中京テレビをテレ朝系で開局させたのは…読売新聞を名古屋から閉め出す『秘策』だった!
中京テレビはテレ朝系だった
在京キー局を見ると、読売新聞が日本テレビ、産経新聞がフジテレビ、朝日新聞がテレビ朝日、日本経済新聞がテレビ東京と、新聞とテレビ局は系列化されているように見えますが、こうなるまでには紆余曲折がありました。
一方で名古屋のテレビ局を見ると、CBCテレビ・東海テレビ・テレビ愛知が中日新聞で、メ~テレが朝日新聞と読売新聞、中京テレビは新聞資本無しとなっていて新聞とテレビ局は系列化されていません。
特に、名古屋における読売新聞出資テレビ局がテレビ朝日系列のメ~テレであることには違和感を覚えます。その背景には、名古屋が新聞と財界の総力戦で読売新聞を閉め出したのではないか?と思える経緯があったのです。
ちなみに、2022年(令和4年)に愛知県に誕生した「ジブリパーク」を運営しているのは中日新聞です。読売新聞が長年にわたって関係を築いていたジブリであっても、名古屋近郊では完全なる中日色に染まってしまう魔境……。
名古屋はいかにして読売新聞を閉め出すことに成功したのでしょうか。
戦前戦後の新聞とテレビ
民間のラジオやテレビの放送が始まる前、昭和初期の名古屋では4つの新聞が発行されていました。地元の「名古屋新聞」と「新愛知」、大阪の「朝日新聞」と「毎日新聞」です。しかし戦争がはじまると政府によって新聞が統合されます。「名古屋新聞」と「新愛知」が合併させられ「中部日本新聞」となり、朝日と毎日は名古屋での発行が停止されます。名古屋で読める新聞は中日新聞だけとなったのです。
戦後、朝日新聞や毎日新聞は再び全国紙として広く販売網を広げるのですが、出遅れていたのが読売新聞でした。そこで読売新聞はテレビ局を活用する電波政策に力を入れ、東京に日本初の民放テレビ局である日本テレビを開局。社名を「日本テレビ放送網」としました。「放送網」とあるとおり、日本テレビで全国をカバーしようとしたのです。
しかし、わが国の民間放送は地域放送が原則となりました。そのため、日本テレビは大阪や名古屋にも免許申請をしたものの却下され、進出することはできませんでした。
中日新聞のテレビ局が続々開局
名古屋では日本初の民間放送ラジオ局としてCBC中部日本放送が誕生。中部日本新聞が中心となって作った中部日本放送。まさに直系です。当時の様々な資料には「中日放送」と書かれており、現在でも証券市場ではCBCは「中日放送」と表記されています。そのCBCがテレビもスタートし、名古屋初の民放テレビは中日新聞系のCBCテレビとなりました。
そして名古屋に2つ目のテレビ局が開局します。三重県にあった近畿東海放送と岐阜県にあったラジオ東海という2つのラジオ局と名鉄が中心となり「東海テレビ放送」が開局。なんとこちらも中日新聞系となります。
2つとも中日になってしまうのはいかがなものか?という名鉄の意向があったのですが、名鉄に対して朝日が強気の態度をとり関係が決裂。逆に東海テレビは中日一本となり、当時、TBSには朝日と毎日も出資していたことから、その余波で逆にCBCが朝日と毎日のニュースを流すことになります。
当初はCBCも東海テレビも日本テレビの番組を流していました。しかし、CBCはラジオでも関係が深く、当時は特定の新聞資本ではなかったTBSと系列を結びました。
一方の東海テレビは、名鉄が百貨店を誕生させた際に阪急から多大な支援を受けていたこともあり、阪急の作った関西テレビと繋がり、さらに中日新聞は、社長自らが出向する形で産経新聞を経営危機から救済するほどに産経との関係が深く、産経が作ったフジテレビと繋がり、フジテレビ系列を誕生させ、両局に日本テレビが入り込む余地はありませんでした。
読売と朝日の合弁でメ~テレが誕生
名古屋の3つ目のテレビ局として名古屋放送(現:メ~テレ)が開局します。メ~テレには読売新聞と朝日新聞が出資し、さらには毎日新聞とも提携して日本テレビとNETテレビ(現:テレビ朝日)の複合ネット(クロスネット)局としてスタートします。
読売・朝日・毎日と提携することでふんだんにニュースを放送することをアピールポイントとし、さらには日テレとテレ朝という2つのキー局から番組供給を受けることで、人気番組ばかりが流れ、後楽園の巨人戦も放送され人気のテレビ局となりました。
戦後、朝日と毎日は名古屋で新聞を復活して発行していた一方で、読売新聞は名古屋への進出はできないままでした。そこで読売新聞はこのメ~テレを名古屋進出への足掛かりにしようと考えていました。
メ~テレが社屋を建設した場所は読売新聞に土地の使用権があり、そこに「読売会館」を建設してメ~テレと読売新聞を一体化し、名古屋における読売の基地を築き上げようと計画していたのです。
中日と朝日と毎日が協力関係に
中日新聞系のCBCテレビと東海テレビに対して、読売・朝日・毎日連合のメ~テレという対決構図が1962年(昭和37年)4月1日に生まれるわけですが、このあと、中日新聞の事情が変わる出来事が起きます。
この時期、読売新聞と日本テレビと読売巨人軍のメディアミックスが大成功。巨人は大人気となり、日本テレビは高視聴率、あわせて読売新聞も部数を伸ばしていきます。一方で朝日新聞は電波政策で出遅れ、テレビネットワークをうまく構築できないという状況に陥っていました。
新聞では出遅れたもののテレビでは新鋭の読売新聞と、新聞では先んじたもののテレビでは出遅れた朝日新聞の、壮絶な対決構図が生まれます。
一方、中日新聞は東京新聞を買収する形で東京へと進出します。1967年(昭和42年)10月のことです。このとき、中日新聞は朝日と毎日に協力を仰ぎます。関東では朝日と毎日の新聞販売店に東京新聞を合わせて売ってもらうことにしたのです。
朝日と毎日の販売店は、「他より安い東京新聞がありますよ」と、読売新聞を購読していた世帯を狙い撃ち。乗り換えさせたのです。ですから朝日新聞と毎日新聞は部数を減らすことなく、読売新聞を読んでいた家に対して安い価格で東京新聞を売り込み、読売新聞だけが部数を減らす結果となったのです。
そして、電波政策で後れをとっていた朝日新聞に、どうしてもメ~テレを単独所有しなければならない事情が生まれます。
朝日と毎日の「腸捻転」解消
大阪では昭和40年代まで、毎日新聞系のTBS系列が「朝日放送(ABC)」で、朝日新聞系のNET系列が「毎日放送(MBS)」という毎日と朝日のねじれ、いわゆる腸捻転状態がありました。この腸捻転状態を解消したいと、朝日と毎日は画策するのですが……。
NETテレビ(現:テレビ朝日)は教育テレビ局であり後発ということで視聴率も低くスポンサーも少なく、朝日放送は「絶対にTBS系列のままでいたい」という思いを持っていました。
そこで朝日放送は「名古屋のメ~テレが単独テレ朝系になったらテレ朝系になっても良い」という条件を出します。しかしメ~テレのことは読売新聞も狙っており、なおかつメ~テレ自身も日本テレビ系列の番組を手放したくないと思われていましたから、無理難題のように見えました。
ここから、秘策が生まれるのです。
名古屋になぜかテレ朝系の新局が誕生する
名古屋に4つ目のテレビ局ができることになります。中京テレビ放送です。中京テレビはそれまでのCBC、東海、メ~テレとは違って、新しい「UHF」という電波を使うテレビ局として誕生しました。新しいと言えば聞こえが良いですが、今で言うBSみたいなもので、見るためにはアンテナも立てなければいけないし、チューナー(コンバーター)なども必要という前途多難なテレビ局でした。
中京テレビは名古屋の地元財界が中心となって開局します。新聞資本としては日本経済新聞になります。
中日新聞は日本経済新聞との関係も良好で、実現はしませんでしたが、東京12チャンネル(現:テレビ東京)の再建について、政府は当初、日経と中日の合弁での救済を依頼していました。しかし累積債務解消の方法について日経と中日の折り合いがつかず、中日はテレ東から手を引き、テレ東は日経新聞単独による再建となりました。しかし、その関係は深いままでした。
中京テレビは1969年(昭和44年)4月1日、単独テレビ朝日系列局として開局するのです。なんと放送時間のうち86%をテレ朝系の番組が占め、6%がテレ東系、3%だけメ~テレが放送していなかった日本テレビの番組も入っていました。
しかしメ~テレはテレ朝系から脱退せず、日本テレビとテレビ朝日の複合ネットを継続。両系列の人気番組を放送し、そのメ~テレが「いらない」といった番組を中京テレビが放送するという状態になったのです。
テレ朝系として開局したものの、テレ朝の人気番組は引き続きメ~テレが流していたため中京テレビは番組が足りず、開局から2年後の1971年(昭和46年)4月1日、日本テレビおよびテレビ東京との複合ネット化に踏み切り、中京テレビは3系列の番組を流すようになります。
メ~テレの謀反
「ずっと日本テレビ系列でいたい」と思われていたメ~テレが突如、協定を違反します。1972年(昭和47年)10月、日本テレビの番組を流すという協定を結んでいた時間について、勝手にテレ朝系の番組に変更。裁判沙汰となるほどに関係が悪化します。
日本テレビはメ~テレに不信感を募らせ、結果的にこの年の12月27日、メ~テレとテレビ朝日、中京テレビと日本テレビの4社で協議が行われ、1973年(昭和48年)4月1日より系列を一本化。中京テレビが日本テレビ系列となり、メ~テレがテレビ朝日系列となることが決定したのです。
これにより、朝日新聞と読売新聞が出資していたメ~テレがテレ朝系となり、日経新聞が出資していた中京テレビが日テレ系(ただしテレ東ともクロス)となったのです。
中日と朝日の視点から見ると、読売新聞資本のテレビ局と日テレ系を断絶させることに「成功」したといえます。
なりふり構わず読売は名古屋に進出
このあと、1975年(昭和50年)に中部読売新聞が名古屋で創刊。読売新聞はフランチャイズ契約による別会社という形で、名古屋に進出。なんと月額500円、一部20円の激安新聞として販売を始め、新聞販売店ではなく別の業者に宅配を依頼します。
なぜなら、中日はもちろん朝日や毎日も、読売が名古屋に進出してほしくなかったため、販売協力を一切しなかったのです。
しかし500円は安すぎると、公正取引委員会は緊急停止命令を東京高等裁判所に申し立て「中部読売新聞不当廉売事件」となってしまうのです。
1988年、読売新聞名誉会長の務台光雄氏は、「中部進出は私の生涯で唯一の失敗だった」とし、中部読売新聞社を読売新聞本体に吸収したのです。
結託して読売を閉め出したのでは?
この一連の流れで不可解なのは、朝日と読売でメ~テレを取り合っていたはずなのに、なぜ中京テレビが単独テレ朝系で開局したのかという点です。
まとめるとこういうことだったのでしょう。
朝日新聞はメ~テレが欲しい、一方で中日新聞は、読売新聞の名古屋進出を阻止するためにも、読売新聞資本のテレビ局を名古屋に作らせたくない、そのためにはどうしたら良いか?という動きだったのではないでしょうか。
新しく中京テレビができるという段階で、「メ~テレが将来的にテレ朝系になる」という素振りを見せると、中京テレビに読売新聞が参画することになるので、朝日新聞と口裏を合わせて、メ~テレには「未来永劫、人気の日本テレビ系列でいきます」というフリをさせておく。
そこに、名古屋の財界がテレビ朝日系列の中京テレビを作るという計画を立て、財界主導なので日本経済新聞の出資を受けるという形にした。当時、現場の中京テレビの社員は「研修もテレ朝で受けたし、将来的にもテレ朝の系列局で行くのだろう」という意識があったという記録があります。
しかし、メ~テレがテレ朝系も維持したことで、中京テレビは番組が足りない状態になり、日本テレビとテレビ東京に同時に泣きついて番組供給を受けるように。日本経済新聞資本なのでテレビ東京と関係を結ぶことも不自然ではありませんし、日本テレビもその事情は理解したことでしょう。
日本経済新聞資本の中京テレビが、テレ朝メインながら日テレ、テレ東との複合ネット局になったところで、メ~テレは突然「やっぱりわが社はテレビ朝日系列になりたい」と言いはじめ、読売新聞を裏切るわけです。
それにより、朝日新聞は自らのテレビ局として朝日新聞資本のメ~テレを手中に収めることに成功した一方で……。
日本経済新聞資本でテレ東系列でもある中京テレビが、日本テレビ系列にあてがわれたわけです。これにより読売新聞は名古屋の自社資本のテレビ局を朝日に奪われ、名古屋の日本テレビ系列局は、テレビ東京との複合ネットのUHF局という存在になってしまうのです。
中日と日経と朝日と名古屋財界が手を結んで、読売新聞を名古屋から閉め出すことに「成功」したのです。
中京テレビ自身にとっては、日本テレビ系列という棚ぼたを得たことで順風満帆に。朝日新聞にとっても、中日新聞にとっても、中京テレビにとっても三方よしの結果に。読売新聞だけが「嵌め」られたといえるのです。
のちに1983年(昭和58年)9月1日、日本経済新聞と中日新聞が合弁で新しくテレビ東京系列として「テレビ愛知」を開局。中京テレビから日経新聞が抜け、テレビ愛知へと移行。テレビ愛知のアンテナは中京テレビに設置され円満な「弟分」としての誕生となりました。
かつてテレビ東京の再建から降りた中日新聞でしたが、名古屋にテレビ東京系列が誕生するまで、中京テレビを通して中日新聞はテレビ東京救済に関わったという側面もあったのです。
読売新聞が名古屋で出資しているテレビ局は、テレビ朝日系列のメ~テレのままという腸捻転状態は、現在も続いています。
参考文献
「私の昭和史」(鈴木充・著/東京新聞出版局)
「新聞の鬼たち」(大下英治・著/光文社文庫)
「そして、フジネットワークは生まれた」(境政郎・著/扶桑社)
「TV博物誌」(荒俣宏・著/小学館)
「テレビ番外地」(石光勝・著/新潮新書)
「東京12チャンネルの挑戦」(金子明雄・著/三一書房)
「法律公論16・新設民放テレビをめぐる争奪戦・東海地方は全国一の激戦地」(法律公論社)
「中京テレビ50年史 あなたの真ん中へ。」(中京テレビ放送)
「名古屋テレビ放送50年史」(名古屋テレビ放送)
「三重テレビ放送二十年史」(三重テレビ放送)
テレビ局名について
基本的に現在の局名で記載しました。変更時期は以下のとおりです。
NETテレビ→全国朝日放送(1977)→テレビ朝日(2003)
東京12チャンネル→テレビ東京(1981)
名古屋放送→名古屋テレビ(1987)→メ~テレ(2003)