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湾岸(ウォーターフロント)はバブルのフロンティアだった~バビロン再訪#1

 今やタワーマンションのメッカとして知られ、すっかり生活のエリア、暮らしの場として定着した感のある湾岸エリアだが、東京湾に面する横浜や東京のウォーターフロント(★1)がフロンティアとして注目を集めたのがバブル時代だった。
 


湾岸(ウォーターフロント)は都市のフロンティアだった


 当時、ウォーターフロント開発事例視察と称して盛んに海外ツアーが組まれ、多くの不動産屋が海を渡った。
 
 時は1987年。マンションディベロッパーの業界団体が主催する、シカゴ、トロント、ボストン、ニューヨーク、オーランド、ダラス、ロサンゼルスを総勢25人で2週間かけて回るという豪華視察ツアーに参加した。入社3年目の若造の参加を許すほどに業界は好景気の予感に満ちあふれていた。
 
 海外の大都市では70年代からウォーターフロント開発が行われており、ボルチモア、ボストン、ニューヨーク、サンフランシスコなど、古くから港町として栄えた北米の大都市では、古い埠頭や倉庫が美しい水辺公園や歴史資源を活かした観光地や高級コンドミニアムに変貌し、ロンドンではテムズ川添いの廃墟が新都市として生まれ変わっていた。 

(*Harbor Park of Bostonのウォーターフロント再生プラン。1987)
 
 背景にあったのが、産業構造の変化により都心エリアが衰退し、人と賑わいを失い、荒廃を招きつつあるというインナーシティ問題だった。
 
 当時の日本の都市には、インナーシティ問題などは影も形もなかったが、なにごとも欧米がお手本の日本は、世界の潮流に遅れてはならじとばかり、全国でウォーターフロント開発に乗り出す。
 
 折りしも日本はプラザ合意(1985年)による円高に直面していた。ウォーターフロント開発は金融緩和とドル買い円売りによる金余りをテコにした、内需拡大のための格好のビジネスチャンスとして捉えられた。
 
 政・官は手つかずの埋立地の使い道を思案し、湾岸に立地する製造業は土地売却で新工場建設の資金捻出を狙い、あるいは自ら不動産部門を創設し経営多角化を目論み、ディベロッパーとゼンコンはまたとない大規模開発のチャンス到来に色めき立った。
 
 かくして湾岸(ウォーターフロント)は都市のフロンティアとなった。
 

湾岸(ウォーターフロント)は時代のフロンティアだった
 


 実はこうした不動産をめぐる動きとは別に、ウォーターフロントブームの火付け役となった出来事があった。
 
 バブルの兆しが見え始めた1986年、芝浦の運河沿いに古い倉庫を改造したライブハウス「インクスティック芝浦ファクトリー」と、その隣に運河を眺めるテラス席があるスペインレストラン「タンゴ」がオープンする。

(*インクスティックとタンゴの跡地。インクスティックは現在は駐車場となっている。2018)
 
 駅から遠い不便な場所、ひと気のない薄暗いストリート、素っ気ないインダストリアルな建築、灯りに浮かぶ運河の水面の揺らぎ。すべてが新鮮でワクワク感に彩られ、まるでローワーマンハッタンの倉庫街で遊んでいるような、そんな錯覚を抱かせた。ホームグランドの六本木からタクシー2メーターで手に入る非日常という訳だ。
 
 この辺鄙な場所にぽつんとできた2つの店は、またたく間に有名になり、ほどなく周辺には同様に倉庫や古いビルを改装した「芝浦ゴールド」「東京ベイ・ゴーゴー」「ハーバーライツ」「ジュリアナ東京」(★2)などが相次いでオープンし、バブルと軌を一にするように芝浦はウォーターフロントの代名詞となってゆく。
 
 BRUTUSは「芝浦波止場も、今や東京ロフト街」と謳い、「文化は今、港区イーストサイドに向かう」と持ち上げ、「インクスティック」と「タンゴ」の仕掛け人の空間プロデューサー松井雅美は、当時を振り返って「そのころニューヨークで広がっていたロフト文化をウォーターフロントのイメージとうまく結びつけ、ファッション性を高めていけばうまくいく、と考えたのです」と語った(★3)。
 
 こうしたカルチャーや消費レベルでのウォーターフロントブームが少なからず各地での不動産開発の後押をしていたのだ。バブルは、気まぐれな流行やうたかたの幻想をきっかに膨らむ。
 
 かくして湾岸(ウォーターフロント)は時代のフロンティアとなった。
 

湾岸(ウォーターフロント)は東京のフロンティアだった


 
 アメリカがお手本でニューヨークに憧れるバブル期の日本であったが、東京の湾岸エリアへのこだわりは、日本の戦後の都市計画史からみると、一種の敗者復活、捲土重来という側面があった。
 
 都市東京を東京湾方面へ拡大延伸させるというコンセプトを初めて打ち出したのが、丹下健三による「東京計画1960」(1961年)だ。
 
 「東京計画1960」は、人口増、経済成長で膨張する東京を、東京湾の海上に設けた都心から木更津まで伸びる都市軸に沿って東に拡大させてゆくという壮大な計画だった。
 
 しかしながらこの計画は実現しなかった。1960年代後半に入っても2ケタの経済成長は続いていたものの以前のような建設の時代は終焉を向かえつつあった。
 
 「東京計画1960」が幻に終わった後、明治維新以来、一貫して西へ西へと拡大してきた都市東京に、バブル時代において初めて東へとウイングを伸ばす機会が訪れる。ウォーターフロント開発はそうした意味を持っていた。
 
 都や省庁や民間による数々の大プロジェクトが持ち上がり、霞ヶ関ビル80棟分のオフィスビス建設、マリーナ都市、森林都市、国際村構想などの大風呂敷が広げられ、ルネッサンスやフェニックスやコスモポリスなど、当時としても気恥ずかしくなるような言葉が踊った。

(*Photo by Tohomar-お台場07.6.15
 
 10号地、13号地とそっけない名称で呼ばれていた東京湾の埋立地は、開発ブームの本丸となり、政財官民いり乱れての主導権争いの様相を呈した。丹下健三は先の計画をリニューアルした「東京計画1986」をぶち上げ、後に臨海副都心と呼ばれることになるこの地をめぐる争いに参戦する。
 
 かくして湾岸(ウォーターフロント)は東京のフロンティアとなった。
 
 

タワーマンションが林立する今の湾岸(ウォーターフロント)はバビロンの夢が実現した姿か


 
 目白押しだったこれらのウォーターフロントの開発計画はその後どうなったのか。
 
 1990年3月の不動産融資の総量規制をきっかけにバブルが崩壊し、これらの開発計画は軒並み、延期、見直し、中止を強いられる。バブル前から開発が先行していたMM21も進捗に急ブレーキがかかり、佃島のタワーマンション(大川端リバーシティ21)などの販売中物件では好調な販売が一転する。170万票の無党派層の票を集め当選した青島幸男新東京都知事は、臨海副都心で開催予定の世界都市博の中止を宣言(1995年)し、丹下健三の執念も再び挫折することになる。
 
 夢はいつも遅れて現実となり、思ってもみない姿で現われる。
 
 ウォーターフロントがフロンティアになるという、バブルが見た夢が現実となったのはつい最近なのかもしれない。
 
 東京の湾岸エリアでは、90年代後半以降、タワーマンションの建設が目立ち始める。東京都の臨海ゾーンを舐めるように、品川区から港区へそして中央区から江東区へと、埋め立て地を舞台に東京湾を沖へ沖へと、あたかも自己増殖するかのような勢いで増え続けるタワーマンション。その様子は、まるで開拓時代のフロンティアを目指したアメリカ西部のゴールドラッシュさながらだ。 

(*晴海の2020東京オリンピック選手村建設地。2016)
 
 
 内廊下の容積不算入、高層住宅誘導地区、都市再生特別措置法など幾重もの規制緩和とバブルの崩壊ですっかり下がった土地価格と「失われた20年」で放出される企業用地がその主な要因とも、あるいは商業施設などのニーズが弱含みのなか、底堅い都心居住ニーズを狙う思惑が背景にあるとも言われている。
 
 
 今の湾岸(ウォーターフロント)は、ニューヨークとも、非日常とも、大風呂敷とも、すっかり無縁の日常となった。一方、その日常に漂う、かすかな自信と楽観と多幸感は、どこか既視のもののようにも思える。
 
 タワーマンションの建設ラッシュに沸く今の湾岸(ウォーターフロント)の姿こそが、バビロン(★4)の夢が実現した姿あり、バビロンの見た夢は、バベルの塔さながらのタワーマンションの林立でようやく30年後に実現されたのかもしれない。
 
 ブログ「バビロン再訪~バブル時代のマンション物語~」では、現代におけるバビロンともいうべきバブル時代の東京とその時代のマンションを物語ることにしよう。


 
 (★)トップ画像:An aerial photograph of Baltimore's Inner Harbor at dusk in December 2022 photo by Matthew Binebrink  / CC-BY-SA4.0

(★1)バブルの頃は水辺ゾーンや臨海部や港湾エリアを総称してウォーターフロントと呼んでいた。本稿では東京湾沿いの臨海エリアをさして近年よく使われている「湾岸エリア」とバブルの頃の呼称である「ウォーターフロント」をあえて混在させて使用しており、湾岸(ウォーターフロント)という表現も使っている。
 
(★2)今やバブルの象徴として有名になったディスコ「ジュリアナ東京」であるが、そのオープンは1991年のことであり、そこで繰り広がれらた狂騒はバブルがピークアウトした後だった。バブルの崩壊といっても、文字通り一気に崩壊したわけではなく、その認識は後づけのものであり、金融、証券、地主、不動産、広告、メディア、官僚、政治家、遊び人などそこに参画したさまざまなプレイヤーは全貌が見通せないなか、しばらくはそれぞれの立場が許す限り、バブルと同じ振る舞いを続けていたのが実態である。
 
(★3)NIKKEI STYLE 2012/4/6 東京ふしぎ探検隊
*下線部リンク先:https://style.nikkei.com/article/DGXBZO40183900V00C12A4000000
 
(★4)バビロンとは起源前のメソポタミアで栄えた古代都市。旧約聖書ではバベルと称される。バベルの塔やバビロン捕囚などの逸話があることから、富や栄華や悪徳で栄える都市を象徴する言葉としても使われる。本ブログのタイトル「バビロン再訪」はスコット・フィッシッジェラルドの短編Babylon Revisited の日本語題名から借用している。

*初出:東京カンテイサイト(2018年)

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