ことで、

知らない間に心の制御が難しくっていき、
結果、「言語の齟齬(自分らしさ、自由で他人に侵入する)」が生まれ初めてしまってのではないだろうか。

ここで言っておくが、
高校生の子が立ちはだかったことに「自業自得」ということを言いたいのではない、ということを強く言わせてほしい。
そうではなく、私が注目したいのは

「無意識下で教え込まれた教育・無意識下で見てきたマスメディア」は、知らない間に「言語の齟齬」に繋がってしまっていないか?ということだ。

そして、その齟齬に気づくためには、やはり「自分の力=決定権」をつけないといけない、そして、その力は自分のためであって、「評価をもらうための自分らしさ」ではないということだ。

ネット中心の今の社会は、目に見える評価型プラットフォームが非常に多くなっている。
これもまた「評価をもらうための自分らしさ」の発表の場と化していると思う。

情報をネット内で発信して反応があるか、賛同されるかを確認し、自尊心を満たすことに行き着くのかもしれない。

だが、しっかりと頭に入れておきたいのは


「ここにいるぞ!」
そんなことを力わざで示さなくても良いくらい、
”自分の頭”を常日頃から使い、考えて、歩み、自分で動いたならば、
その帰路には足跡がつく、ということではないだろうか。

その振り返った最後の足跡こそが、
「自分らしく」自由に歩くためのはじめの一歩のはずではないだろうか。

自分の備忘録として書いた書いたので寝るとしよう、むにゃ。

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