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『ナボコフ全短篇』を読む日記2022.02.10(18/68篇)
「バッハマン」「クリスマス」(ともに1924年)を読む。
「バッハマン」は、ナボコフが創造したピアニスト兼作曲家・バッハマンと、その愛人マダム・ペローフとの物語を、興行師のザックが「わたし」に語るという話だ。
絵画的な描写の説明もそうだが、ナボコフは音楽の説明もうまい。
バッハマンは比類なき手腕を持って対位法の声を呼び出して分解し、不協和音にみごとなハーモニーの印象を与え、さらに彼の『三重のフーガ』では、優美さと熱情を込めて主題を追いながら、あたかも猫がネズミを追いまわすようにして、もてあそんだ――主題を解き放つかと見せかけながら、つぎには突然、一瞬の狡猾な歓喜のうちに鍵盤に覆いかぶさり、勝ち誇ったかのようにしてその主題に襲いかかるのである。(「バッハマン」加藤光也 訳)
このほかにもフーガに関する文章があったような気がして探したのだけれど見つからなかった。それは別の小説のものだった。
まるでこうした一つづきの天気が一年の遁走曲(フーガ)の終りの迫奏(ストレット)であるかのように結合している――思いがけぬ天気、定見のない恋愛、予知されなかった関わりあい。遁走曲の中で迂闊に過ごされかねない月なのだ。奇妙なことに、あとになってしまうと、二月、三月の風やら雨やら情熱やらというものは、この都市では思い出されることがなく、まるでそんなものは存在しなかったかのように感じられるのだ。(トマス・ピンチョン/志村正雄 訳「エントロピー」『スロー・ラーナー』・筑摩書房・2008年)
短篇ですらごちゃまぜにしてしまう脳を呪いたいが、この二作品のフーガの偶然を喜ぶべきなのかもしれない。
「クリスマス」は、昆虫採集に夢中だった息子を亡くした父の話。(多分)ロシアの寒々しい冬が、息子が生きていた夏と対比されることでよりいっそう辛いものに感じられる。
注ではナボコフがこの短篇のことを「チェスで「セルフメイト」と呼ばれる型の問題と奇妙に似たところがある」と述べている。セルフメイトとは、僕もよくわからないのだが、どうやらチェス・プロブレム(詰将棋のようなもの?)の問題のうち、黒白の協力なしに詰める種類のものを指すようだ。セルフ=自分で、メイト=詰み、ということらしい。ちなみに黒白の協力込みだとヘルプメイトというらしい。
これが「クリスマス」という短篇とどう似ているのだろうか。読んでもよくわからなかった。若島正さんがどこかに書いているだろうか。
朝はnoteを書いていた。
書き終わると本の整理をした。
ばらばらに積み重ねられていた本を分類した。現象学や現代日本の小説、小林秀雄と山城むつみ、ボルヘス、マルクス主義、『ミドルマーチ』などの英国文学、サリンジャーやレイモンド・カーヴァ―、SF、クッツェー、カルヴィーノとオースターの三部作、クイーンや阿津川辰海さんのミステリ、ドゥルーズや児童文学についての本、世界史や日本史や歴史哲学、ベンヤミン、都甲幸治さんや柴田元幸さんや巽孝之さんのアメリカ本など。
『西洋美術の見かた』を読んだ。
小島信夫の『私の作家遍歴』を音読した。
鍋のふたのガラスの部分を割ってしまった。
夜は妻と辛口のハヤシライスを作った。
久しぶりにワインを飲んだ。すぐに酔ってしまった。
夜はピンチョンを読んでいた。すぐに寝てしまった。