シンプルの系譜<4> ~ボー・ブランメル~
モダンデザインを一言でいうとシンプルなデザインということになるだろう。
広辞苑には「シンプル」とは「単純なさま」とある。シンプルとは、色・かたち・素材が簡素で抑制されているさまである。
シンプルはモダニズムの専売特許ではない。また、建築やプロダクトのデザインに限られるというわけではない。シンプルという価値観はどこから来たのか。シンプルの具体的な現れ方とは。シリーズ《シンプルの系譜》では、さまざまな切り口でシンプルの様相を探ってみる。
今回は元祖ダンディのボー・ブランメル Beau brummell ことジョージ・ブライアンー・ブランメル(1778-1840)にシンプルの系譜を追ってみる。
ダンディあるいはダンディズムという言葉は、今日ではすっかり手垢にまみれたものとしか響かないが、それでもこのダンディの始祖ボー・ブランメンルの神話は揺るがない。
ボー・ブランメンルはダンディの元祖として今日のメンズスーツのスタイルの基本を作ったとよく誤解されるがそうではない。伝えられている唯一のブランメルの姿を見てみよう。
(*Caricature of Beau Brummell by Richard Dighton 1805, source :
http://www.wikiwand.com/en/Beau_Brummell)
18世紀の終わりから19世紀前半にかけてのメンズファッションの主流は、それ以前のコートのような長いシルクの上着+ブリーチズ(半ズボン)+ストッキングというスタイルから、上半身はフロックコートが進化した乗馬服スタイルの燕尾型のジャケットへ、下半身はトラウザース(長ズボン)へと変化しており、かつての宮廷スタイルからは相当現代風に転換してはいたものの、全体のシルエットは身体にぴったり添ったボディコンスタイルであったし、装飾やアクセサリーも多く、現在の筒状のスーツのイメージからすると、まだまだ大仰で華美で時代がかった感じが否めない。
ボー・ブランメンルの真の革命性はそのアティチュードattitude(態度)にあった。
18世紀の終わりから19世紀前半のヨーロッパ世界は、アメリカがイギリスから独立し(1776年)、フランス革命が起こり(1789年)、イギリスでは産業革命の真っ最中の時代である。貴族社会が瓦解し、とはいえ市民社会や資本制経済などがまだ形として定まらない過渡期の時代だった。最も有名な同時代人はナポレオン・ボナパルト(1769-1821)だろう。)
バイロンをして「ナポレオンになるよりもこの男になりたい」と言わしめたボー・ブランメルのアティチュードとはどんなものだったのか。
(*Statue of Beau Brummell by Irena Sedlecká in London's Jermyn Street 2002 , source : http://www.wikiwand.com/en/Beau_Brummell)
ブランメルが徹底的にこだわったのは、ひとに振り返られない目立たない装いであり、さりげなさであった。
派手な色や華美な装飾や豪華な素材を否定し、奇を衒わない控え目な装いに徹した。一方で着こなしのために体型を維持し、最高の素材を吟味し、ジャストフィットの仕立てにこだわった。装飾品は時計の鎖だけ。オーデコロンもつけなかった。その代わりシャツやクロスの白さに命をかけ、カントリーの澄んだ水で洗濯させたものしか身に着けなかった。身支度には2時間をかけ、満足のいくネッククロスの結び目ができるまで無数の結び損が山積みされたそうだ。
さらにブランメルの究極のこだわりは、こうした工夫や努力を一切まわりの人に気取られないレベルにまで昇華させることでようやく完成されるという、作為を<作為なき作為>のレベルまで追及する徹底的なものであった。
ブランメンルの<作為なき作為>を作為する態度が行き着いた先は、自己をNil Admirari(ラテン語、なにものにも動じないことの意)と呼ばれる完璧な無関心にゆだねるという一種の<超然革命>だった。
ブランメルは、他人の悪趣味な服装やこれ見よがしな態度に対して痛烈な皮肉や無視を持って応じた。周りの賛辞や引き立てに対しても決して有難がらない超然とした態度を維持する徹底ぶりだった。こうしたブランメンルの態度は、当然ながら周りには倣岸不遜と映るとともに、一方で余人にない特異な才能として耳目を集める。
ブランメルという男は、郷士(英語ではエスクワイヤ)と呼ばれる貴族階級では一番下の出自であり、オックスフォード大学を出てはいるものの、上流階級や社交界には縁がなく、軍務や職業にもほとんど就かず、芸術上の功績も皆無の人物だった。そんなないないずくしのブランメルが唯一持っていた特異な個性を見出して、社交界に引き上げたのは後に国王ジョージ4世(1762-1830)となる摂政王太子だった。
イギリス王のなかでも最低の一人といわれるこの王だが、流行と趣味とファッションと社交界においては絶大な影響力を持っていた人物であった。「政治と説教より女と酒瓶」の王だった。夥しい宴会と大量の酒のおかげで晩年のジョージ4世は満身創痍で体重は100キロを優に超えていたといわれている。
(*A Voluptuary Under The Horrors of Digestion,caricature by James Gillray from GeorgeⅣ's time as Prince of Wales,1792,
source:https://en.wikipedia.org/wiki/George_IV_of_the_United_Kingdom#/media/File:A-voluptuary.jpg)
ブランメルは、信奉者であり庇護者でありライバルであったジョージ4世(1762-1830)とも些細なことで決裂してしまう。ブランメルのいつもの傲慢さが災いしたとも、国王を差し置いて社交界に君臨するブランメルへの影響力への嫉妬が原因ともいわれているが、その両方であったろうことは想像に難くない。
ブランメルの<超然革命>の究極のエピソードは、破産してフランスのカレーに逃亡し、困窮していた晩年に、ジョージ4世がカレーの領事の職に任命するというかたちで差し伸べた助力を拒否したことだ。ブランメルがジョージ4世に書き送った内容は、カレーにはそもそも領事などは不要であるというものだったそうだ。結果的に借金が払えず収監され、その後、精神に異常をきたし、慈善病院でひとり孤独な最期を迎える。
自らの苦楽や生死すらも、完璧な無関心にゆだねるというブランメンルの<超然革命>に、新たな時代の価値の体現を見たのが、モデルニテmodernité (現代性、近代性)を掲げるボードレールやバルザックやスタンダールやバルベイ=ドールヴィイなどの19世紀のフランス近代文学者たちだった。
ボードレールはダンディズムについて次のような主旨のことを言っている。
(*Chales Baudelaire , source
: https://www.pinterest.jp/pin/461759768016603405/?lp=true)
それは民主主義が未だ全盛とならず、貴族主義が未だ部分的にしか動揺せず失墜していないような、過渡の時代に現われる一種の新しい貴族主義であり、退廃期における英雄主義の最期の煌きである、と。
貴族時代の出自や家系ではなく、寄る辺なき個人に宿る移ろいやすい精神性に近代の本質を求めるモダニストが見出した価値感だった。フランスでのボー・ブランメルやダンディズムへの評価は、本場イギリスに逆輸入され、貴族社会から市民社会に向けた転換期を象徴する精神となってゆく。
市場経済が席巻し、ダンディやダンディズムは一種の商品として消費されつくし陳腐化して久しいなか、元祖である人物が今もなお語り継がれているのは、シンプルという価値が突きつける既成の価値と権力への拒否の「栄光と挫折」を見ているからではないのか。
(*生田耕作『ダンディズム 栄光と悲惨』表紙,金子国義画)
シンプルとは、己の運命すらにも動じないという完璧な超然さの証だった。ボー・ブランメルというシンプルの系譜は、そう教えてくれる。
*参考文献 :
『ダンディズム 栄光と悲惨』、生田耕作(中公文庫、1999年)
『スーツの神話』、中野香織(文春新書、2000年)
『ダンディズムの系譜』、中野香織(新潮選書、2009年)
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