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二元性は異常である
少しお休みするつもりでしたが、気が付けば、ずいぶんと長い間ご無沙汰してしまいました。
私事になりますが、この間、母の入院、そして死、葬儀とあわただしく時が過ぎ去りました。
足腰が衰え、急速に耳が遠くなってきたとはいえ、日常生活では周囲に迷惑をかけることもなかった老母、齢90を超える大往生でした。
家族で温泉旅行へ行こうとしていた当日朝、いつもと様子が違う母を近くの病院に連れていき、そこから大病院へ搬送、約10日間の入院の末に逝ってしまいました。
いつからかそれは分断してしまった
おそらくは、遠いむかしには一体となって繋がっていたもの。
それがあるときから分裂してしまった。
そんな物事がこの世にはたくさんあるように思えます。
魂と肉体
生と死
・・・・
というより、
そもそも
この世
からしてそうではないでしょうか?
「この世」とわたしたちが言うとき、
それはすでに、この世を離れた目線に立っています。
さらには、そこには多分の諦観が含まれていたりします。
「この世は、所詮そんなものだから」
「人はいつかは亡くなるものだ」
「だれしも苦しみを乗り越えて自らの幸せを探り当てるのだ」
「栄枯盛衰」
「猛き者も遂には滅びぬ」
「苦楽」
「生者必滅」
「満つれば欠くる」
「会うは別れの始め(会者定離)」
「はじめあるものには終わりあり」
「出る杭は打たれる」
約めて言えば二元性・二元論ということ。
なるほどそうした理は、二元性の世界では非の打ちどころのないような条理のように見えます。
しかし、よくよく考えてみれば、それは二元性の世界にのみ通用するもの。
つまり、この有限の相対世界、物質の世界、三次元世界のみに通用する法則であって、その世界そのものからしてむしろ異常ではないだろうか?
そうした深い疑念は、おそらくどなたの心中にもあるものでしょう。
なぜと言えば、精神には限界などないからです。
上に挙げたニ三の語句の意味を検証してみましょう。
よくよくそれらを反芻してみると、共通したある特徴が見られることに気づきます。
どれを取っても、発展性というか、未来をどんどん切り拓くような躍動的な世界観がない。
持てない。
世界が閉じている。
こうした世界に何万年も馴染んで来た私たちは、そこにほとんど違和感を持つことすらなくしてしまった。
それが、私たちの住む世界であり、宇宙だとばかりに。
微かな抵抗は、先に挙げたような諦観、諦め、忍従であり、もちろんそれは悟りでも達観でもない。むしろルサンチマンに近い。
私はこれは異常なことに思えるのです。
実際、この広大な宇宙空間のなかで、私たちが呼ぶ「宇宙」なるものは、実はガンジスの砂ほどのもので、ましてこの地球を取り巻く監獄的な環境自体が、どうして正常なものであると、認識できるのでしょうか?
怪我を負っているからこそ、快癒をもとめるものだし、未だ幸せでないからこそ、幸福を希求する。
繰り返しになりますが、あまりに長きにわたりそうした環境に慣らされてしまうと、人は感じなくなってしまうものです。
そうした人たちは、既存の社会制度、法律、教育などを遵守しがちです。
また、その原点を見て見ぬふりをして、昨日と同じように今日を生きる人もいます。
3次元から5次元への移行には、畏れがあります。
しかし、忘れてはならないのは、畏れそれ自体が3次元のものだから、それも変容します。
3次元の思考であーでもないこーでもないはほぼ無意味です。
恐れるに足らず、です。
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