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10億円の群像~バビロン再訪#3

バブルの頃、都心部でまともなマンションを企画すると億ションどころか10億円マンションになった。坪単価で@2,000万円を超えるような超高額のスーパー億ションだ。

当時、超高額マンションを供給するプレイヤーの双璧は、財閥系の三井不動産と独立系の大建ドムスだった。大建ドムスの販売は住友不動産販売が請け負っていた。

東京都品川区東五反田5丁目。町名が品川区や五反田となっているが、それらが喚起するイメージとは異なり、ここは高さが10mまでの住宅に制限されている一種低層住居専用地域であり、通称、池田山と呼ばれる一画である。

目黒川に向かって土地が下がっていく手前の、淀橋台地の南端部にあたる、品川区のこのゾーンは、目黒川水系によって浸食されてできた谷地が台地を分断するように複雑に入り込み、舌状に残された台地が山にたとえられて、八ツ山、御殿山、島津山、池田山、花房山などと呼びならわされてきた。城南五山とも称される高級住宅地だ。

なかでも池田山は、約38,000㎡ともいわれる広大な旧備前藩松平内蔵頭(岡山藩主の池田家)の下屋敷跡地で明治維新以降はしばらく池田侯爵邸となっていた。大名屋敷だった時代からの回遊式庭園が残され、明治天皇が能鑑賞に行幸したことは、往時の栄華を偲ばせるエピソードだ。回遊式庭園は、現在の池田山公園にその面影をかすかに留めている。

■池田山公園(Photo by Ippukucho - 池田山公園入り口

金融恐慌(1927年・昭和2年)をきっかけに、箱根土地株式会社(当時)の堤康次郎が池田侯爵邸を買い受け、その後、宅地として分譲し、現在の住宅地が作られた。

池田山は、高台だった大名屋敷跡地がほぼそのまま住宅地となって残されており、周りとは隔絶しているかのように大きな区画の邸宅が集積する様子は、山手線の中の都心に近いエリアにあっては、なかなか稀有な環境といえる。

池田山には、かつて参議院副議長公邸、内閣法制局長官公邸(小泉首相が一時仮公邸として使っていた)、美智子皇后の生家の正田家などがあり、池田山が昭和のエスタブリッシュ層に評価されていたことをうかがわせる。正田家は取り壊されて、現在は「ねむの木の庭」という区立公園になっている。

■ねむの木公園(Photo by Ippukucho - ねむの木の庭道からの様子

堤康次郎は当時、皇族や華族が所有する土地を次々と買収し、「プリンス」と名を冠したホテルや分譲地として開発しており、時には買収した土地の一画に自らが住みながら開発を進めることもあったが、この池田山には住んではいないようだ。そうした池田山で10億円のマンション開発の話が持ち上がったのも、なにかの縁かもしれないと思ったりもした。
 
先の三井不動産と住友不動産販売、高級賃貸や外国人賃貸に詳しいKENコーポレーションなどに、超高額マンション事情について教えを乞うた。1988年、時代はバブルのピークへと昇り詰める最中だった。
 
10億円マンションの購入者に共通するのは、一言でいうと「保有資産で新たな資産を手に入れる人々」であり、彼らにたどり着くセールス手法は、大掛かりな集客ではなく、富裕層へのさまざまなチャネルを通じたクローズドされたアプローチが中心だった。財閥系は素封家や資産家一族への独自のつながりを駆使してブランド性をアピールし、独立系は大手には到底できそうにない唯我独尊を地で行くような独特の商品イメージを創出することによって富裕層に訴えていた。
 
当時の商品はといえば、三井はアースカラーのタイル張り外壁、リジッドな印象のRCバルコニー、庇が象徴的なエントランス、ホワイトクロスの内装(例えば、赤坂氷川町パークマンション(1985年竣工)など)、ドムスは赤レンガ調外壁、ロートアイアン調手すり、シャンデリアの灯るエントランス、マホガニーの内装というイメージだった。
 
いずれの商品とも異なる商品企画、これまでの日本のハイエンドマンションにはないイメージを作ろうと考え、住まい手のプライベートな暮らしを大切にした新しいラグジュアリーを実現しようということで、スモールラグジュアリーやレジデンシャルをコンセプトにして、前年(1987年)にオープンしていたホテル西洋銀座のイメージやアイディアを援用した商品企画とすることになった。

具体的には、社交ステージとなることを意識したリビングやダイニングなどのパブリックスペースの設え、独立シャワーブースやMr.&Mrs.それぞれに独立したクローゼットを備えたマスターベッドルーム、ゲストルームやライブラリーなどハイクラスならではのライフスタイルの提案、シンプルさとシックさを併せ持った抑制されたフレンチテイストのインテリア、全室天井ビルトイン型の空調設備、ホテル西洋銀座を銀座のプライベート拠点として利用できる特典、コンシェルジュや外商やホテルフロントによる24時間のパーソナルケアサービスなどを創案した。

 内部プランニングとインテリアデコレーションにはホテル西洋銀座を手掛けたフランス系カナダ人のインテリアデザイナーを起用し、施工は竹中工務店と決まった。坪単価は平均@2,230万円、価格 10,2000万円(197.75㎡・59.82坪)~281,000万円(358.11㎡・108.33坪)、地上3階地下1階、総戸数5戸という計画だ。
 

 営業担当には東京出身でターゲット層に最も近そうなプロフィールの社員を起用し、建築確認を取得した後にプレセールスを開始した。紙質を吟味し宛名を一件一件、毛筆で手書きした案内を送った。
 
反応は悪くはなく、少なくない数の問い合わせがあった。
 
代表的なプロフィールを2名挙げる。一人は終戦の年に生まれ、子役時代から注目を集め、名門映画会社の看板として映画の黄金時代を支えた、現在も活躍中の大女優。もう一人は、国家的プロジェクトを一手に担い、時代を画する建築を作りつづけた戦後日本を代表する巨匠建築家。
 
懸念材料も浮かび上がってきた。1階住戸への一様の反応の鈍さだった。最上階住戸しか考えられません、それは価格の問題ではないのですと丁寧に告げる巨匠建築家の奥さんの言葉が今も耳に残っている。

どう対処すればよいのか。現場があれこれと悩んでいるうちに、突然、建設中止の話が上層から告げられる。敷地を丸ごと買いたいという顧客が現われたのだ。
 
購入希望者は、戦後、下町の町工場からスタートし、業界トップの住宅建材メーカーを作り上げた立身出世の創業経営者一族だった。
 
5戸のうち1戸でも売れ残れば利益はでない。リスクを取って建物を作って販売で苦労するよりは、土地のまま売却して確実に利益を上げたほうが得策だ、ということになったのだろう。なにしろ当時は土地の価格は不断に上がり続け、一時保有しているだけでも十分に利益が見込める価格で売却できたのだ。
 
敷地は転売され、10億円マンションの計画はまさにバブル(泡)となって消えた。

時代は極端な出来事にその姿を現す。
 
映画の黄金時代を支えた大女優、日本を代表する巨匠建築家、一大企業を作った創業経営者。映画が娯楽の王様で、国家を担う建築家がいて、町工場が大企業にのし上がる、そんな時代を象徴する人たち。今になって思えば、10億円マンションをめぐるこの狂騒劇の主役に名を連ねた人々は、いずれも、戦後、さらに言えば次の年(1989年)には終わりを告げようとしていた昭和を象徴するような顔ぶれだった。

「保有資産で新たな資産を手に入れる人々」の「保有資産」の本当の意味とは、決して土地や株のことではなく、戦後や昭和という時代の中で、時代に寄り添いながら、さまざまに開花したタレント(才能)のことだったのだ。
 
時代は戦後社会と戦後経済のまさにピークの瞬間であり、バブルとは戦後の総決算という出来事だった。

再び10億円マンションの登場が言われる昨今、今もまた新たな10億円の群像が生まれている。それはきっと、平成の30年間という時代を映し、時代を象徴する群像であるに違いない。

(★)掲載した写真で池田山関連の写真以外は、在りし日のホテル西洋銀座の写真。ホテル西洋銀座は、2013年5月31日で閉鎖、翌年解体された。

初出:東京カンテイサイト(2018年)


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