人間が持つ「集団本能」の善と悪
はじめに
人間は、元々、いつも他人に依頼しているである。数百万年前に、人類は知恵多い頭脳があったが、力が弱いので力の強い動物の前で微々たるものであった。そのとき、人類はお互いに協力し、敵である動物を倒し、一人ずつ肉を配ったアイデアが生じた。それから進化した後、人類が集団に依頼する需要がより増えている。一方、現在、先進国であれ途上国であれ、家族であれ企業であれ、全ての人々はお互いに協力し、より幸福な生活を創ろうと思われている。ということは、孤立を嫌い、集団で生活しようとする「集団本能」は、人間が本来持っている欲求ということである。
集団本能について
確かに、集団本能という欲求は、他の動物(イルカ除外)より、問題に対する方策を協力して解決しできるのである。しかし、その欲求の駆使は、本当に正しいであろうか。柿本(1997)は、個人で作業をするときの努力量に比較し、集団で作業をするときの努力量が低下する現象である「社会的手抜き」という心理効果、を示している。その心理効果の発生は、「責任の分散」(diffusion of responsibility)の影響による。数百万年前の人間は協力して敵である動物を殺した後、一人ずつ肉を配ったとき、ある人間はリーダーという存在がいたはず。なぜかというと、一緒に問題を解決するとき、全ての成員たちの意見をまとめたり、最も良い対策をしたりするリーダーがいなければ、成員の階級が同様なので誰の意見が最もいいのかと喧嘩するからである。リーダーがいた場面で、誰が最も力を入れていたのかを考え、その成員(リーダー含む)を選び、その成員が最も大きい肉を配った。すなわち、リーダーとして、力を入れる程度が多ければ多いほど獲物を得てきるのである。ところが、貢献の関係なしで皆に同じ肉を配った場合、貢献の低い成員は、皆の得る肉が同様なので、不公平感を持っており、その後同じ場合で、力を入れる程度を多少無視し、その貢献の「責任」が減少していたと推測される。現在社会の同じ場合で、いかなる努力しても、皆の給料が同様なので、前述の通り責任が徐々に減少している。
また、責任の分散の影響で、「サッカー効果」(sucker effect)も生じやすくなる。グループの成員である個人は自分で一生懸命に努力していたの一方で、他の成員は比較的努力量が少ないし、甚だしく応分の負担が足りなかった。その結果、個人であれ無責任感を持つ成員であれ、皆の給料が同様であった。そのとき、個人として、なぜその努力量の差があったが同じ奨励を受けた、いわゆる不公平感を持っており、次の同じ場合で、個人の努力量が次第に減っている、と推測される。
人間の持つ集団本能は、他のデメリットもある。前述の「最も良い方策」とは、実を見ると、その判断は本当に正解だか。柿本(1997)は正しい判断を達成するための影響である「情報的影響」(informative influence)を示している。例として、台湾での韓国瑜(ハングォユィ)(2020年総統候補者)は決起集会と演説で立ち方が上達し、話す力が強く響かれ、自分は庶民だと言ったので、支持者が多くなる、と挙げられる。確かに、支持者らだけでなく、多くの民衆は韓の魅力が増えており、声が強い候補者は前代未聞だ。しかし、韓は毎回中国に関する質問をほぼ無視し、新聞社に怒り、様々に大げさな言論があった。だが、韓の支持者らは全ての悪い事実を無視し、良いばかり事実を吸収している。
おわりに
人間の持つ集団本能は、元々いい欲求であろう。なぜかというと、数百万年前の先人たちは、力の強い動物の前で微々たるもので、方策を討論し、お互いに協力して敵である動物を倒していた。現在、全ての人間はお互いに協力し、より幸福な生活を創ろう、という欲求が当然なことである。しかし、だからこそ、その欲求で「人間の悪」も生じやすいのである。責任の分散にしろ、サッカー効果にしろ、情報的影響にしろ、様々な悪効果の影響で人間の生活に及ぼしていることである。だが、考えてみると、その「人間の悪」を拒否すると思われているが、むしろそれを納得するほうがいいと思っている。所詮、その悪は人間の定義で、責任を転嫁することだ。そのため、人間自分の責任を認識し、その悪の背景をきちんと探し、解決策を実施すると、人間のより幸せな生活を創ろうと考える。
参考文献
白樫三四郎. (1997). 社会心理学への招待.
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