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ふるさと(自分)は遠きにありて思ふもの

ふるさとを離れて、異郷に出てみて初めてその何たるかが分かる。
海外で暮らしてみて日本の良さや悪さが分かるという話もよく聞きます。
そのふるさとという生活圏で日々営々と暮らしている人たち自身にはかえって見えないものってありますね。

都会のサラリーマンにしても、田舎で農業に従事されている方も、もうその環境がいいとか悪いよりも、日々の仕事のせわしなさで、ゆっくりと客観的に自分の周囲を眺めるなんてなかなかできないことです。

同様にこの地上で齷齪あくせくと生きているものたち、つまりわたしたちは、日々の外界の情報を、しかも断片的に受け取るのが精いっぱいです。どうにも自分自身と向き合うことなど、いつかそのチャンスをと思いつつ、なかなか実現できないままなどという方も多いことでしょう。


自分自身と向き合うとき

自分自身と向き合うとき、
世間で一般に言われていることが実は全くのデタラメ、でなければ脚色されていただけだったなどということに気づくことがあります。
いや、そんな発見だらけでしょう。

たとえば「愛」。

すなわち、本当にその人を救いたいとなったときに、
それは、ときに苛烈な一撃でもあります。

何人かそういう人物を知っておりますが、
とりわけマクロビオティックの創始者である桜沢如一は、ある本で次の一文を入れたことがあります。

「死ね! 食養の知行をはばむものは・・・」

だったか、とにかく「死ね」でした。
もちろんその一文箇所は、改版で削除しましたが。

必ず治る、治す、という信念が彼をしてそう書かしめたわけです。
それは、絶対的な「愛」の雄叫びです。
治るものをみすみす自らの不覚で治らなくさせる行為を放っておけないという精神です。
彼には「自他」の区別がなかったからです。
(これを不快に思って彼を離れた者も多数いたことでしょうが、それはそうなるべくしてなっただけですね)
彼は同様の発言を「教育者」に対しても私的な冊子で書いたこともあります。

これを理解できる方は少ないかもしれません。
これは、私的な「好き嫌い」「快不快」という次元を超えたものです。
なぜなら、この観点は「正義」という一段高いところのものだからです。
もっとも、それが最高の判断力ではないにせよ、分かる方にはよくわかるし、うなずけるものです。

もちろん、彼には「敵」も多くいましたし、作りました。
お分かりかと思いますが、
敵や反対、無理解が多くなければ、この世では「真実」を語れません。
「真実」を語るとき、敵や反対、無理解が多くなります。
二元性の世界だからです。
対立がなければ、それらを統合し、一つのものにすることはできません。

そこには、イエスの説いた「無差別の愛」「無条件の愛」(もちろん、桜沢も説きました)、「アガぺ」の世界が出てきます。


信じないから疑いもない


人はついつい「みんな分かっているんだ」という角度でものを言います。いや、私のことですが、少し説明不足だった点を補足します。

このところ「信じない」姿勢について強調してきました。
これは、受け入れがたい方も多いでしょう。
「疑う」ということが、なんだかすべての物事を疑心暗鬼の目で見るような、といった風に。

違います。
それは子供にあるような素朴な疑問です。
「葉っぱはなんで緑色なの?」
といった風に。
「わかった」つもりでそれを消してはならないのです。
言い替えれば、疑いがないから疑問に思うのです。
それはよくいう「疑い(疑惑)」とは別物です。

信じることで、自己を離れます。
なにか別の外界に依存します。

しかし、つまるところ外界は外界です。
諸行無常の世界です。
冷酷なように見えますが、(絶対の世界でない限り)この世では何であれ永遠に続くことはないのです。
しかも白だと思ったものが必ず黒へと転じます。
だから、

自分自身を信じる、自分自身に教えを乞う、自分自身の信念で行動する

ということが大事なのです。
そうでなければ、その信じる対象がどれほど素晴らしいものであったにせよ、それは自身の考えでも、悟りでもないから、結果流される、下手をすればもろとも消えてゆきます。

「神」という言葉はあまり使いたくないですが、あなたもわたしも自分自身が神の世界を持っているのに、どこにそれを求めるのでしょうか?

その意味で、私はいかなる審神者さにわであっても、高級霊であっても「信じる」ということはしません。その存在を敬ったり、その言葉を「傾聴する」ことはあってもです。
また、「私を信じなさい」ましてや「私以外のものを信ずるな」的な姿勢で語るようなものがもしいたら、それは偽物です。
(”信じられない”ことなのですが、不思議にそれが「神」として君臨してきました)

本物ならば「あなた自身を信じなさい」というでしょう。

(もちろん、これは私の考えですから、あなたがそうなくてはならないということではありません)


お知らせ

二元性の実験────────────終わります

わたしは思います。
もうそろそろ終わっていい時期に来ました。
というのは、この二元性世界にヒビを入れるという試みです。
実はそれは、不特定多数層に向けての実験でした。

「ヒビを入れること」が目的でしたから、ずいぶんとエキセントリックな物言いもしてきました。
そこには混乱や狂気
正邪や
明暗や
さまざまなものがあぶりだされてきます。
多方面からこの世界を浮きださせようという私の試みでした。

わたしのこの「Note」のタイトルは、「地上的なあまりに地上的な」です。
それが、その光景です。

これは「気づき」というものでしょうが、
気づく前段階には、「なにかおかしいな?」
という疑問が必要だからです。
論理と非論理
理にかなうものと理不尽なもの
真っ当なものと馬鹿馬鹿しいもの

それらを、ただそうして投げ出してみました。

しかし、多くの「?」
が残ったこととと思います。
もしそうであれば、それは初期の目的通りであり、私はそれらの方々を対象に次のステップに移ります。

今度は、「?」→「!」の段階です。

(※「?」の中身は「闇」によるマインドコントロール=インプラント・プログラミングです。人類に施されたそれがはがれつつあります。私も含めて多くの方々がそれに気づきだしました。くどくどとそれは何度も書いてきたことなのでもはや説明しません。またそうした「闇」を見ることは「自己批判」でもあります。つまり「光」を保持していて初めて可能なことですが、残念ながらそれを「見る」という行為が、一つの「けがれ」としてそれから離れていく方も多いことでしょう。それがどういうことなのかはすでに述べています。宗教的な理念はそれをめしいてしまいます)

もう時間もあまりありません。
次に行きましょう。

「!」つまり、ではどうすればいいのか?です。今後はその意志のある方にのみ真剣にお話をしていくことに決めました。
(どういう形態をとるかは未定ですが、すでに「東洋哲学」シリーズで滑り出しております)

よって、この「Note」での更新はほぼ毎日しておりましたがやめます。
今度は絞られた層にむけての発信になるからです。
なるべく定期的にしたいのですがそれは状況次第で決めます。


「二元性溶解の哲学」

「哲学」というのは難しいことではありません。他者に依らず、自分自身で考えるということです。自由になることです。

私自身はこれといって何も誇れるようなものはありません。
というよりも、どーやら若いころから世の中に不要なことばかりに興味があって困った者でした。

わたしは約半世紀にわたり、以下のことが興味の対象でした。

一つにはこの東洋哲学のそれは実践
二つ目にはUFOその他の宇宙的な事象
三つ目には世界支配の陰謀
四つ目には我が国や世界の超古代史
五つ目には霊や魂、神といった精神世界スピリチュアリズム

世間的にはいわゆる「カネにならない」趣味的なものでしたが、仕事の傍らで、そんな世界に没頭していたものです。

「この世には何か私たちに隠されたとんでもない秘密がありそうだ」

と、多くの少年が冒険に憧れるように、それらの問題に興味をひかれていたのです。(どれ一つとってもそれは壮大なミステリーですからね)

「それにしてもなんでこんなもんに自分は興味があるのだろう?」
(周囲を見回してもあまりそんな物事に深入りするものはいませんでしたから)

自問自答しつつも、答えが出ないまま年月は過ぎていきました。
そして、それに気づいたのは比較的最近のことです。

「全部繋がっているではないか?」

何がどうつながっているのかは、お分かりになる方はわかることですので説明は省きますが、わたしがずーっと追いかけていたものは、少なくとも相当に大事なことの「鍵」になるテーマばかりだったのです。

「趣味次元」ではないことは確実です。
なぜなら、それらはすべてディスクローズの対象となるものだからです。
(ということは、やはり隠蔽されてきた事柄だらけということです)

その中でも、私はこの世の二元世界というものが、実は様々なよからぬ問題の淵源であることを深く悟ると同時に、それを私たちのものの見方・考え方から一気に一元世界に導く哲学に、思い当たったのです。

それこそが、ほかならぬ私が人生のほぼすべての期間、それを空気のように当たり前に吸ってきた東洋哲学の存在です。

東洋哲学と一口に言っても茫洋としたものですが、
それはずばり「老子哲学」
「易」の根源です。
仏教でいえば「禅」に近いものです。

それは、自問自答により、認識次元からこの3次元世界(森羅万象)の二元性の構造をつぶさに眺めやることが出来るもので、今こそ世界中で求められているものではないでしょうか?

なぜなら、その哲学は、
相反するものを一つに
対立するものを一元に
わたしたちがそうするのではなく、そうであることを認識するものです。

それこそが、平和の原理で、
われわれ日本人ならだれしもが、そうした構造を知らずとも心の奥底で知っているものです。(日本人がYes、Noのはっきりしない民族だと欧米諸国からみられるのは「あちら立てればこちらが立たぬ」といったことわりを魂レベルで知っているからです)

そこに「知識」は不要です。
むしろ邪魔です。
だから、「学者」や「哲学者」「科学者」でなくとも、子供でも、だれでもそれを学ぶことが出来ます。

まあ、際限がないのでこの辺でやめますが、
この哲学は、病を治します。
あなたを自由にします。
何ものにもとらわれないような無垢な状態にします。

あなたが次のような方でしたら学ぶべき「意義」はありそうです。

  1. 何らかの「病」があり、それを自力で治したい方(病や不幸は最も早く救われる道です・・・ただし判断力[精神]まで病んでいる場合は不可)

  2. この世界に対する不信感、疑問、違和感を持つ方

  3. 信仰はないが、何かしら大きな存在があると考えている方(もしくは、信仰はあるが新しいものを受け入れたいという度量のある方)

  4. 自分とは、世界とは、宇宙とは、つねに自問自答されている方

  5. 独立独歩、すべては自分に責任があるという考えの方


東洋哲学は「オールorナッシング」

これも、うっかりというお話しですが、感情移入しますと、つい自分と同じような形でみなさん考えているものと錯覚してしまうものです。

わたしが普通にそう思っていることが、相手はそうは取らない。
これでは、わたしは異星人状態です。
笑ってしまいますが、それは当たり前のことです。
まだ、わたしの掲げる「東洋哲学的(というと限定的に聞こえますが『聖書』などの元もそうですよ)見方・考え方」を説明してないんですから。

それは、私自身「二元性溶解の哲学」だと位置づけますが、一般的にイメージされるような「あれもよし、これもよし」という達観した仙人のような「なったつもり」の境地ではありません。
いや、逆説的に聞こえるでしょうが、すでにそうした存在(自己)からこの現実世界を見る行為です。

それは、現代社会で教える場がないことと、教わったこともない方々がほとんどですからとっつきにくいですね?

それは「宗教」ではありません。
というより、そうなり得ません。

それは「教養」ではありません。
知識ではないからです。

それは「教義」ではありません。
それは「変化」です。

それは「新しいもの」ではありません。
それはあなたがすでに生まれつき持っているものです。

それは(内的な)革命です。

そう言われても、、、
ですね。

それを解説しようと思いました。
いや、しなくてはならないと思い立ったのです。
それが自分の役目だからです。


あるYouTubeで、「私は、世界情勢がどうあれ、それが自分に直接に関係があることをピックアップするんです」と、聡明な日本人女性が語っておりました。まさにその通りで、まして今の時代のように虚々実々の社会の動きの中で、遠いところの真相など分かりません。
当然ながら、せめて身近なお買い物や、クルマのガソリンの値上がりなど、生活に密着した切り口からさまざまな疑問や矛盾点などに入っていく姿勢です。
わたしはそれは正しいことだと思います。

ただ一点、残念なことに、彼女ですら、もっとさらに身近なものを見落としています。
それは、認識・判断・理解(物の見方)という自分自身です。

実はそれこそが「東洋哲学」の真骨頂です。
しかも、東洋哲学のそれは、オールオアナッシングです。
それがそこでの「考える」ということです。
妥協がありません。
白か黒かはっきりさせることだからです。

むかし若いころに聞いた話ですので、細かいニュアンスは違っているかもしれませんが、禅の厳しい修行で、座禅中に母親が出てくる。
それを斬る
釈迦如来が出てくる
それも斬る
という心に浮かぶ「相」をすべて断ち切り、
やがて「無」の境地に至るというメソッドもあるそうです。
心のよりどころを他者(偶像)に求めることの排除です。
そこに最後に残るのは自分自身です。

自己というものほど尊いものはないのです。
すべてが自己から発し、自己に収まるではないですか?
しかもおそらく?「自己」というものは万人にあるし、特定のそれではないですね?

それこそが「神」です。







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Monikodo
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。