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目覚めるってなんだろう?


W

よく「目覚める」という言葉を耳にします。
このところ、ますます頻繁にその言葉を耳にすることが多い気がします。

そう言う自分もご多分に漏れずその言葉をよく使うんですが、まあ、何らかの状態から目をさました感覚になっているから、そういう気分になってんだろう・・・そう思うし、そう思われていいと思います。

ただ確実に言えるのは、それはその人の個人的な真実なのだから、もう止めようがないものだということです(止める必要もないけど)。

さて、一概に「目覚め」とは言いますが、僕はそれに大きく2種類あるような気がします。

  1. 外部的な(外に向けた)目覚め

  2. 内部的な(内に向けた)目覚め

「どちらも同じものだよ」というすでに悟った方もおられるでしょうが、その両者はおそらく天国と地獄ほどに違います(同じものの両極面です)。

なぜなら、

1はこれまで隠されていたものが暴かれるといいますか、表面化ブレイキングされ、情報開示ディスクローズを伴うものです。隠すということ自体から察せられるように、おおむねそれは悪事か、悪にとって不都合な真実です(稀にその逆もあります)。この中には、ここでとても表記できないような常軌を逸した犯罪も含まれるため、そこにあるのは平常を装った裏での地獄絵の暴露か、だまし絵トロンプルイユの種明かしです。

2は自分と対峙することです。もちろん、嫌な面、愚かな面、後悔の念などが湧いてきますが、それを他人事のように見やることです。すると、次第に自分というものは万物万象とつながって存在している(存在とはつながりがなければ有り得ない)ばかりか、自分こそが世界の中心で、自分こそが信じるに足りる唯一の存在であることが見えてきます。

面白いもんで、それを「悟り」とかなんとか言うのかもしれませんが、2の深化は、どんどん果てしない光の世界へと僕らをいざないます。と同時に、これまで見えなかった外部世界の闇が見え始めます。もちろん、それが1の内容です。

その様にして、僕たちは目覚めていくものだから、さっぱりカオスのような感じなわけです。

2の内面世界のお話は個人のバイアスを通したものですから、個々に違います。ですので、ここでは1の外部世界を中心に書いてみます。

アンドレイ・タルコフスキー『ノスタルジア』(1983)より


A

ここに来て、それまでは日の当たらなかった分野の「都市伝説」や「心霊」「オカルト」などが、若い人たちを中心に、一大ブームになっていると言ってもよいでしょう。
僕が”目覚めた?”40年も昔には、フリーメーソンも、HAARPも、ご存じの方は少ない上に、一般にはそんな会話をできるような場さえなかったもんです。インターネットやSNSなどの拡散力もあってか、いまや水面下にあったものがどんどん浮上してきています。
ずいぶんと変わってきました。

僕はこの現象は確実に「目覚め」の兆候だと思うのです。
特に注意したいのは、若い人たちの関心は、文学作品などのフィクションではなく、未知の世界を覗いたり、既知のものに対しても「はたしてそれは本当のことなのか?」という疑念を持ち始めたということです。

もっとも、ここまで閉塞的な社会の中で、誰の眼にも明らかな欺瞞や茶番を日々見せつけられたならば、単にその対象者をどーの言う以前に、何かもっと奥深いところからおかしいんではないか? と考えて当然ですね。
「そっちが知りたいんだ。でなければ満足できない」

早計に思われるかもしれませんが、これは、「アセンション」の前段階というか、準備段階のような気がします。アセンションという英語表記は馴染めないものですが、僕はそれは「光になる(戻る)こと」が究極の段階に思えます。

どうでしょう。
いずれの「目覚め」も、そこに光が差してきていることの現れのように見えませんでしょうか?

ただ、なんとなく「目覚める」ということはあり得ません。
そこには占星術でいうところの「みずがめ座の時代」という大きな力、さらに歳差運動をけん引している銀河のセントラルサンの多次元的な力、それらを創ったソースの意志? のお計らいなんでしょうね(笑・・・なんとも誇大妄想な? でも、別に大きいことと極微のことはフツーに繋がってますからね)

ちなみに「目覚め」と似た言葉に「気づき」というものがありますが、気づきは、個々の事象に対するそれであるのに対して、目覚めは、世界そのものを対象にしているように思えます。


K

では、その”目覚めた”世界はどうなのでしょうか?
居心地は?
以前(の世界)と比べてそこは住みやすいのでしょうか?
と聞かれれば、

おそらくは、「僕らは騙され続けてきたんだ」「そいつは悪夢さ」「ひどいもんだ」「うんざりさ」とかのあまり芳しくない言葉が口をいて出てくることでしょう。
というより、(本人自身があまりにも呆れすぎているものですから)話したがらないものです。

もちろん、そんな世界のおはなしを聞かされた側は、嫌~な気分になります。
「可哀そうに」と同情してくれたり、「ちょっとおかしいんじゃない?」と精神状態を疑ったり、「そういう世界はあなたがこしらえた妄想でしかない」「なんでもっと素直な考え方ができないの?」とか、たしなめたりもするかも知れません。「この世は悪いことばっかりじゃない。いいことだって山ほどあるんだから良いことに目を向けなきゃ」と勇気づけてくれたりもするかも知れません。

でも、彼はこういうでしょう。

可哀そかろうが、おかしかろうが、妄想だろうが構わない。
ただ、僕は感じたことに正直でいたい。
いいものはいいし、嫌なものは嫌だ。
そこに哲学も倫理も当然スピも要らない。
理屈はいらない。
現実に、どーしようもなくおかしな世界に目覚めてしまったのだから。

そして、こう付け加えることでしょう。
(いや、ここが一番の肝です。)

「悪夢を見てるんじゃない。そのどーしようもない世界とは、今君とこうして一緒に立っていて、一緒に生活している同じ地上なんだけど・・・」と。

これが目覚めの第一段階(外部的な目覚め)。


E

はなしを補足しつつ整理しましょう。

  1. 世界(この惑星地球)に、私たちを含む人類が住んでいるという当たり前の背景

  2. そこで人類はある一定期間というもの、眠りについていたか、眠らせられていた

  3. ところが、その惑星に「目覚めた」人たちが表れ始め、ここに来てその数は幾何級数的に増加している

  4. その人たちの「目覚め」は、個々にいろいろなレイヤーがあるけれど、共通項はただ一つ。「我々人類は長年騙され続けてきた。眠りにつかされてきた。しかもそれを(騙した側は)巧妙に隠し続けてきた」

ここまでのお噺だと、こんなところでしょうか?
SF映画じゃないですよ。

もちろん、ここで大事なのは4の目覚めの内容になるわけで、「騙され続けてきた」という主張には、「眠らせることによって」という手段(方法論)と、「隠し続けてきた」という手口が明らかになっているんですね。

ここで、浮かび上がってくるものが「人類を眠らせ、騙し通してきたもの」の存在です。めんどくさいので結論から言いますと、その存在は、簡単に言えば「悪い異星人」です(世界の構造ピラミッドの冠石かむりいし=頂点=に当たる部分です)。

  1. この天の川銀河のはずれの「地球」に

  2. 寄生し

  3. 人類を支配し

  4. 自分らの存在をさとられないように、入念な手配をしてまでして彼らが得ようとしたものは何だったのか?(きんじゃないですよ。アヌンナキ神話は眉唾です)

  5. また、そのようにして今日まで来たものの

  6. なぜに、今になってその化けの皮ががれることになってきたのだろうか?

その文脈の一節一節が、すべてミステリーで構成されているという超弩級スケールの前代未聞のサスペンス劇とも言えそうです。

でも、これは特段に新奇な見方でもないですね。
我が国では、特に大本系の神示(『霊界物語』や『日月神示』、最近では神人氏の神示もそうでしょう)にも顕れています。

そういう見方を「陰謀論」と言って鼻の先で笑うものがいます。
病理学者や社会学者、深層心理学者は、こぞってなんやかんやとそれをあたかも解明したふりをする。
眠っている人はどーいうわけか「権威」を頭から信じるものです。

「こんなことを言っちゃアレだけど、そういう風に笑われるようにその「陰謀」は仕組まれてるんだ、、、」とホントのことをいくら言おうと、それは水掛け論のようで、「こりゃ、よっぽど念の入った(堂に入った)陰謀論だ」と寒心されながら言葉を返されるものです。
「やれやれ、こいつは重症だ。哀れにもそのような思想にはまってしまって」


U

そもそも眠っていたから「目覚め」があるのであって、はじめから目が覚めていれば「目覚め」なんてないわけです。

つまり、「目覚めた人」は以前は眠っていたわけで、過去の眠っていた世界について知っている。

一方、「眠っている人」は、そんなことは寝耳に水で、ぽつぽつと目覚めた人が現れてくると、なにか精神疾患の症候群かしら? とさえ思ってしまう。 

お互いにお互いを理解できない。
どちらから見ても「不可思議」でしかない。

アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』(1979)より

その「どーしようもない世界」は、文字通りどーしようもなくおかしな世界みたいだ。
では、その「おかしい」という、ぞっとするような違和感はどこからくるんだろう?

それは、「真っ当な世界」と比べているからじゃないか?
たとえ垣間見にしても、「真っ当な世界」が見えてなきゃ、それはいつまで経っても「あるがままの世界」で、「当たり前の世界」で済む話。
それが見えてきたか、その世界に足を掛けた。

そのおかしな世界は、
悪が公衆の面前を笑顔で素通りする世界。
おかしなことが普通の世界で、
それらを誰もおかしいと思わないみたいな世界だ。

インチキ三昧で当選したインチキ大統領のインチキが普通にまかり通り、その者の政策がどうしたこうしたをマスコミが堂々と論じたりすること自体、インチキを是とするうえでのことなのに、、、それにまた真っ向から対応する茶番。

その国賓を敬い過ぎてうっかり「大統領」呼ばわりするものと、恥も外聞もなく会談しに行くどこかの国の首相。

政党政治はともかく、医療、大学なども商品としての売り込み攻勢をかけても、ごもっともな世界。
いまにも「人数限定、初回無料。今なら、○○もついてくる!」というキャッチまで飛び出しそうな勢い。
まるで、高級ブランドを手に入れるように、わが子にそんな道を進ませる親御さんたち。

世界各地で連発する「山火事」。
「異常気象」による被害は、まるで線引きしたように、きれいに白黒分けるような燃え方をする。
向こうのクルマは焼け焦げ、こちらのクルマはきれいな状態。
カルフォルニアでも、ハワイ・マウイでも、それは知られざる大自然のもう一つの猛威を見る思いだ。

そこにかねてから計画されていた「スマートシティ」という夢の都市計画。
「それは便利」と、はやし立てる声。
国内でもすでに多数の自治体にその青写真が・・・。

異常なことばかり起きていることだけが「おかしい」のではなく、
それを「おかしい」と見る目を持った人たちがあまりにも少ないことの現実が「どーしよーもない世界」の内訳です。

アンドレイ・タルコフスキー『サクリファイス』(1986)より


P

「911」で、目覚めたという方は多い。
「311」で、目覚めたどころか、それを機に地方や海外に”誘導された”方々もいるほど。
この度のプランデミックを引き金に、「さすがに目覚めたよ」なんていう方も増えたようです。

目覚めは、あくまでもきっかけであって、終着点ではありません。

大病を患って、そこで「目覚めた」
極端なケースでは臨死体験をして、そこで(文字通り)「目覚めた」
自殺寸前まで行って、そこに何らかの思いとどまる出来事によって「目覚めた」
ジモティー創業者の様にCEO職という”頂点”まで上り詰めた方が、競争社会をリタイア、剃髪までして仏の道に「目覚めた」

そんな人たちが少なからずいます。

こういう言い方をするとアレですが、「悪」というものが仕掛ければ仕掛けるほど、一方で目をさます人が増えてきています。

なぜでしょうか?

僕の場合は、あまりにも長い期間そうだったから、正直現実社会というものとの軋轢あつれきに持ちこたえられず、酒に逃げたり、仕事をすることで実は逃避してきたりしたものです。

眠っていたかった。

アンドレイ・タルコフスキー『鏡』(1975)より



寝てみる夢、覚めてみる夢
稲垣足穂のいう「地上とは思い出ならずや」かもですね。

いまだに精神世界(スピリチュアル)というものが、何か特別なもの、とか偏った(異端的な)ものの見方、または思想だと思われている方は多いものです。

これもやっぱり、「眠っている」VS「目覚めている」の軋轢が生み出した勘違いだと思うのです。

その「目覚め」が本物であれば、精神も物質もありません。

生まれてこのかた物質主義の教育で育ったものに「精神」だのなんだのは、その間に分厚い壁があり、断絶があるように思います。
加えて、一部「目覚めた派?」のスッポヌケもあります(ぶっちゃけ言いますと、いわゆるカバールはそこを仕掛けてきます)。
ド~見てもおかしな「新事実」に心酔し、既成のものが何もかも間違っているとする考え方はただして、フラットな目線で臨むべきです。

物質|精神
ではなくて、
物質―精神
もしくは、
物質=精神

最初は「断絶」的な捉え方
二番目は、物質から精神へつながっているというとらえ方
三番目は、もっと進めて物質と精神は一つのものだというとらえ方

一番目は「二元論」で
二番、三番目は「一元論」です。

めんどくさい話ですが、
「この世は物質だ」でも、
「この世は精神(心)だ」でもいいでしょう。
本来の意味での唯心論、唯物論はおんなじもんですから。
どちらも同じことを言っているんです。

ただ、まずいのは「精神(物質)はないものだ」という嘘を信じ込んでいることです。

同じものです。



どうでしょう。
幕が少しづつ上がっているいるような気はしませんか?
一気に幕が上がったら天と地が逆立ちしちゃいます。

はじめはカーペットの端をめくるように
そっと、静かに、ゆっくりとそれは始まります。
もう、20年も、それ以上前にそれは始まっていました。
だから、目覚めてそこに立ち往生しているような人たちが増えてきたんです。
でもね、
終盤は加速します。
目覚めてないものは置いてけ堀を喰います。

現実というもの。
あまりにもリアルな実感を伴う物質的な現実というもの。

それがいかに夢幻の世界の出来事であるのか、またはあったのかを実感することは、実はあまり面倒なことではないのです。

だれでも、夜ベッドに就きます。
眠りに落ちる前に、もしかして今日一日の出来事を反芻はんすうしているかもしれません。
あるいは、数年前、もっと昔の小っちゃいころの思い出に浸るかもしれません。

それはもうすっかり「夢」ではないですか?

でもそれは、その時は痛いほどの現実だったりします。

お城の欄干らんかんにうっかり手を置いて、そこにいたハチに刺されたこと
友だちの家に遊びに行き、近所にいた野犬に追いかけまくられたこと

脈絡なく変な思い出が湧いてきたりします。

でもそんな遠くむかしのことが
いや昨日のことでさえ
どこか遠くの夢の中での出来事のように思えて来たり・・・。

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Monikodo
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。