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「二人称の死」
山の日の連休に四万温泉に浸かりながら思ったことをエッセイ風に言語化した。テーマは、死の人称変化、運命論と認識論、家族との折り合いなど。
今日は父の命日だ。私の父は23年前、お盆の只中に亡くなった。
二人称の死
解剖学者の養老孟司は、死の人称という概念を用いて、死は社会の中に存在すると説く。
「一人称の死」と呼ばれる自分自身の死は、我々は認識できず、存在しない死である。父の主観に立てば、父自身の死は存在しない。ただ死んだという事実だけがそこに在る。
「二人称の死」とは、親しい人の死である。私にとって、父の死はこれに当たる。
「三人称の死」とは他人の死であり、ニュースで報道される事故の犠牲者などが一例だ。
一人称、二人称、三人称の死は、物理的・生理学的には同じ現象を指している。それにも関わらず、我々はこれらを無意識的に区別しているのは、死は物理的に定義されるのではなく、社会の中に存在しているからだ。たとえ死んでも、二人称の死人との生前の関係性は継続される。これは道徳的・宗教的な考えではなく、我々の脳の働きによる認識論的な意味合いで、二人称の死人は生きていると言える。
養老孟司の言葉を借りれば「死体もまた『社会人』」なのだ。
余談だが、養老孟司もまた幼少期に父と死別している。私の母はこのエピソードを引用して、父親がいなくても養老孟司のような立派な人間になれると言っていた。だが、今のところ私にその兆しは無く普通の大人に仕上がった。
養老孟司は父の死に際し、最期にさよならを言えなかったことが心残りだと語っている。しかし、私はそのように思ったことがなく、一切の感情の変化を伴わずに父の死を受け入れてしまった。養老孟司のような立派な学者になるには倫理観と道徳が足りていないようだ。
折り合い
「二人称の死」の話に戻る。私の父は、確実に私の認識論の中で今も生きている。だから私は父の死を悲しく感じたことはなく、父の不在がぼくの成長に負の影響を与えることはなかった。私が大学生だった数年前までは、本当に自然な形で、私の家族の構成員に父が含まれていた。
しかし、ここ最近、父が私に干渉するようになった。日常中でのふとした出来事に対して、こういうとき父はどう判断するだろう、これをやったら父は喜んでくれるだろうか、この行いは父の息子として正しいだろうか、といった具合に無意識に父を相対化して考えることが増えたのだ。
原因はおそらく、父と同じように私が社会人になり、4歳児が見上げた偉大な父の姿から、社会で揉まれる大人の一人として捉えるようになったことと、私自身が父が亡くなった41歳が徐々に近づいていることが関係している。
聞きかじった発達心理学の知識によると、殊に男子の成長過程では、父親と自己とを相対化し、父を超越しようとするプロセスを経て、父とは違う自己を確立するという。
私なりの理解では、映画E.T. の終盤で、エリオット少年が、E.T. と共に宇宙に帰ることを “stay” という言葉で拒否し、家族を置いて家を出て行ったエリオットの父とは違う道を歩むことを宣言するシーンが、この発達心理学の見解を象徴していると思う。
しかし、私の成長過程には父と自己との弁証法的プロセスはなかった。
生まれる前に父を亡くしたフォークシンガーの三浦久(ボブ・ディランの翻訳者、大学教員としても知られる)は著書の中で以下のように述べている。
「ぼくには父を否定したり、嫌悪したりする理由はなかった。対立しようにも、父は初めからいなかった」
「その後のぼくが生きてきた足跡を振り返ってみると、ぼくの人生は、見えない父を探そうとするプロセス、父の不在といかに折り合いをつけるかというプロセスだった」
「逆説的に響くかもしれないが、ぼくの父はその不在によって、自らの存在を誇示したのだ」
三浦久の文章は、最近の私が無意識下で感じていた感情をうまく言語化してくれている。故人となった父は絶対性を帯びていて、対立の対象になり得ないのだ。だからこそ、父との対立以外の何らかの方法で「折り合い」をつける必要があるのだろう。
(つづく)
・・・
サムネイルは山の日の連休に訪れた四万温泉。四万温泉最奥の温泉宿でこの文章のドラフトを書き、通勤電車の中で書き上げた。
《執筆メモ》
どのように折り合いをつけべきか、この文章で論証したかったが、上手い結論を導けなかったので、次回に持ち越し。
今後書きたいこと
方針: 父が愛した作家、志賀直哉を思考の補助線に据えたい
志賀直哉ゆかりの地、城崎温泉を旅行して思ったこと
志賀直哉の作品をもとに
『城の崎にて』で表現された死生観
志賀直哉の父との関係性『和解』
志賀直哉の母との死別『母の死と新しい母』
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