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フリーランスになってもずっと会ってくれる前職の友達

市役所を辞めて丸3年が経つのですが、今でも”友達”として会ってくれる後輩・同僚・先輩がいます。

先日も、地元に帰省したついでにランチしてきました。

その子は私より年下なのですが、辞める時に同じ課で、隣の席だった子なんです。

純粋で素直で、いつもピカピカの笑顔で…

私が当時、何とか仕事を続けられていたのも彼女のおかげ。

それでも限界が来てしまい、休職してそのまま流れるように辞めてしまった時、仕事上で一番迷惑をかけてしまった人。

それでも、「あとは任せてください!」と背中を押してくれた。

ちゃんとした引き継ぎもできず、絶対に大変だったと思うけど、その後も定期的に私と会ってくれたり、電話してくれたりした。


久しぶりに会うと、自分の近況や役所内のいろんな話をしてくれる。

私は記憶の中にある人物を思い出して、「そうなんだ!」「へぇ〜あの人が!笑」みたいな感じで聞き役になることが多い。

学校の卒業生が、在校生の楽しい話や噂話を聞いている・・・

みたいな気分。

(退職した老人になった気分の方が近いかも。笑)


ちょっと懐かしくもなるし、ちょっとだけ、戻りたくもなる。

辞めた時点で、私の時は止まっているから。

でも、実際には、私がいないまま時間が流れているんだな…

っていう当たり前のことに気付かされる。


そして、私の今の日常に意識を戻すと、

何だかこっちの方が異世界で、一人ぼっちすぎて、ちょっと笑える。

社会から切り離されたような、隠居しているような。


一人ぼっちになって、私は「話す欲求」が結構強いタイプだと気がついた。

ちょっとでも話さないと、なんか胸が詰まる。

呼吸みたいに、文字じゃなくて、声に出すこと。

だから、寝る前に夫に「ねぇ、ちょっと何か話したい〜」と言って、適当に話し相手になってもらっている。


全てはトレードオフだとは分かっている。

私はフリーになり、嫌な人間関係も、苦手な仕事から離れることはできた。

でも、その代わりに、疲れたら雑談をできる相手とか、気軽に飲み行ったりできる環境も失った。

そういう与えられた環境が、無意識にストレスの発散に役に立っていたことを、今更気づく。

じゃないと13年も働けなかったと思う。


誰かと廊下ですれ違って挨拶する。

そんな1日何十回もしていたことですら、どこか懐かしく恋しく思える。

ちょっとセンチメンタルになるのは秋だからなのかな?


今でも会ってくれる友達がいるのはすごく嬉しいし、会うと心地よい。

本当にありがたい、と思う。

途切れていた時間が動き出すような、自分が誰かに必要とされているような、そんな気持ちにもなれる。

地元から離れているけれど、「確かに私はそこにいたんだな」って思い出させてくれる。


そんな私の気持ちとシンクロするように、先日見た「SHOGUN」というドラマで、こんなセリフがありました。

菊:花、ひさげがあった所に何が見える?

花:何も見えませぬ、姉さま。

菊:お前が見ている所に、今、ひさげはない。
  「無い」からこそ、「確かにあった」と思うのでしょう・・・。

これは、遊女の菊が見習いの娘に「無」とその意味を説いたシーンでした。


「今は無いからこそ、確かにあったと思う」


このセリフを借りるなら、私は昔の職場の友達と会うことで、「そこにもう私がいない」という現実を知る。

そして、「ちゃんとそこにいたんだ」とも感じられる。

私の人生の約13年間が、確かにそこにあり、そこでの色々な経験が確かに私の中に息づいている。

1人でいるとふと忘れてしまいそうになる。

でも、定期的に会ってくれる友達のおかげで、”私”という存在がはっきりする。

ただ、ちょっと寂しい・・・。

そんな不思議な感覚をもらえるのかもしれない。


これからもそれぞれライフステージが変わっていくだろうけど、頂いたご縁は大切にして行けたらいいな。


おしまい。



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