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ぼくのスピリチュアル または一元論
サンドウィッチを食べる楽しみと、われわれが詩趣と呼ぶ風光鑑賞の楽しみとのあいだに一線を劃することは、そんなに容易なことであろうか。
われわれが芸術と呼ぶ音楽の楽しみが、物質的だといわれるパイプ趣味より断然高級な楽しみだと考えることができるであろうか。
なにげにスピリチュアル
朝起きて、寝ぼけ眼で洗面所に行く。
つい買い忘れてしまい海苔のような状態になった歯磨きチューブを
お尻のほうからロールさせて絞り出す。
仕事のストレスでうっすら痛む胃のために、市販の胃薬でごまかそうと
口に入れた後で
それが女房の頭痛生理痛の薬だと気が付き
情けなくも悔しい失態だけに
家人には言わず独りで悶々とする。
ということが、果たして「スピリチュアル」ではないのかといえば、
実はこれは思いっきり「スピリチュアル」である。
あなたが、いつか思い立ってイタリアのフィレンツェの街に降り立ち、ヴェッキオ橋を歩いているのも「スピリチュアル」だし、
レストランで供されたスパゲッティナポリタンのえんどう豆だけを、一粒も見逃さず皿の端により分けているのも、たいそう「スピリチュアル」な光景である。
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そう、「スピリチュアル」のオンパレード、大特価、Sale、「もってけドロボー」である。
あらゆる事象は、すべて「スピリチュアル」であり、例外はない。
なぜなら、そこには、必ず創造主の「意志」があるからだ。
創造主がなければ被造物はない。
被造物があるということは創造主がいる。
いや、平たく言えば、この世のあらゆる物事は、あなたか、どこかだれかのこしらえたものだからだ。
あなたが今立っているそのフローリング調のフロアカーペットにしても、それはサンゲツや東レの企画開発者の指示のもと、機械が作り出したものだ。
一歩外へ出ても、そのレンガ調の石畳は、三井や三菱の大手デベロッパーの土木の下請けの施工会社が、夜間に一生懸命に造作したものかもしれない。
いや、田舎の山で川に洗濯に行くまでのその山道は、慶長13年、村の若い衆がこぞって開拓したものかもしれない。
夢が「奇跡」になる日
つまり、言うまでもなくそれらは「こうしたい」あるいは「こんなんでいっか」という精神(意志)が初めにあり、その造化作用で形になったものだ。
それは、時折「奇跡」をさえ実現させた。
ライト兄弟に始まる「飛行機」にしても、
「鳥のように大空を飛びたい」という夢が形になったものである。
もう一度言おう。
夢が形になったものである。
形になるまでの間、それは他人の目にはたいそう滑稽に見えたかもしれない。
はじめ、それは、
レトロなムービーにありそうな、
両手に板を挟み、鳥の羽に見立て、
「バッタバッタ」
と飛ぶのではなく、みごとに落下してばかりであったろう。
何度繰り返しの「墜下」がそこにあったことだろうか。
われわれは、それを「試行錯誤」などと、知った風なあるいは機械的な言葉でまとめる。
しかし、当人らはおそらく単に夢中になっていただけだろう。
何ものかに導かれるがごとく。
その「何もの」の正体こそ夢(ビジョン)であり、それが「意志」をかたちづくった。
成功には「設計図」があった。
しかし、設計図で成功したのではない。
設計図を描いた意志・夢・・・スピリッツ(スピリチュアル)がそこまで導いたのだ。
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それが今では
「鉄について解せないことが2つある。一つはあんなでっかい鉄の塊がなぜに落っこちないで空を飛んでるかだし、もう一つはすでにホテルと化した鉄の構造物がどうして海上をスイスイ走っていられるかだ。浮力だか揚力だか知らんが恐ろしい」(小生)
と、大昔に滑稽がっていたビジター側が、こんどは驚異でそれを眺めるところまでになった。
もちろん、飛行機ばかりではない。
世界中の情報が手に入るばかりか、それをその辺のカフェでお茶をすすりながらネットサーフィンしたりもできるPCや、
それを電話機能のみならず、通勤の電車でも片手で見れるようなモバイル(スマホ)にしたうえ、さらにそれにキャッシュレスで買い物が出来たり、電車に乗れたりする機能まで付加したことも、
衛星電波を受信しつつ、行く先をナビゲートするカーナビにしても、
それらの登場前夜は、万人が笑い飛ばすようなアイディアであった。
しかも、とりわけこうしたテクノロジーに関しては、まだ、たかだか3,40年の歴史しかない。
スピリットが現実をつくる
いずれにせよ、形而上の(目に見えない)世界というものは、形而下の(目に見える)世界に先立って存在するもので、あらゆる存在、行動はその法則に従っている。形而上のスピリットがあらゆる事象を創造しているわけで、それなしではそもそも物事が存在しない。
しかし、私たちはついうっかりそうした事実を忘れてしまう。
私たちの思念が物事を作り、ひょっとして人生そのものを作っていることをも。
朝起きて洗面所に立ったり、レストランで食事をしたり・・・から始まって日常のルーチンが、ついなんとなく流されるままにそこにあるように錯覚してしまう。
たとえ、それが当たり前に「そういうもんだから」という意識で行動しているにせよ、それはそういうあなたの判断であり、意志である。そのランチが、あるいは友人からやむなく誘われての会食であったとしても、それは友人の意志をあなたが受け入れたからであり、最終的にはあなたの判断だし、あなたの意志である。
ところが、多くの人はそうしたことは「単に断片的な現実である」という風に都合よく考えたがる。
それは単なる「現象」であり、「偶然」であると錯覚してしまう。
原因がなく、結果(物・行動)だけがあるという認識だ。
そこでは、先ほどの「意志」というものがどこかに行ってしまって、もぬけの殻だ。もっと言えば、「精神」を忘れている。
「私たちはなんとなく存在し、なんとなく生きて、なんとなく死んでいく」「どーせ死んだら跡形もなく何もなくなるんだ」
これが、唯物論の行き着く果てである。
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「すべては物質」で正解だが・・・
では、「唯物論」がなぜ「よくない考えだ」「まずい考え方だ」
と、あなたはお考えになりますか?
実はある意味、「唯物論」は正解である。
「宇宙のすべてが物質」の見地でいえば、
この「物質」そのものは、きわめて密度が高い、低い世界の、固い物質であり、
一方の「精神」は、きわめて希薄な、あるようなないような、しかし高度な物質
という見方もできるからである(量子論)。
しかし、後者を仮に「精神」や「心」としたときに、
それはないものだとする考え方がまずいのだ。
それは、精神の否定のみならず、同時に自己(物質の高い側面)否定でもあることを自供しているからだ。
つまり、「二元論」であり、自家撞着であり、そもそも論理が成り立たないからだ。
霊能がスピリチュアル?
一方、これの裏返しが大方の「スピリチュアルの世界」である。
人は「テレパシー」だの「テレポーテーション」だの「幽体離脱」だの「降霊術」だのの”超自然”な問題だけを切り取って、「スピリチュアル」とレッテルを張りたがる。
それはそれで間違いではないにせよ、それを肉体(物質)から切り離してはならない。
私は、そもそも「現実」あるいは「生身の肉体」とそれら「スピリチュアル(精神・魂)」を区分すること自体からして、すでに二元論であり、よってスピリチュアリズムとはいいがたいもの(成り立たないもの)だという認識だ。
この一文で述べてきたように「スピリチュアル」は、観念論でも、唯心論でもなく、「現実」を構築する要素だ。
そして、もし現実の一部あるいは多くの部分が、私たちの「共同創造」になるものであったとしたら、ユングのいう「元型」や「集合無意識」「シンクロニシティ(共時性)」や、また「デジャヴ(既視感)」などの言葉も自然にうなずける事柄に思えてくる。
ざっくり言えば、そこに精神界と現実世界の間を行き来するような何ものかの力が見え隠れするからである。
いかがだろうか?
知識を増やす「学」でなく、それを減らす「道」
いわゆる「学」というもののなかに「一元世界」は見えてこない。
それは、「学」を超えた昔でいうところの「道」の世界。
「学」を超えた「道」とは、ひとつの「悟り」や「気づき」のようなもので、
何らかの知識で、ある体系を「構築」するのではなく、
初めからそこにあって、横たわっているものを「発見」するような作業ではないか?
そこに、
「己を空しゅうする」
やら
「無我」
やら
「学を絶たば憂いなからん」
やら
「学を為すは日に益す。道を為すは日に損ず」
やらの
一見、引き算的な姿勢の正しさがうかがわれる。
剣道や柔道などの「道」の在り方が見えてくる。
まるで、埃をかぶった宝石の、その塵を払うように・・・。
COBRAはそれを「いままで学んだことを捨てること」と言った。
私が、「スピリチュアル」をあえて標榜するのは、ここで述べてきたように、「スピリチュアル(精神)」ありきの「現実世界」であるのにもかかわらず、唯物思想がそれを排斥しているからだ。
しかし、誤解されたくないのは、決して「唯心論」を掲げてはいないし、また掲げたくもないということ。
いうまでもなく、それらはいずれも「二元論」だから。
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その足は地べたに立っている
私たちは、どんな崇高な理念を掲げていてもその足は、地べたに立っているし、
また、単に地べたに立っているだけに見える者でも、そこに人知れぬ理想や夢、思想を抱えているのが「人間」だからだ。
精神(心)は精神(心)、肉体(物)は肉体(物)ではなく、
精神は肉体、肉体は精神である。
どちらに優劣もない。
今必要なことは、天(精神)と地(肉体)をつなぐものだ。
しかし、
そもそも「天と地をつなぐもの」
などと力まずとも、
フツーに天と地は繋がっている。
この肉体(物)という3次元を見ているのは精神(魂)という5次元(~)だし、
5次元(~)を憧憬しているのは3次元の肉体である。
五次元以上の無限の世界がまだまだ果てしなく未踏の世界であるのと同様、
この無限分の一の三次元(夢幻の)世界も、まだまだ”病みつきになる”ほど面白い世界ではないか?
そして両者は繋がっている。
これが、マット―な人間の認識であり、在り方である。
最後に、
なかでも、瀬戸内海・大三島の阿部ふとし君は、もういいお歳のはずだが、おそらく今も変わらぬキャラのままでいるであろうことも、
スピリチュアル
である。
みなさまへ
今回もお読みいただきありがとうございました。
ここに述べた「考え方」が、私の「哲学」のアウトラインです。
こんなものが「哲学」なのかどーかさえ、私にはどーでもいいことなんですが、少なくとも(あくまでも私にとっては)生活から遊離したものは「哲学」として認めないものです。
さらに、「哲学とは、ものごとを簡単にすること」だと思い込んでいますので、どこか「なんたら論」だとか「なんたら序説」だとか「なんたら学説」といった立派な「哲学」に深い造詣をお持ちの方でしたら、「なんだ幼稚な。中身が薄い」と思われるかもしれません。
その通りですし、それが私の哲学なんです。
たとえば、物質側の代表選手「科学」でも、量子力学の分野はますます研究が進んでいるようですし、精神側の代表選手「宗教・修験者・ライトワーカー等々」の側では、様々な形で人さまを「救済」したり、人知れずこの惑星地球のための奉仕活動をされている方もおられることは知っています。
ただ、私の立ち位置は、あらゆる次元において二つのものを一つにすること、でやっております(何を?💦)
それを踏まえたうえで、両陣営の方々にさらに邁進されていただくと同時に、皆さまにもぜひご理解・ご支援のほど賜りたく、お願いに上がった次第です!!(・・・締めが選挙演説になってしまったのは、「両陣営」なんて言葉を書いたからに違いない?)
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