見出し画像

【女性賛歌】女神は始めからそんなこと全部知ってるよ!

【お礼】あなた様へ
ぼくが、このNoteへ投稿した当初から、何くれとご心配されたり、応援していただいているあなた様。実際に交信したことはございませんが、テレパシーで十分伝わっております。あなたは「愛」が溢れた存在です。その愛がこぼれてこの末端の私ごとき存在のもとに届いております。まことに、ありがとうございます。また、時折私のところへ訪ねて下さるあなたへ。ここは実はほかに類例がない不思議な場所です。あなたがここを通過して、また違った目で世界を眺められたら素敵です。いずれも故あって私から何の返礼もできません。でも、あなたたちのことはしっかり心にとめておりますので、そこはご容赦くださいませ。
この場を借りて。Monikodo拝



女性は途中経過に拘り、男性は結論を急ぐ

ものごとには、「結局」があります。
結末の局面
むすび
結びの一番です。

「とどのつまり」とも
有頂天うちょうてん(物事の頂点)」とも
大団円だいだんえん(最後の場面)」とも言えますね。

「要は・・・」と、それを促す副詞なんかもあります。

映画でも本でも、結末(結論)を知りたいがために私たちはそれを読んだり見たりするわけで、途中で結末を暴露してしまうと「ネタバレ」とかのとがで、斬首刑になったり(しません)。

そうはいうものの、おかしなもので、最初から結末だけであったらどーでしょう?
あれほど知りたくって、覗きたくって仕方がなかったことを、冒頭であからさまに明かされているものに、人は興味を示しません。

なんだか、人生に似ていますね。
結末を知りたいような、知りたくないような。
ま、実際は永遠の「今」が人生で、そこにプロローグも、エピローグもないのが真実ですが・・・(「今」というものがなぜあるのか不思議ですね)。
僕など、もういい加減に人生の「結論」を出してもよさそうな歳なんですが、出ませんねぇ。
ビビッドかつラディカルな「今」がそうさせているからです。

さて、ここで、僕は謝らなくてはならないことがあります。
というか、恥ずかしながらよわい60をとーに過ぎて初めて気が付いたことがあるからです。
なにについて謝るのか?
女性についてです。
僕自身、「女性蔑視」ということはありませんでしたが、その偉大さを過小評価していたきらいがあります。
洗脳です。
それが解けて、気づいたことがあるのです。
「結論」の話から飛躍し過ぎと思われるでしょうが、まあ聞いてください。
僕の懺悔録を。


身近にいながら不可解な存在。
そう、それが女性です。
もっとも、向こう(女性)側からすれば、
われわれ男性はさらに分からない存在かもしれませんし、
いやいや、分かり切っちゃっていて、「何をお馬鹿なことやってんのかしら?」と呆れたり、よくて憐れんでいたりしているかもしれません。
いや、そうに違いないのです。
いつまで経っても、男は子供なんです。

ところで、女性は概して物事の結論よりも、その途中経過を大事にします。
時にあまりに大事にし過ぎて、おかしなことになったりもします。

電話などでの女性の会話にそれは顕著です。
それはたいへんに、叙述的、かつ散文的、具象的です。
だから、いきおい長ーい会話になりがちです。

冗長な女性、ぶっきらぼうな男性

「そうそう、そうなのよー、でね、あたしもあそこの店に行ったの、え? あそこよあそこ、あのコンビニなんてったかしら、そう、サンクス系サークル、あったでしょう? え? サークルK? え? サンクス? どっち? まいいわ、そんな感じの奴。なんか、「びっくりドンキー」と似てない? 「ドンキーコング」と一緒になっちゃってる人いるの、あれって笑えるわよね、ああ、そういえば思い出した。昔ダンキンドーナッツってあったわよね、あれって今もあるの? そんなことじゃなくて、昔あったあそこのサークルの角を曲がって、左側にあるイタリアンよ。そうそう、ちょっと古めかしい造りの、あたしアンティーク好きじゃん? だからついあの店に寄っちゃうんだけどさ、え? ミラノに行ったの? なんでそれ黙ってたのよ、あたしも・・」

・・・シャラップ的な問答がとどまるところを知りません。
顰蹙ひんしゅく」という文字は、ここから発生したのかな? と勘繰りたくもなったり。

無論、電話のお相手もご当人に輪をかけてのお話し好きであれば、完全にリミッターは外されます。

総じて女性は、このように状況描写、といいますか、刻一刻と移り変わる自らの心象風景の機微を表現するのに長けています。
それでいて、なんと結論(要件)がないままに終わってしまったりすることさえあります。
結論じゃなくって、それまでの経緯に力点が置かれている点が興味深いですね。

一方、その点、男性は、できるだけ途中経過を省略したがり、結論を急ぎます。
状況はどうあれ、「で?」「要は○○○○ってこと?」と、話をまとめたがります。時折、途中経過をカットして、結論だけを言うものですから、とんでもない誤解や、時にぶっきらぼうの印象を与えてしまいがちです。

「おう、久しぶり。どう? 飲みやる? うん、前に行ったあの居酒屋で。んじゃ、○○駅西口改札前で18時45分ってことで」《ツー、ツー、ツー》

A君とBさんがお付き合いをしました。
それまで途中、紆余曲折がありました。
女性は、その紆余曲折を知りたがり、同情したり、忠告したり、励ましたり、祝福したりします。
一方男性はときたら、「要は、今二人は付き合ってんだろ? 今が幸せならそれでいいじゃないか」
以上! てな具合です。

前者が冗長、退屈、散文的、具象的過ぎるのに対し、
後者は言葉足らず、無粋、冷淡、理性的、抽象的過ぎます。

これが、女性性、男性性の特徴です、というのならば、その辺のアカデミックな書籍にもあるかもしれません(僕は、いかんせんその手の本を読まないので何とも言えませんが)。

僕はこう思います。

女性は、その特性は

自身が女神である


ところから来ている。
彼女にとって「結論」や「真相」などはどーでもいい問題である。
なぜなら、そんなことは実はすでに承知だからである。知っているから興味ないわけです。

ドッペル? いや、め、女神さまだ

男性がいくら、「世の中の真相はかくかくしかじかなものなのである」と息巻いても、「あら、そうなの?」といった塩梅である。

逆に言えば、眉間にしわを寄せて「哲学」するものは、きわめて女性的ではない所作である。

さらに逆を言えば、その意味で女性性は、この世ではあまり役に立つような結果を残すことが出来ない。生理的に抽象化することが不得手だからである。

また、男性がこの世的な具象的な問題に終始し、月並みな意見を述べるにとどまるのは、あまりに女性的であり、男性性の役を担っているとはいいがたい。

男性はいくら頑張っても女性にかなわない

男性諸君!
君たちがいかに深く物事を究めようが、
そこに崇高な悟りを得ようが、
残念ながら、ここは君たちの負けだ。
きっぱりと席を女性に譲るほかない。

君たちは結論を急ぐ
しかし、女性を見てみたまえ!
余裕で、そんなもん追いかけちゃいない。
むしろ、その周辺の景物を楽しんでいる気配すらあるではないか?

グルメや旅行やショッピングや・・・
そんなものを君たちは「旅サラダ的な」などと馬鹿にしているだろうが、
そんな通俗世界に惹かれるものは
本性が神聖な女神だからである。

こいつは俗界の逆襲だ!
価値観の転覆てんぷくだ!

男性諸君!
君たちがどこをどうあがいても、絶対に女性に勝てない理由を
特別に
思い切ってここに記そう。
驚くなかれ、
それは、君たちのすべて一人残らず、

女性から生まれてこなかったものはいない


という事実だ。
初めに女性ありき
である。
女性こそ、君にとっての「ソース(始原)」である。
むかしの言葉で言えば、「神」である。

え? 男性がいなければ子孫は絶えるって?
その通りだ。
しかし、考えてもみたまえ。
男性は君以外にもいくらでもいるではないか?

君たちは、彼女から見れば、ひよっこである。
君たちの功績ですら、彼女から見れば「よく頑張ったね、まる」ってなことにすぎない。
君たちは、亜流であって亜種なんだ。
女性の「次」の存在が男性だ。

頂上はまだかい?

だから、君たち男性は、高みに登ろうとする。
君たちの目線は、いつも山の頂上であって、その間の景物を楽しもうなんて余裕はないじゃないか?
むしろ、そんなものは無くってもケーブルカーやリフトや、バス、タクシーなどで早く登頂出来ればそれでよしとしてはいないか?

男性諸君!
君たちが女性にまっしぐらに飛び込もうとするのは、
それは彼女が君たちの「ソース」だからだ。
原点回帰だ。
先祖返りだ。
いずれ君たちが本当に宇宙銀河のソースに戻るための
それは、予行練習だ。
本能だ。

女性を見よ!
彼女らは、君らと違い、
高みからこの地上へと降りてくる。
結論、結末から、それの伏線へと逆行してくる。
天国からわざわざこの地上へと降臨されている。

もはや、ひれ伏すしかないではないか?

君たちは、気軽に「神」なんて言葉を使う。
しかし、君たちを産みたもうた女性こそ「神」ではないのか?
君たちは、ご先祖様を大切にする、なんて殊勝な心掛けをよく語る。
しかし、君たちの直系の「ご先祖」は、女性(母)ではなかったか?

世界でも、古代文明のシンボルは「女神」だった。
女神ほどやさしくて、いつくしみを知り、それでいて強烈なパワーを持った存在はまたとない。
世界をべているのは女性だ。
「女帝」ではない。
みかどは女性なのだ。
だからこそ、それらの神殿や像は徹底的に破壊された。
闇の勢力がそれを最も恐れたからである。

日本神話でも、紋切り型ではあるが、伊邪那美神イザナミ、天照大御神や卑弥呼、白山菊理姫しらやまくくりひめといった存在にその片鱗がうかがわれるし、土偶などを見ても、ビーナス像など圧倒的に女性が多いのもうなずけるではないか? 

オリュンポス十二神のうちの一人
で、愛と美の女神・アフロディテ
Turkish Culture Clubより


遮光器土偶=青森県つがる市木造亀ヶ岡出土
東京国立博物館蔵

(日本の古文献などを瞥見すると、そこにどことなく馴染みのない異文化・異国の手垢が残っているように感じるのは僕だけでしょうか?)

言うまでもなくイエス・キリストは偉大である。
しかし、その子を産んだマリア様はさらに偉大である。

ゴータマ・ブッダは偉大である。
しかしその母摩耶夫人まやぶにんはさらに偉大である。

マハトマ・ガンジーは偉大である。
その母プタリバーイ・ガンジーはさらに偉大である。
彼女が一般に無名に近いところは、さらにさらに偉大である。

女性、女神は崇拝の対象であったことに注意したい。
彼女は、この地上で具体的な結果を残したりしない。
彼女は、一人のキリスト、一人の仏陀、一人のテスラを産み落とすことだけで十分だ。
有能な、いや無能であっても、
この地上を楽園に変えていくような男性を、この地上につかわせる
それだけで、彼女はそれにも増して偉大な功績を残したことになるからだ。

彼女は、自らを主張しない。
誇示しない。
彼女は来たるものを拒まない。
すべてを抱擁し、慈しむ。
彼女はわが子の代わりに
命を捨てることに躊躇しない。
彼女は燃える恋のために
自らを犠牲にすることすらいとわない。

「男女同権」から女性敬慕社会へ

現代社会は、男性社会と言われる。
むかしは女性が社会に進出する機会さえ与えられないほど、地位が低く扱われていた。
しかし、昨今ではようやく女性の地位が男性と等しく、またはそうならなければならないと叫ばれている。

うーむ。

あなたは、このレトリックを見破られますか?
「男女同権」は差別ですよ。
それは、西欧流の機械的な判断でしかありません。
あるいは、上から目線の体のいい支配の手縄です。
(「同権」とか「平等」とかの裏には恣意的な意図が隠されている場合が多いものです。なぜなら、そんなことを言う前から、それは「同権」であり「平等」であるからです。問題はソコではないのです。)

それを踏まえたうえで、
宇宙的な節理から見ても、
女性が中心にならなければならないのです。
その女性はバックに隠れていてもいいのです。
そのもとで男性が社会を築くのです。
(だから、一見、それは男性社会の様に見えます)

だから、現代の「男性社会」には、致命的な欠陥があります。
それは、

女性を愛し、尊敬し、大切にする

ということの欠如です。
それを「男女同権」などという美辞麗句で糊塗してごまかしてはいけません。

現代社会とは、中心に存在すべき女神を迫害し、外に追いやり、代わりに悪魔がその座に居座り、やれ拝め、お布施をよこせ、とやりたい放題の社会なんですよ。
これが、今までの現実です。
その本当の核心部のすり替えを見抜いて下さい。

あなたが何某会社の社長だったとしましょう。
そこに、事務や、秘書や、”お茶くみ”と言われる女性がいたとします。
であれば、即刻いまからでも彼女たちのポジションを最も高いものに格上げしてください。
そうすれば、あなたの会社は急成長することを保証します。
なぜなら、それは宇宙秩序にのっとることだからです。

あなたもお気づきでしょう。
古代の我が国の女性中心社会の優越性、先進性を。
そこに初めて平和な発展的な社会が築かれるのです。

そして知ろう。
この地球ガイアも、偉大な「女性・女神」であることを。





いいなと思ったら応援しよう!

Monikodo
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。