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【第三回】酔客は家路のことを考えてはならない。
「家」という言葉は、いっさいの生活条件、すなわち家屋の物的環境全部を包含すべきである。
なぜなら、誰でも知っているように、家を選定するには、家の内部がどうかということよりも、家のなかから見た眺めがどうかということの方が大切だからである。
家が田舎にあるということと、周囲の景観が大切なのである。
⧪
風光きわめて美しい山中に建っている家があるが、そういう場合は、一片の土地を自分の所有地として塀でかこんだりする要はすこしもない。
家を出て歩をはこぶところ、山に対してうずくまる白雲や、空飛ぶ鳥、飛瀑、鳥音の自然のシンフォニー、見わたすかぎりの全景観は、いっさい自分のものだからである。
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彼こそは富者である。
都会のどんな百万長者にもまさる富者である。
都会人にも空飛ぶ雲は見えるであろう。しかし、彼らが実際雲を眺めることはめったにない。たまに眺めたとしても、雲は青山の輪郭と対照をなしていない。
それでは観雲の醍醐味はどこにあるのであろう。
背景が全然なっていないではないか。
⧪
それゆえに、中国人の家と庭との考え方は、嵌め框のまんなかにある宝石のように、家そのものは周囲の田園の一部であって、それに調和する一要素にすぎないという根本観念によってきまるのである。
・・・中国人が理想とする家屋は、ある作者がつぎの文章で十分に表現している。
門内に歩道がある。
歩道は曲がっていなければならない。
歩道の曲がり角には戸外用の庭牆(※庭の囲いのかきね)がある。
庭牆は小さくなければいけない。
庭牆の背景には台地がある。
台地は平らでなければならない。
台地の両側の小高いところには花がある。
花は生き生きしていなければならない。
花のむこうに壁がある。
壁は低くなければならない。
壁にそうて一本の松がある。
松は老松でなければならない。
松の根もとにいくつかの岩がある。
岩には奇峭(※鋭くそびえ立っている様)の趣がなければならない。
岩の向こうには亭がある。
亭は簡素でなければならない。
亭の背後に竹がある。
竹は浅くまばらでなければならない。
竹の尽きるところに家がある。
家は幽静でなければならない。
家のそばに道がある。
道は岐れていなければならない。
いくすじかの道の合するところに橋がある。
橋は客人を渡す魅力がなければならない。
橋のたもとに木立がある。
木立は高くなければならない。
樹蔭には草がある。
草は緑でなければならない。
草地の上のほうに堀がある。
堀は狭くなければならない。
堀の源には泉がある。
泉はこんこんと湧きだしていなければならない。
泉の上に山がある。
山には深山の趣がなければならない。
山のふもとに書院がある。
書院は角室でなければならない。
書院の角に菜園がある。
菜園はひろくなければならない。
菜園には一羽のこうのとりがいる。
こうのとりは舞うように動いていなければならない。
こうのとりが来客を告げる。
客は野卑であってはならない。
客が着くと酒が出る。
酒は決して拒んではならない。
盃を重ねるうちに酔いがまわる。
酔客は家路のことを考えてはならない。
林語堂著『人生をいかに生きるか(下)』第九章「生活の楽しみ」所収、「九、家と屋内調度について」より抜粋。
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あとがき
このシリーズの出典は、林語堂が42歳のときにNYで上梓した『The Importance of Living』(1937)の日本語訳です。
私がこの著と出合った半世紀近く前からして、同著はすでに「古典」であったし、林語堂という名すらアカデミーから忘れ去られつつあったわけで、今ほとんどの方がご存じなくて当然です。
しかし、
「コスモポリタン的生活の理想は、英国風の別荘に住み、米国式の鉛管設備があり、中国料理を食べ、日本人の妻を持ち、フランス人の愛人を持つことである」
との言は、どこかで聞いたことがあるかもしれません。
お読みになればお分かりかと思いますが、この徹頭徹尾「自由精神」を愛した”先生”は、むしろ欧米で大歓迎されました。
とりわけ、フランス人好みの「エスプリ」と被るところもあります。
同氏は西欧の大学で学び、北京大学の教授、厦門大学文学院院長などを歴任していることから、いかにもお堅い理詰めの学者然とした「人物像」が浮かびますが、氏はむしろそうしたアカデミズムに縛られることに真っ向から立ち向かった人です。
「私は、文学やきれいないなか娘や地質学や原子や音楽や電子や電気カミソリやあらゆる種類の科学的な仕掛けに関心がある」
林語堂は(西欧式の)理屈を嫌いました。
彼は、それに代わって「情理」という彼一流の造語?を唱えたんです。
情けを汲んだ論理とでもいうべきか。
そんな彼の「哲学」を「隠遁哲学」や「有閑哲学」と一緒にしてはならない、と思うのです。
私自身、これほど長きにわたって林語堂に惹かれるのは、それが類例がないからにほかなりません。
ここでご紹介しているのは、「生活の哲学」です。
哲学者でなくても、ひとはなにがしか崇高なことを考えようと視線を遠くにやるものです。
しかし彼は実にその視線を下に向けている点注意してみてください。
実にアグレッシブな「挑戦」とも取れます。
それは、幸せは、身近になところ
自分か、
あるいは、自分中心にせいぜい半径50メートルほどもないところにあるという「発見」です。
なお、この著にさらなる魅力を与えているのは、訳者の坂本勝氏。
兵庫県知事も経験された同氏の東洋哲学への見識の深さがなければこの翻訳は不可能ですね。文語的表現が格調高い。
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