ウロマガ感想文

品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)さんがnoteで連載されている「居酒屋の黒ウーロン茶マガジン」、通称ウロマガの記事についての感想をまとめようと思う。

他者に胸を張って開示できるほどの思考を持ち合わせていないため、自分がこうしてnoteを書く日が来るとは思ってもみなかった。しかしそれでも、私は日々あなたのnoteを読んでこんなに楽しい気持ちになっているよ~、ということを少しでもアピールしたかったので、書く。感想文の皮を被ったファンレターみたいなものです。

言い訳タイム終了。

私はインターネット上では特に、自分の言動に対する言い訳を事前に述べまくりめちゃくちゃに保険をかける習性がある。そしてそのことに対する自覚と恥もある。第三者に「こいつ保険かけすぎクソワロタ」と思われているのではないか、私の浅ましい思考は透けて見えているのではないかと恐れる。しかしそのようにこの習性を恥じているにも関わらず、保険をかけずに行動することへの恥からも逃れられない。どう足掻いても恥。四方八方ぜんぶ恥。誰もお前のことなど見ていない、などという言葉は気休めにすらならない。私自身は常に私を見ている。誰かにこの自意識をお裾分けしてやりたい。みんなであつまりま専科で助けでも求めてみようかな。

言い訳の言い訳をしてしまった。本当にヤバいな。


これまでのウロマガで印象に残っている文章、と言われて真っ先に思い浮かんだのは、2018年11月6日の日記「さらば因果」でのものだった。

・自死という行為はそれだけで非常に強い説得力を持っている。生き続けることの価値を否定する言動の中では、もっとも積極的で筋の通った選択だろう。「現に死んで見せる」というのは。
・一方で、生き続けることの価値を肯定する言動の中では「現に生き続ける」という行為は最も消極的だろう。人は誰でも気づいたら生きてしまっているので、意図して生から死へとスイッチングする自死者とは行為のレベルが違うのだ。死→生を表す行為は定義的に存在しない(蘇生 などは的外れ)。
・この世界は生きている人たちによって在るがために、生の価値を示す言説が常に上滑りするようにできている。一方で、生の価値の否定としての自死は常に説得力をもつ。この非対称性を全く無視した自殺抑止もまた上滑りするだろう。

『自死という行為はそれだけで非常に強い説得力を持っている。』

その通りだ、と思った。自死は生への否定を行うと共に、「自分は生きることを放棄する」という強い意思をまざまざと示すことができる行為だ。自死の実行によって人は、自分はこんな世界を生きていたくない(なかった)のだと、まさに全身全霊、魂からの叫び声を上げることができる。

少し話はずれるが、私の思考はこうした「現に死んで見せる人」のそれに限りなく近い。物心ついた頃からずっと、他者に理不尽に不愉快な思いをさせられる度にお前のせいだバーカバーカと捨て台詞を吐いて窓の外へ飛び出す空想をするし、事実それに近いことをふわっと実践してみせたことすらある(あくまでふわっと、であって深刻な話ではない、一応)。おそらく私は、私を傷付けた他者に、自らの言動の持つ意味やその重大さを突き付けたいのだと思う。「現に死んで見せる」という、最も陰湿で陰険で、説得力のある方法で。自分が感じた不平不満を言葉で訴える能力も勇気もない癖に、自死を選ぶ自棄だけは備わっているようだ。とんだ実力行使だな。我ながら超根暗で超やなやつだな~~、と思う。抱えた鬱屈が他害の方向に行かないだけマシと思いたいものだが、どうなんだろう。

兎にも角にも、そのくらい私は私自身の生とそれに影響を受ける他者の存在を軽んじている。一部の人からは物凄く怒られてしまいそうな思考だが、他者の生命を軽んじるつもりは一切ないのでご容赦願いたい。他者はぜんぜんバリバリみーんなずーっと生きていてほしい。できれば自死とか選ばないでほしい。かなしいので。

しかし私はそれだけ「自分の自死」が他者に影響を及ぼせると無意識に思っている訳で、その点では何よりも軽んじているはずの自己の価値を高く見ているのかも、とかなんとか思ったけど考えるの面倒くさくなってきたな。私を傷付けた野郎共は私が恨み節を唱えながら死のうが何しようがまったく意に介さずへらへら生きていくのかもしれないが、私がその姿を見ることはない(霊魂として現世に留まらせられる場合を除く)のだし、まーいーやな。死んだモン勝ちだ。勝ちか?

「視野を広く持て、生きていればなんとかなる」と私も言えるものなら言いたいものだが、より誠実に実感を語ろうと思えば「なんとかなった、だから生きていられた。ついでに視野も広く持てた」になるのだ。

そして続けてこの一節にも深い納得を得た。そりゃあそうだな、なんとかなった人は、「なんとかなった」からなんとかなっているんだよな。

自分が「なんとかなった」人生を歩んできたことに無自覚な人間は、「なんとか」ならない現実に直面し自死を検討する人間の嘆きを簡単には理解できないのかもしれない。「なんとか」ならないことなどないんだ、と否定してしまうのかもしれない。「なんとかなってきた」という途方もない奇跡に無自覚な、無頓着な人間ではいたくないと思った。それを忘れたとき、私は自分自身の価値をなくしてしまう気がする。

もちろん生の継続の可否などについて思い悩むことなく、無自覚なままに「なんとかなってきた」人生はきっと素晴らしいものなのだろうし、この世のすべての人間の人生がそうであればどれだけ良いだろうかと思うけど。


余談だが私は、人生って納得がなにより肝要だな~と思いながら生きている。そして品田さんの論は私にかなりの確率で納得をもたらしてくれる。なので好きです(ファンレター)。好きな人の語る論だからすんなり受け入れられている、という可能性もあるが。日記ではないが2018年10月3日のコラム「「言うためだけの言葉」を使うと損する」とかもあ~~とか言いながら読んだ。


基本的に死の話を好む傾向があるので、2018年10月4日の日記「狂バトルの終焉~そして死~」も印象に残っている。

・私は死ぬのが怖い。みんなはどう思う? 人、みんな死ぬのに、死ぬの怖がってる人ってそんなにいないの不思議っちゃあ不思議ですよね。死の怖さはある程度分解できると思っていて、
▼痛み、苦しみへの恐怖(安らかに死にたい)
▼別離への恐怖(やりのこしたことがある、あの人に会えなくなる)
▼虚無感への恐怖(死んだら終わりならなんで今必死こいて生きてるの)
▼未知なる体験への恐怖(死んだらどうなるの)
・この4つくらいに大きくわけられるだろうか。で、宗教の救いはだいたい4つをカバーしてくれる。正しく生きた人は、死んだら天国が待っていて、先だったあの人もいて、永遠の幸福が約束されていて……という。

私は前述にもあるように自棄モリモリ星人なので、自分が死ぬこと自体はある程度大丈夫(もちろん積極的に死にたい訳ではない)(あと苦しいのは普通に嫌なので、この選択肢の中ではひとつめが当てはまる)だが、事故死にしろ病死にしろ老衰死にしろ、死がいつ訪れるかわからないというのはめちゃくちゃ嫌だな~と思う。どうせ死ぬなら自分の丁度良いタイミングで死にたい。最期の日時も、場所も、食事も、服装も、言葉も、すべて自分で選びたい。だから、それがある程度叶えられそうな自死ってけっこう理にかなった選択なのではないだろうか。誰にもしないでほしいし、しないけど。

私が住んでいるアパートには頻繁に宗教勧誘のチラシが投函される。以前ふと思い立って熟読してみた結果、これを鵜呑みにして考えるのならば、ぜってえ今すぐ死んだ方が得じゃん、と思った。死後、救われすぎ。天国、良いところすぎ。現世にしがみ付くより天国に旅立った方がぜったい楽しい。しかし積極的に死を望む(そして実行する)ことは「正しい生」に背くことと同義で、それを望んだ(実行した)時点で救済されることもなくなってしまうのだろうな。うまいことできてるな。正しい生って、一体なんだろう。


・「宇宙の大きさに比べれば自分の悩みなんてちっぽけなものさ」「ではあなたが宇宙と同じくらい大きかったら悩みがなくなるのか」という小話があるが、そんな感じで、もし自分が永遠の不老不死だったらと考えてみたい。それでも虚無感だけは残るのではないか。どうせ死ぬしという気持ちと、どうせ死ねないという気持ちは裏返しの形で似ている。今感じている「これ」が前触れもなく消えてなくなる恐怖は、「これ」が永遠に続く恐怖と本質的に同じと言えそうだ。痛いとか苦しいとか悲しいとかは副次的な問題にすぎないと私は思っている。
・ようは、全宇宙の中に自分というものがなぜか「いる」という理不尽に、死という「いなくなる」現象を通じてたまたま気付かされること、そのことが、本当は恐ろしいのではないか。

ア~~~~と思った。ぜんぜん言葉にできないけど。存在しなければ無だったんだよな。存在してしまった今となっては想像できないことだけど。気付いたときには存在させられているこのシステム、本当に理不尽だと思う。しかし存在していなければ理不尽だと感じることもなかった。あ〜〜本当に言葉が下手でうまく言えね〜〜〜〜。完。あとこの記事、最後の暴れん坊将軍でひっくり返って笑いました。


2018年11月18日の日記「ホテルで病気のきのこの山を製造した日」

2018年12月9日の日記「土壇場に机を抱えて歩く馬鹿」

最近の中でも特に狂おしいほど好きな日記。ドジエピソードの愉快さはもちろん、話のテンポが面白すぎる。何度でも読み返したくなるし何度でも笑ってしまう。大好き。

私がこうしたドジエピソードを好む理由は他にもあり、それは2018年12月20日の日記「ケモノが見てた」にあるように、「意外とみんなちゃんとしていない」ことを実感できるからだ。

・この日記にはよくドジ踏んだエピソードを書いてるが、そのせいか「私もこんなドジをよく踏むよ!」という声をかけてもらうことが増えた。意外とみんなちゃんとしてないのだと感じる。
・こんだけ失敗ばかりしている私であるが「普通の人ができるようなことが私はできない……」とマイノリティの気分に浸っているわけじゃなく、どっちかというと「人って平均的に自分と同じくらいポンコツだろ!? 正直になれよ!」と思っているので、アホちゃんズの列はこれからも長くしていきたい。開き直って薬飲んで飯食って寝て起きて暮らそうぜ。

私自身も、何も持たずに出掛けて目的地に到着してからそれに気付くことや、スーツケースを置き去りにしたまま階段を上りきっていることや、ペットボトルの水を口に含んだはずが全部膝に零していることなどが頻繁にある。頻繁にあるなよ。だけどそんなとき脳内で自分のことを「クソバカのドアホ~~!!!ゲボカスの肥溜め男~~~!!!!」などと軽快に罵っていると、なんだか楽しくなってくるのだ。自分のどうしようもなさは何一つ変わらないとしても、それを話のネタとして前向きに受け止められるようになる。これは人生において非常に有用なライフハックなのではないだろうか。大袈裟か。


気付けば長々と詮無いことを書いていた。なぜか半分以上が死の話になってしまいましたが、要するにウロマガチョー楽し~!!サイコ~!!!ということです。購読していてよかった。これからもご負担のない程度に続けていただければ幸いです。

メリークリスマス!!!!!!!!!!


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