待合室とピンクの薬
先週、早朝にスマートフォンを開くと兄からの着信履歴があった。嫌な予感がした。滅多に兄から電話をかけてくることはない。以前、電話がかかってきたときは親父が死んだときと、母親が行方不明になったときだ。
着信履歴の他に留守電とメールも入っていたので、とりあえずメールを開いてみる。
ただ一行「お母さんが転んで顔を切った」とあった。直ぐに兄に電話をすると、どうやら兄が買い物へ行っている隙に母が家から出ていってしまい、その時に転んで瞼の上を切ったとのこと。かなり切れていて、血が出ていたので救急車で病院へ向かったらしい。
電話を切ってから急いで病院を調べて車で向かうと待合室の兄に声をかけた。幸い母の怪我は大した事ないが、一ヶ月ほど前に転んだときに頭に硬膜下血腫ができていたらしい。母親はそのまま手術となった。
手術の前に母親の寝かされているベットに顔を出し話しかけたが、いつも通りのよくわかっていない表情。手術が終わるのを待っている間に受付の事務の方から入院の説明があった。その方は丁寧に説明をしてくれたのだが、僕は心ここにあらず。院内で老いた他の患者さんの様子が目に入ってくる。ベットに乗せられ痩せた母親、父親の最期の様子などが心の中でぐるぐると渦巻く。
面会は一週間で一度、何度かのワクチンを打った証明が必要だったりと、今の時期は大変らしい。手術後も母親に会えるでもなく、また来週に手術することになるとのことで、為す術もなく入院に必要な物を聞いて帰りにお店に寄って買うことにした。
兄との帰りの車の中は無言だった。重苦しい空気は窓を開けても決して出てはいかなかった。
「母親が亡くなったときの準備をしとかないと駄目だよ」と兄にリアルな現実を告げたが、店に着くと兄は吐いてしまった。
ふいに子供の頃、母親に連れられて病院へ行ったことを想い出した。母親の自転車の後ろに乗せられ、踏切を渡って駅の向こうまで。いつもの買い物では通らないコースだ。古くて小さい病院の前に自転車を停め、扉を開けるとカランカランと音を立てる。狭い待合室には緑色の長椅子が置いてあった。先生はおじいちゃんだった。喉に冷たいスプーンみたいな物を入れられて、お腹にはペタンペタンと冷たい物をあてられた。終わるとまた待合室の長椅子に座り、名前を呼ばれた母が小さな窓から薬をもらう。家に帰っても数日間はピンク色の甘くて苦い薬を飲むことになる。
いつしか母親を病院へ連れて行く側になった。兄が買い物へ行ってしまい、不安で心細くなったのだろう。一人で外に出て行ってしまい怪我をしてしまった。そんな母が一週間以上も独りで入院することになる。
今回、転んで病院へ行ったから以前に出来た血腫が見つかった。それを考えれば救われる。