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瞑想か、はたまた迷走か? 意識について

眼鏡をかけていることを忘れ、その眼鏡を探す。
いわゆる「眼鏡のかけ忘れ」は、僕たちの生活ではしばしば見かけられることですね。
身近なものごとほど、かえって見えないものです。
それでいて(かけ忘れたまま)、人は遠くの物事ばかりに気を取られるものです。

最も身近な「目・鼻・口」にしても、
見たり
嗅いだり
食べたり
おしゃべりしたり
はするものの、
普段、それを気にする人はいません。
同様に、僕たちにもっともっと身近で、ほとんどぴったりとくっついて離れないものがあります。

それが「意識」です。
それこそ、ほかの誰でもない
あなた自身の無限の宝庫です。

それについて書いてみました。
例によって少し長いですが、時間のある時にでも静かな場所でお読みください。



あなたの正体は意識である

君いま何考えてる?

──なんだい、だしぬけに・・。
てったって、そのー、いろいろだよ。(セブンに行って、ラザニア買って食おうかなとか、仕事でやり残してるアレどーすっかなーとか、ベランダで煙草やるには寒くなってきたなーとか、そろそろ床屋に行かなくっちゃなーとか、、)

それって、自分で考えてる?

──そりゃ、自分で考えてるさ、自分のことだからね。

そうだよね。
ただ、それは正しくは「考える」ということとは違うね。
むしろ「反応してる」といったほうが近いね。
それは、君の中での意識の流れに過ぎない。
意識は茫洋としているようでデリケートだし、
デーンと不動の存在のように見えて、その末端はいつもせわしなく神経を張り巡らせており、片時も休むことがない。

──んん、いわれりゃそうかもだけど、でもみんなだいたいそんなもんだろ?

そんなもんだし、それは”自然現象”だからそうあってしかるべきだろう。
ただね、悲しいことに、その意識の渦をぐるぐると迷走してばかりで、人はなかなかそれを脱出できない。

──なんかそれ、「永劫回帰えいごうかいき」みたいな状態だね。

言ってみりゃそんなもんだ。
一生ぐるぐる回ってる人なんてのも多いよ。
いつも外界に「反応して」ばかりで、それで終わっちゃう。
そういう人には一様にある特徴があるんだ。

一つには「夢」を持てない。
二つ目には「考える」ことをしない、できない。
三つ目には「自分」を愛せない。

──ただ、行き当たりばったり、無目的に生きている?
さながらミジンコやプランクトンやプラナリアみたいに?
痛いお話じゃないか・・・。

君は仮にそんな人間がいるとして、それはずいぶんと下等で下賤な人間に限ったもんだろうと想像するだろうけど、いやいやどーして、上等な、教養も知性もある人間にも少なからずいるってーことが驚きなんだ。

──ほう。

意識の大海=無目的であればただそこをたゆたう。目的を持てばそれは創造する。

それもこれも、「思い込み」というか「刷り込み」「洗脳」のせいで、この意識というものが、まさか自分の正体で、自分を、自分のあらゆる人生を創造している本体であるってことを忘れさせられちゃったからなんだ。
宗教的に言えば、神と自分との分離、
哲学的に言えば、二元論ってことさ。

これが現代病の正体だよ。


「貧困」という幻想ではなく「他者比較」から脱出すべきだ

たとえば、貧困から脱出しようとしている人は、
なかなかそのサイクルから抜け出すことはできない。
なんていうのかなぁ~
自分で余計に自分の首を絞めているっていうか、
「あーおれは貧乏なんだ、どうしようもなく最低の人間なんだ、何をやってもダメな駄目人間なんだ、救いようのない阿呆だ」みたいなことばかり言っている。
YouTubeなんかで、それを「売り」にしている青年なんかもいるくらいで、なんとも痛々しい限りだよ。

君も承知のように、そんなことを言えばいうほど、どんどん泥沼の深みにはまっていく。意識は、そんな逆アファメーションをされた日には、せっせとそれに従わざるを得ないってわけさ。

意識には善も悪も、美も醜も、何の個性も主張もないからね。

加えて、大概はその人物は「社会が悪いから」とか「時代がそうさせている」とか、自分の問題を他者に転嫁している場合が多いもんだね。
それはその通りかもしれないし、言うまでもないことかもしれないが、そんなことは意識とは全く無関係だからね。
彼はただ、ご主人のいうことだけに粛々と従う。

それは、幼少期の駄々をこねるような甘えと同じで、まだ自分軸というものが確立されていない。ただ意識の海のなかをフワフワ泳いでいるだけさ。

第一、自らを貧困というが、「貧困」という概念は、他者比較から当然生まれる幻想だし、そんなことを言い始めれば、地上のほとんどの人間が「貧困」ということになる。
つまり、他人と比較ばかりしている人間を「貧乏人」というんだ。金持ちでもね。
その比較の対象物は、自分ではなく自分の衣装にくたいでしかないんだからね。
貧困を貧困と思わず、いや思ってもいいが、そこに「他者比較」がなければ貧困という思いは無くなる。

自分は今こうなんだ、と胸を張るべきだ。
そして、肝心なことは、絶対に「貧困から脱出しよう」と思わない事。
言うまでもなく、脱出すべきは「他者比較」そのものだからだ。

「引き寄せの法則」で何を目指すのか?

意識という”茫洋としていて、しかしながらデリケートでセンシティブなもの”は、創造の源泉でもある。
それは、君の言うことには何でも敏感に反応するし、その通りのものを創ろうとすぐさま働きかける。
君が「〇〇したい」と思うと、意識はそれを受け、その目的に応じた環境や条件を用意し始める。
それは多分に現世利益的な要素があるから、その錬金術的な側面をピックアップして「引き寄せの法則」などという形で人気を博したもんさ。

──あれって、大概は自分に富を引き寄せようという魂胆こんたんだろ?

魂胆って言うか、それはむしろ科学だよ。善にも悪にも利用出来る。別にお金持ちになることは悪でも何でもないし、幸福なことでもない。単にそうなる、ってことだよ。

使わない限りはそれは紙切れ、ゴミ。

──僕も昔、やってみたことがあるけどさ、途中で「お金持ち」やら「湯水のように金銀が湧き出る」っていう願いがいつの間にかしぼんでしまって、どーでもいいかなって・・もちろん自分が無欲ってわけじゃないし、むしろ物欲の権化を自称してるのに、なんか意志が弱いっていうか・・・。

そりゃそうさ、それは君が「お金持ちになる」のが目的じゃないからだよ。
それに物欲ってのは当たり前のことで、何にも問題ない。そこに独占欲っていうか所有欲っていうかそうした二元性のエゴを”引き寄せて”しまうことが悪いだけだよ。
言わずもがなだろ?
君が金持ちになったなら、それをみんなにばら撒けばいいじゃないか?

お金持ちなんてざらにいるし、それで幸せだっていう人はほんの一握りさ。
極端なお金持ちってのは、自分で手持ちのお金を使えなかったりするんだ。
てゆーか、君の目的はあまりに漠然とし過ぎて、君がどーしていいかわからなくなるように、意識もどうしたいのかの指令がないから分からないのさ。君がどのようなお金持ちになって、どのようなことをしたいのか? それが「目的」というか「意志」っていうもんだ。
意識の舵取り役だな。
それは完全に明確で、具体的でなくてはならない。

そして、ケッコー忘れがちなことだけど、よく言うようにおカネそのものには何の価値もないよ。それは単なる”兌換券だかんけん”(紙切れ)だからさ。
その無価値なものをみんなこぞって求め、幾千万、幾億ってため込もうとする。
でもそれはゴミだよ。
おカネは通帳の残高じゃないよ。
貯めこんだり積み上げたりが目的ではなく、使うこと、何に使うかが目的なんだ。

──単純な思いだけでは駄目ってことかい?

到達点はみんな一緒、「幸福」である

グーグルマップで、出発点と行き先を決めるだろう?
いま君がいるのが「出発点」
それはいいよね。
ただ、君の行き先(目的地)は「お金持ち」じゃあないんだ。
それは「経由地点」であって「到達地点」じゃないってこと。
断言するけれど、実は君だけじゃなくってみんなの到達地点てのはもう決まってるんだよ。

──え? みんな一緒なんかい?

そう、それは「幸福」ってやつだ。
異論はあるかい?
つまり、人間はどこをどーあがいても、いやでも応でも、幸福にならざるを得ないってことさ。

──いや、そ、そうじゃないけどなんか十把一絡げじっぱひとからげってゆーか、その・・・。

あ、そのことか? それは問題ないよ。幸福ってのはその人の判断力で千差万別だからね。

──ってことは、まとめると、人は誰でも「幸福」という目的地ってゆーか、到達点がある。ただし、それは個々の判断力によって千差万別だ。しかし、僕らはそれを目標として、意識に働きかけるべきだ。「おカネ」にせよ「物質」にせよ、それ(幸福の条件)を満たすにはほとんど意味をなさない。なぜなら、それは目標・目的そのものではなくって単なる道具にすぎないからだ。ただ、その人の目標に「おカネ」なりが必要とあればそれを願うがいい。そのためにこそ、自分の「幸福」とは何なのかを明確にしなくてはならない。そーいう事だろ?

うまいね。そうだと思うよ。
ただね、その幸福という「目標」は、その人の「夢」であり、「希望」であり、「理想」でなくてはならない。
決して、その辺の「少しでもいい職場」を選ぶような打算、妥協であってはならない。
なぜ断言するのかって言うと、そんなもんが「最終目標」であるはずもないからだよ。

「夢を持つ」ってことは、そういう事さ。
それは極めて科学的なことなんだ。
人間の夢・理想というものはエモーショナルなもんだからね。
それは最大の、最終の、そして嘘偽りのないその人の意志であって、目標でもあるからなんだ。
なぜって、「幸福」ってのは、「ソース」そのもののこの世的な表現だし、「夢」というものは、それへの憧憬で、「目的」や「意志」はそこに至ろうとする凄まじい磁力のようなもんだからさ。

「思う」ことはしても「考える」ことをしない

いやあ、ずいぶんと脱線しちゃったね。
意識のほんの一局面についてだったんだけれどね。
だいたい、すべてがそこに在るものについて、どんなに語ったって語りつくせるものじゃないさ。

ところで、最初に触れた問題に移ろう。
それは「考える」ってことについてだったね。
それは、意識を多次元的に捉える行為だよ。
表現が難しいけど、意識ってのは自分のことだから、その自分を超次元に開放するっていうか、何事かに囚われていた世界に風穴を開けて、新天地を切り開くっていうか・・。

──ははぁ、なるほどさっき君が言っていた「意識の海をひたすらぐるぐる迷走してばかり」っていうのは、それ(考えること)をしていない様を言うんだね。

過敏に「反応」する人、「感じやすい」人って、それが極端になるといわゆるエンパス体質とか、イタコやユタ的な体質になったりするけど、そういう人たちは本人自身は概して幸せとは言えないことが多いもんさ。

「考える人」ってのは、意識の海を迷走したり、そこに埋没したりしないよ。(三次元的な方便でいえば)垂直に登っていくんだ。

すべての外界に対する「反応」、つまり感覚や感情の起伏というものは、彼にとっては(考える)材料であって、動機に過ぎない。
だからそういう人は滅多に怒ったり笑ったりしない。
例えば、何か嫌なことや困難なことがあったとする。
それを「ああイヤだ」「ああどうしよう」ではなくて、
「なぜ、そのようなことになったんだろう?」と考える。

ところで、みんな「考える」ってあたかも自分が主体という風に捉えているけれど、実は「考えさせられている」っていうことも多いんだ。
ある地平線を超えると、そのように「考える」という行為は”逆転”するんだよ。

──考えさせられているっていう”考え方”は初耳だね。

大きな存在に「考えさせられる」

「考えることが何なのかを考えたことがなかった」と、晩年にその悔恨じみた言葉を漏らしたゲーテだけど、その同じ人物は「人は何を考えているかによって、その器が決まる」とも言っていた。
これは、えりを正して噛みしめるべき言葉だよ。

「考える」という行為は、一個の小さな人間から始まる。
彼は何ごとかを考える。
多くは彼にとっての疑問や、困難な問題に遭遇した場合にそれは始まるね。
苦節何年だか知らないけど、そこにようやく結論が見つかる。
その問題が解ける。
開放される。

するってーと、彼はその問題をもう考えないね。
過去に立ちはだかっていた問題が、すでに問題ではなくなってるからさ。
ところが、面白いことに、その先にまた新たな問題が出てくる。
ここで、彼のいる立ち位置というか、フェーズが一段アップする。
またしても、彼は考える。
考え抜く。
てなことを続けていくうちに、かれの周囲には人影もまばらで、それまであれほど繁茂してきた木々も低木と化し、次第にそれも姿を見せなくなっていることに気付く。
彼は自分が高山に立っていることに気づく。

頂上までが「考える」道のりだった。さて、その先は?

はてさて、どーすっぺ?
下を眺めやると数えきれない群衆が、ああでもないこうでもないとかまびすしくやってるのが見える。
〇〇主義や、〇〇教や、〇〇思想や、○○学や、、まあ満艦飾の光景。しかも、それを右から左、左から右と、さながら工場の流れ作業のように、ただ受け渡し専門のようにひねもす営々とやってる人が多いんだ。挙句はそれを生業なりわいにしてるものまでいる。彼らは無味乾燥なルーティンを繰り返しつつ、自身がそんな先生にでもなったかのように勘違いしているんだよ。

下はもういい、わかった。
多くは「思う」ことはするが「考える」ことを知らない。
「迷走」はするが、「瞑想」はできない。
で、ようやく上をあおいでも、もうそこにはあおい空しかない。
どーすっぺ?

そこに「瞑想」が始まる

と、そこに異変が起こる。
彼が今まで立っていた足が、もう意味をなさない、無用なものと悟ったとき、彼は「考える」ことをやめ、「(何ものかに)考えさせられる」存在になっているではないか?
それは、「考える」行為からの解放、すでに「瞑想する」というフェーズに突入しているわけ。
「絶対自力」から「絶対他力」とも言い換えられるかな。
そこにあるのは、彼の「考え」を突き抜けて、もっと大きな意識体からのそれに変容している。
もはや、何にも考えない。
すっかり預けちゃう境地っていうのか、それは楽な世界さ。

──そりゃ、説話的で面白いストーリーだけど、外界ばかり気になってあたふたと心が動揺してばかりの僕たちには難しいなぁ。

みんなそこが出発点だからね。
「悪夢のようにただ平面をぐるぐると迷走してばかりの自分」
というものに気づくということは、素晴らしいことだ。

その渦中にいるものは気づかないし、気づけないんだからね。

この辺の事情は、特に東洋では昔から多くの「作品」となって残っているんだ。
たとえば、『十牛図』とか、中島敦の『名人伝』なんかそうだね。

『十牛図』その8;牛も人も共に忘れる
=「十牛図/禅の悟を牛にたとえて」より

あまりにその肉体こそを「自分」だと思い込んでしまうとね、
そこに「自分は肉体だ」という意志が働く。
するってーとね、「意識」はご主人の命令に素直に働くから、その人物は肉体のみの”存在”、または肉体に閉じ込められた”存在”というものに化してしまう。「呪縛」ってやつだな。自分で自分に魔法をかけている。

人の考えには苦労が多い

イエスは「明日のことを思い煩うことなかれ」って言った。
この「思い煩う」世界って何だろう?

──そりゃ、「煩悩ぼんのう」ってやつだろう?
おや、いけね、タバコが一箱を切ってしまった。買い置きがない。明日の分がない。めんどーだけど買いに行くしかない。
みたいな。

つまり、そいつは僕たちの「日常」だよね。
逆に言えば、日常生活は煩悩が支えているとも言える。

「煩悩は宇宙の土台を支える」(林語堂)

煩悩とは、意識があれこれと気をもんだり、心配したり、と忙しなく働く様をいうよね。
これは、今までしゃべってきた「反応する」「思う」世界さ。

でもね、イエスは先の言葉に続けてこうも言ってるね。

「明日のことは明日自身が思い煩うであろう」
「一日の苦労は、その日一日にて足れり」

ここが深いところだね。

108つある「煩悩」を漢字一文字で表記したも
の。どことなくQRコードも「煩悩」を抱えてい
るようにも思えてくる=マチポンブログ様より

生きることって確かに煩わしい一面がある。

やれマスクしろってんで、息苦しいマスクをつける。
禁酒しようと思った矢先に外せない酒席に行かざるを得ない。
確かに孫は可愛いが人ごみの遊園地を連れ歩かなくてはならない。

面倒で、思うようにいかない。
ヤレヤレってなところがあるのも人生だ。

そこに煩悩がふつふつと湧く。
ではその煩悩は果たして悪者なのか?
というと、さにあらずで煩悩がなければ、人ははめ外してどこにすっ飛んで行っちゃうか分からない。
小うるさい姑のような煩悩のせいで、この自分を制御できるってわけだ。

そーした煩わしさから脱却しようとして、人は「考える」。
そこまでが3次元的な人間の道筋なんだけど、いずれそんな世界は苦労が多い。

すべて真逆な幸福の最短コース

──君の言うことはわかったような気もするけど、実際にそうした人間のうだうだを一気に飛び越えて幸せになる最短コースはないものかい?
なぜかというと、「汝思い煩うことなかれ」から脱却して「考える人」になるったって、今の人間大方はそんなことをしないし、できないと思うよ。
まして「瞑想」なんて、スピリチュアル好きの人はともかく、そんな時間があったら金儲けしなくては、という人が大半だし、それが現実だと思う。
さらに「自分の幸福とは何か」なんていう哲学的な問題に取り組むような暇すらない中でみんな生きてるわけで・・。
君の言ってることは「理想論」というか、「狭き門」であって、一般向けじゃないと思う。

そうだよ、その通りさ。
そしてそのことについては少し前にすでに書いたさ。
大きく矛盾しているような話だけど、それはね、僕が今までしゃべってきたことの反対を行く生き方なんだ。
それは、非常に誤解を招きやすいことで、以前書いたものについても理解された方はごくごく一握りだと思う。
それでは難解なことなのか? というと、これが拍子抜けするくらい単純なことなんだ。

「君が今思ったことをすぐやる」

以上、みたいな。
もっと付け足すと

「考えるな」

どう?
スピリチュアル系の方は失笑するだろうし、
”良識人”はとんでもない、と眉をひそめるだろうね。

口をとがらせていろいろ言いたいことは百も承知だけど、実際にそれが「幸福の最短の近道」だと僕は確信してるよ。
これは、言ってみれば”飛び級”みたいなもので、意識の最初の段階の「反応する」時点で、それに応えてしまうということ。
行動しちゃうということ。
君自身の「意識」が反応し、そう教えているんだからその通りにやることに間違いがないではないか?
それこそが自分自身(意識)への絶対の信ということだ。

「思い煩ったり」「考えたり」「瞑想したり」という過程を飛び越してしまう。「目的を持つ」ことすら不要さ。
せっかちな現代人向きだけど、「考える楽しみ」を満足させるわけではないよ。「アレ? いつの間にか幸せになっちゃった」みたいな。
ただ、いま君と話してるのは幸福についてではなく、「意識について」だから、少なくともそうした問題意識を持った方にも納得してもらわなくてはならない。

このことはまたいずれ書いてみるよ。

日常的に瞑想しているような

僕は小さいころから、ぼーっとしていることがよくあってね、ま、普段は目いっぱい飛び回って遊んだり、自分でいうのもなんだけどクラスの人気者的な活発な子だったさ。
だから余計そんな「ボケ―」っとした時間が目立ったんだと思う。親にもよく「あんたは何考えてるんだか分からない」って言われてたもんさ(もっとも、今ではかみさんにいわれるけど💦)。

──そーゆータイプって、女の子に多いよね。よく耳にするよ。

そうだね。
不思議ちゃん的な・・。
そういう子は一定数いるに違いないね。
でね、今になって分かってきたことなんだけど、それってぼーっとしているようでいて、実は瞑想していたんだってことにね。
僕の場合、瞑想ってのは、自分で「ハイ、今からメーソーします!」ってものではなくってね、そうさせられていたというか、むしろ向こうの方からやってきて、トランス状態にするとでもいうのかな。

──おいおい、それは危険なアレじゃないのかい? 何か変なもんが憑依するとか、神懸るとか・・。

向こうからやってくる・・・

ハハハ、そんなもんじゃないよ。僕がいつも言う「何ものも信じない」というスタンスは強いよ。
崇高なものすら信じないってところが肝さ。
僕は、神霊に関しても故あってそんな感じだからね。
いわゆる高級霊とか守護霊とかあったにせよ、僕はそういうものを敬してこそいるものの、関わらない。
そういう主義なんだ。

悪を見極める審神者的な

ていうか、逆に僕は人々の行状なり作品を見て、「ははー、これは○○に毒されてるな」とか、「こいつ(この作品)は自分のものじゃないな」とか、「完全に憑依されてるな」とか、分かってしまうんだ。自分についてもそうだから、冷や汗もんだけどね。
もちろん、稀にだけど「これはすばらしい、美しい世界からのプレゼントだ」って場合もあるさ。
こうしたことも今になって思えば、(神道風に言えば)「審神者さにわ」っていうのかな、それが自然にできちゃう。

──ふーん。それって特殊能力じゃない?

いや、別に特別なもんじゃないと思うよ。ケッコー頻繁に見かけるよ。「虫の知らせ」とか「第六感」とかね。
だれもが自分でそうとは気づかないうちに。

──下駄の鼻緒が切れて、「何か不吉な事態が起きた」とかね。

いい意味でのそいつは特に高名な作曲家に多いね。
思いつくとこで言えば、たとえばモーツァルトとかバッハとか。
哲学者で言えばニーチェの『ツァラトゥストラ』なんかそうだね。
ある境界線を突き抜けちゃってるっていうか、彼らは何ものかに突き動かされているよ、完全に。
それが負の方向に顕著だったのがアドルフ・ヒトラーだね。
善悪抜きに、彼の求心力はすさまじかった。
文字通り、人間離れしていたのさ。

でね、
驚くべきことに、こんな僕みたいな凡人でさえも、時にそうなるんだ。
「なんで自分はこんなことを書いてるんだろう?」
でも、筆は止まらない。
ていうのも、それは自分で書いてないからなんだ。
書かされてるんだ。

もっとも、時々これはあまりよくないなぁなんてこともあるね。
特に闇を暴こうなんていう正義感に燃えた方は注意が必要だよ。
大概そういう方は逆に乗っ取られちゃう
からね。

しつこくなにかを追いかけていて、あるいは誰かを信奉していて、いよいよのところまで行って、それは実は根拠のないことでした、でっち上げの偶像でした、ってことが判明することで、下手をすればその人物の信用どころか、人生まで奪われかねないよ。
そんなの大勢いるじゃないか?

──ふふーん。そいつは怖いや。
自分を過大評価しているってゆーか、奢ってるてゆーか、悪を過小評価してるってゆーか・・。

いかにも、だね。
「悪」はほとんど「善」と変わらない様をしてるからね。
要は、それに立ち向かえるものは、「悪」を知らなければ役不足で、最後は悲惨なものになっちまう。

──おいおい、それじゃー何かい?
僕らも「悪」を行動して、それを分からなくてはならない、って論法かい?

相手がわからなくては、何もできやしないね。
「悪」を知り、それを消滅させるために、この世に僕らは居るって言ってもいいくらいだよ。
これも僕がよく言う喩えだけど、

「名探偵は、犯罪者の心理を熟考・熟知しているものだ。言い替えれば、図抜けた犯罪者になれるものが名探偵の誉れを得ることが出来る」

てなもんさ。
てなもんや三度笠。

(──ハ? ナンデスカ? ソレ)

最後に。

長文お付き合いいただいた奇特な方、まことにありがとうございました。なんか、「お後はよろしいようで」で締められない感じですので付言します。

さて、世の中の真相、果ては宇宙の真相を暴こうとされている硬骨漢こうこつかんが少なからずおられるのには、心底ほっとします。
実際に、この世界を覆いつくしてきた暗幕が少しづつ揚がろうとしているような気配は、(まだまだ特に日本では少数なんでしょうが)いかにのんびりした人でも、うっすらと感じられているのではないでしょうか?

しかし、その世界、宇宙が自分自身の中にもあることもまた事実です。
しかも、自分自身の宇宙というものこそ、今後も永遠におつきあいしていくことになるのであれば、最も身近な自分の内面というものをおろそかには出来ません。
それを自身の手で掘り下げていく方はあまりお見受けしないように感じます。

トリッキーでセンセーショナルな「陰謀ネタ」も結構ですが、当たり前のように見えて、実はラディカルな内面世界の宇宙というものこそ、あるいはすべてを解決する「鍵」となるのではないでしょうか?

そこに「知識」や「情報」はあまり役に立ちません。
僕は、手許に「参考文献」なるものを置かずにこれを書いています。
酷いもので、何を書こうかと思わないで書き進めているものすら結構あります。
自動書記です。
馬鹿丸出しです。
だから誤りや、おかしな表記もあるかもしれません。
幼稚で失笑を買うようなものもあるのは承知の上です。

でも、ここを強調したいのですが、僕は「それでいいのだ」と思うのです。
なぜならば、それが「自分」だからです。
あなたも、「他人の評価」や毀誉褒貶きよほうへんを顧みず、あなたの考え、あなたの見方を尊重してみてください。
あなたご自身の「お考え」は、何も学校に提出する課題のように、体のいいものである必要はないのですから。

あなたのこの宇宙の永遠の旅路の道連れは、あなたご自身しかいません。
あなたがあなたであることほど尊く、また美しいことはないのですから。








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Monikodo
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。