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縁なき衆生は度し難し?【後編】
人の数だけ言葉がある。
言葉の際に人がいる。
そこにはさまざまな想念や情念が息づいている。
ドラマチックなドラマがあり、ドラマチックではないドラマもある。
「生きてるんだもの、それでいい、それがいい」
みたいな、思わずどこかで聞いたような感慨が沸き起こる。
生きているぬくもりだけで
SF映画などでありがちな(核戦争などで荒廃した)ほとんど人類が絶えた世界。得体のしれない巨大なシダ類に覆われた無人のビルの一室。
そこで、埃をかぶった一個のUSBメモリーチップを見つける。
早速PCに差し込むと、しばしのノイズが入った後、なんとそこには俄然「Note」のホーム画面が立ち上がったではないか。
ずらりと並んだサムネ画像。そこに、
「サイコーの目玉焼きを作ってみた❤」
という満面笑みの幼馴染の投稿を見つけ、主人公はいきなり堰を切ったように嗚咽する。
「笑わせるな!」
とかなんとか叫びつつ、ひざを折り、号泣する。
「その目玉焼きレシピは、昔俺が教えてやったもんじゃないか~」
悲しい。悲しすぎる。
可笑しい。可笑しすぎる。
「おもしろうて やがてかなしき」すぎる。
「生きている」ぬくもり。
本来それだけで、人は救われるのだ。
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大局では一つの「縁」で繋がる
前編では「Note」という一つのコミューンを俯瞰して、そこにある内容的な拮抗関係、読者層のようなものを見てみた。
そこは、もうほぼこの世の社会の縮図である。
切り口によって、いかようにも分類できる。
「カスタードクリーム系が好きな人、手を挙げて―」
といえば、そこに大きなグループの輪ができるだろうし、
「いやいや、わたしは生クリーム派でーす」
というグループもできるだろう。
中には、
「吾輩は、昭和レトロなバタークリーム一筋、頑固一徹」
という懐古派もいるに違いない。
同じことが、
「粒あん派」
「こしあん派」
にも言えるだろう。
すべてが「系」であり「縁」になる
前者の「クリーム」で、派閥が二つに分かれるにせよ、それは同じ「クリーム」を軸にしてのこと。
たとえば「カスタード」が好きな人が「生クリーム」が大嫌いだということは滅多になく、そこにあるいは「ホイップクリーム」という分派まで派生する可能性すらある。
なぜなら、「クリーム好き」という大局では、心を一にしているからである。
それは、一つの「系」であり、すでに「縁」が結ばれているではないか?
しかしながらである。
その「クリーム系」が、お隣の「あん系」とダイレクトに疎通する機会というのはなかなかに取りがたい。
そこに、アンパンマンとクリームパンマンほどの親密な関係性は構築されがたいではないか?
(でも、あたしの好きな「餡バターや生クリーム餡パン」はどーなるんですか?)
・・・ま、えー、💦喩えが少しばかり、コホン、まずかったかな☆彡
「発心」するもの手を挙げて
では、そこで「サァーパチパチ、発心するもの手を挙げてー (-ω-)/」
となったときにどうか? ということである。
いずれにせよ「発心」が切り札、カード、ババである。
発疹ではない。ほっしんである。
『発心集』(鴨長明)などもあるくらい昔は重要だった語句。
「・・・・・・・・・・・・」
でしょう? でしょう?
しかし、百歩でも万歩でも譲って、
その「発心」がなければ、成仏できない。
いや、地獄の釜ゆでの刑を免れない。
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おカネだったら千円でも5千円でも払いますから」
そうなったならば、どーだろう?
そういうくくりであればどーか?
「発心か、それ以外か」
「Note」でもなんでも、人類すべてが、
「発心か、さもなくばそれ以外か」
という閻魔のような選択にさらされたとき、そこに無理くりの「発心派」(パリサイ人)が誕生するという危険性をはらんでいる。
そもそも、その気がないものに「発心」なんぞ無意味だというのに。
発心そのものが「その気」であるのに・・・。
失恋や死別から・・・
ここに、いよいよ「中編」で取り上げた”西行選手”の出番になるわけだ。
仏道、菩提心に目覚めることこそ「発心」の意味で、
もちろんそれがすなわち「悟り」を指す言葉ではなく、
ほんのその「入口」である。
西行法師のみならず、当時そんな人たちはケッコーいた。
そのきっかけ、前提になる出来事は、
あるいは「失恋」
あるいは「死別」
あるいは「挫折」
あるいは「病」・・・
と、千差万別であるが、
それがどーいうことかというと、ショックによりこのマトリクスの世界という殻に、外部から亀裂が入ったということだ。
もちろん、そういう”外傷”からではなく、釈尊のように、内面からこの世の無常を悟り、マトリクスを打ち破り、覚醒したものもいる。
しかし多くは、何かのショックがなければなかなかに目を覚まさないのが、この人間界の理である。というのも普通、五体が満足であれば、目の前の「色(物)」という迷妄に惑わせられるからだ。
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第三者が言っても無駄
では、多くのそうした人々が、こぞって「発心」を目指すようにするにはどーしたらよいのか?
一つだけはっきりと言えることは、それを第三者がとやかく言っても無意味だということ。
そこではむしろ反感を買う以外ない。
なぜかというに、当然ながらそれは自らの問題で、自ら目覚めない限り果たせないことだからだ。
自ら目覚めるから「発心」というわけだ。
だから、本来は先に掲げたような「呼びかけ」ということ自体が、道理に反していることになる。
二元性の世界ほど面白いものはない
「問う」という前提がなければ「学」はなりがたい。
「学問」だからだ。
単位取得のために、興味もない授業をいやいや聞き、丸暗記した知識で試験をパスするような姿勢で「学問」など成り立たない。(そこで身に着けた”学問”は、試験を通過して以来、人生ではこのかた役に立つこともない)
ということは、「問う」その対象が、このうえなく面白くて、興味津々なもので、さらに自分のために役に立つものなくてはならない。
でなければ問う気にすらならない。
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違いますか?
(たとえば、量子力学や天文学、細菌学などの研究に没頭されている研究者などは、おそらくそれが面白くて面白くてやめられないのではないだろうか?)
同じことが、「発心」にも言える。
それは、面白くなくてはならない。
「えー?」
だと思います。
しかし、なぜ、面白くもないものにわざわざ心が傾くのでしょうか?
「発心」などというと大事で、その後に何か、辛気臭ーい、暗ーい、修行や鍛錬やそんなものが付きまとうのでは?
とあなたはお思いではないですか?
「仏道」にせよなんにせよ、大方の宗教はそうですね?
でも、そんなもん、ご免こうむりたいではないですか?
私は、「自己紹介」でも書きましたが、高校時代に仏典やら東洋思想やらの世界に出会い、そこに没入していったのは、単に学校の勉強よりもなによりも、それが面白くて面白くてやめられなかったからにすぎません。
殊勝な、「悟り」とか「修行のため」といったようなおこがましいものとは少し違います。(余談ですが、最初からそんな世界に惹かれたわけではなく、その前は詩や文学、絵画特にシュルレアリスムに熱中してました💦)
「発心」の先の世界・・・それは、あの世に行くことではなく、この世を見つめること、この摩訶不思議な「現実」という夢幻の構造を見ることです。
私たちは、よく「そらごと」を「夢」といいます。
どこか異世界のことのように夢を扱います。
「夢」はこの世、現実のことです。
その「夢」を「まこと」と勘違い、というよりそう思わされ続けてきたのが、「唯物科学」というマジックに騙され続けてきた現代人(=縁なき衆生)というわけで、しかもその物をあつかう科学の分野(量子論)から、まさしく、この物質というものが「夢」のような構造になっていることに行きついたのが「今」の時代でしょう?
(わたしのところにも「ヒーラーさん」や「レイキさん」や「ライトワーカーさん」や瞑想、占いなどをおやりになっている方々が「足跡」を残されていきます。そーいう方々は、すでに皆様のお役に立ってるんですねぇ)
「縁なき衆生」こそ救われる?
それでは結局 彼ら一般大衆は、文字通り「度し難い」のだろうか?
つまり、「仏縁に恵まれないものは、救いたくても救えない」ものなのだろうか?
いくら説法しても所詮無駄だから切り捨てるのか?
という一種の「命題」に大上段に切り込んだ人物がいる。
その人物こそ、「悪人正機説」で有名な親鸞聖人である。
彼は、にべもなくこう言う。
「その者たちのほうがすぐに救われるよ」
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人においておや」(自ら悟らんとする善人でさえ救われるのだから、平素仏だのなんだの無関係な一般庶民が救われないわけない=意訳)
少しドキッとするようなアイロニカルな表現だが、それは相当この問題で悩んだ末での結論だからだろう。
彼に言わせれば、悪人(縁なき衆生)こそ、いざとなったら必死で救いを求めるから即座に救われるのだ、とのご説だ。
「絶対他力」を真骨頂とする親鸞の考えでは、縁があろうがなかろうが、「発心」しようがしまいが、阿弥陀様は万人を救ってくださる。むしろ、そこに自力で「救われん」とするような賢しらこそ、やや抵抗となるものの、それでも救われるのだ、ということになる。
まさしく、「それでいいのだ」の思想である。
現代人が、これを額面どおり解釈すると、さしずめ
「なー、あんなきれいごとを並べて善人ヅラして得々としてる連中が救われるって―んだから、俺ら悪人呼ばわりされてる正直者が救われねーわけないじゃねーか、そーだろ?」
みたいなニュアンスになりますが、あながち間違いでもないような気もしますね?
そこで彼の天才は、仏法を「南無阿弥陀仏」という簡潔なお題目に集約、「念仏」という形で仏を庶民に身近なものにし、有難たがれたわけである。
そうだろうと思う。
そしてまた、「発心」により一念発起して求道の道を行った者たちも正しいし、むしろロマンチストだったかもしれない(西行のように)。
絶対他力も絶対自力も同じもの。
親鸞自身が、自ら厳しい修行(自力)の末に行きついた「絶対他力」である。
アセンションは、外部(他力)と内部(自力)の二通りで始まるのだから。
とんでもない逆転劇「二元性の時代は終わった」
みなさまお気づきですね?
少なくともこれを読まれているあなたはお分かりのことかと思います。
「その時代は終わった」「終わりつつある」
「みずがめ座の時代」「風の時代」という言葉が何を意味するのかは、いまさらここであえて言うまでもありません。
新サイクルに入った。
この地球惑星、太陽系、天の川銀河、すべての銀河系・・・。
セントラルサンから発っせられたまばゆいばかりの光芒は、外周方向にらせん状に旋回する宇宙をあまねく照らしだす。
(おそらくは闇の勢力の介入による)タイムラグはあったものの、ご存じのようにマヤ歴のカレンダーは、2012年で世界が終了したまま止まっている。
ということは、今私たちがいるこの地上は、終了した後の世界である。
私の「これ」も、あなたの「それ」も、残念ながら「すでに終わってる」ものである。
しかし、新しい時代はそうした中でこそ胎動しているのだ。
生まれようとしているのだ。
表層は、何も変わらない体を示しつつ、
内部では様々な価値やらなんやらが変動、逆転している。
さながら、それはさなぎのように。
そう、いまは、
「さなぎの時代」なのだ!
(え? なんかイモっぽくて響かないフレーズですって? 僕もそう思います。「ミノムシの時代」でもいいのですが、あまり変わらないのでパスしときます。)
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もうちょっとの辛抱だよ!
幼虫のようにちょこちょこ歩き回る時代は、とっくに終わってます。
では、大空を羽ばたく蝶のような美しい存在になったのか?
というと、
「まだ、なってません」
「ちょっと待ってー、いまなってるとこ」(さなぎの殻の内側からのくぐもった声)
っていう事態に気づいてる人は、今これを読んでおられるあなたくらいのもの。
大方の「縁なき衆生」は、いまだ気づいてません。
でもね、ご安心ください。
みーんななっちゃうの。
(自分でも想像できなかったほどの)美しい蝶になっちゃうの。
縁は後で思うもの、縁は数奇な「たらばガニ」
さあ、「縁なき衆生」のみなさまも、これをご覧いただいている「縁ある衆生」のみなさまも実は、みーんな「縁」で繋がれているんです。
それを簡単に証明してみます。
卑近なところから行きましょう。
あなたの伴侶、あるいは恋人でも、友人でもいいでしょう。
なぜ、今そこに身近にいらっしゃるんでしょうか?
「縁」は空気のようなものです。
見えません。
でも、めっちゃ大事でしょう?
大事なものほど、普段意識しませんね。
「よっしゃ、空気でも吸うか」
なんてやりません。
「さあ吸って―、はいてー」など意識しませんが、
その吸ってはいてがなければ、おそらく2,3分後には心肺停止で死にます。
「縁」も一緒。
まさに奇跡の積み重なり
私事でお恥ずかしいですが、たとえばワイフとのなれそめやらを考えたときに、あまりにも多くの奇跡的な事象の積み重ねがありすぎて、むしろ一緒にいることが(良くも悪くも?)不思議すぎて悶絶しそうです。
詳細は省きますが、数秒の時間差や、どーでもよい判断や、引っ越しなどの住処の移転、転職、気まぐれの選択などがなければ、彼女は間違いなく私にとって「縁なき衆生」です。
「いやいや、そもそも私が既に就学していた時分、同じ都内某所で彼女は産声を上げたって言うじゃないか。それが、はるか時を経て、よりによって同じ地方都市で出会って一緒になるなんて、むしろ偶然性以外の何ものでもないではないか? てことは、どんなに離れていようが、どんなに時間が経とうが、人生のスタートラインからアイツは赤い糸で俺を縛り付け、すこーしずつ手繰り寄せていたのに違いない」
となりますと、「怪談」じみてきますのでほどほどにしときますが、あなたも機会があれば、あらためて過去を振り返ってみてください。おそらく私以上の「奇跡」の積み重ねがそこにあることを発見して驚愕されることでしょう。
「あの時もし、ああしたらば、ああしてなかったらば・・・」
気が付きゃ全部繋がっているじゃないか?
「因縁」といいますが、「因」というきっかけが生じた時点では、それがどーいう意味を持つのか皆目分かりません。
しかし、後付けで今現在から振り返ってそれを眺めたときに、そこにありありと今に至る数奇な「縁」が見えてきます。
まさに「袖振り合うも他生の縁」なのでしょう。
(この辺の消息は何やらユングの深層心理学や量子力学に迫っているかのようです。どなたかお詳しい方は研究されてください)
全部繋がってますね。
全部です。
第一、何兆だか、何京だか数えきれないほどいるだろうこの宇宙のヒューマンビーイングの中で、私たちが、この天の川銀河の端くれの「地球」に生まれ、今現在2023年の時代を、時を、秒を同時体験していること自体、ほとんど無限分の一の確率です。
奇跡的な「縁」で繋がっているのです。
それは否応なしに「切っても切れない」縁です。
ダイジョーブ、みーんな救われます。
「目玉焼の美味しい焼き方」や「晩御飯は焼き餃子はやめてスープ餃子にしようかはたまた水餃子か?」や「3か月かかっても取れなかったシミ取り液だからもう3か月延長しようかしら」
などには関心があっても、
(NHKの朝ドラで涙を流しても、その報道機関がホントに涙を流さなければならない百万の事実を報道しないような)二元性の世界や、この世の嘘や、(大切な人が亡くなったときだけ浸る)無常観がなんであるか
などにまったくの無関心な人であっても、
ダイジョーブ、みーんな救われます。
アセンションします。
私は、前回の「中編」で、
この世は地獄だ
という耳痛いような発言をしました。
だれでもそんな言葉は聞きたくないし、退けたいですね?
「ああ、なんてかわいそうな考え方をする人なのか?」
なんてつぶやかれる方も多いでしょう。
でもね、だからこそ多くの「発心」した先人たちが、そこから脱するために文字通り「命を懸けた」ことは、すでにお話ししました。
「この地球が監獄惑星」と言ったCOBRAに問うても、ただ「そうだから」と答えるでしょう。
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この原点を見失うと、判断力も失ってしまいます。
スピリチュアルに関心をお寄せの方は、長い間闇が覆っていたこの地球こそが、二元性と一元世界の境界線であること、光と闇が拮抗する焦点であること、壮大なアセンションドラマの中心舞台になるべき理由であることを再確認してください。
アセンションとは、転換劇です。
光が光へではなく、
闇によって覆われたものが、光へと転じるものです。
人々はまた、苦難は決して人生体験の一部として意図されたものではないことに気づくようになりました。そしてとうとう、この地球の二元性という実験はエラーであり、修正する必要があることを認識しています。修正は、光に戻るプロセスを経てなされます。
縁なき衆生が救われなかった時代も、
ホントにあった怖い話(「地獄」がこの世にあったというより、この世が実は地獄そのものであったこと)も、
「闇」そのものも、
ほら、急速に遠のいていってるではないですか?
それははるか遠い昔に惑星地球で起きた出来事。
そしてそれは、
「まるで存在しなかったかのように、跡形もなく根源まで消え去ります。」
みなさまへ
お疲れさまでした。
ここまでお読みになられる方はそうたくさんはおられないかもしれません。
おこがましいことですが、みなさまには、文中にありましたように、いずれこの「二元世界の見方」のようなものを”ご開陳”させていただこうか、と思っております。
アセンションの際は、このセイカ食品の「ポンタン飴」や「パイナップル飴」などとご一緒にご賞味くだされば幸いです。
なお、長文、論旨がどこに向かってるのか不明な個所もあるやもしれません。すべて、闇のせいですので(闇に乗じて)ご容赦ください。
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