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『ナボコフ全短篇』を読む日記2022.02.21 (34/68篇)

「忙しい男」「未踏の地」(ともに1931年)を読む。

己の魂の働きに気を配りすぎている人間は、ありふれていて、憂鬱ではあるが、かなり奇妙な現象に出会わざるをえなくなる。すなわち、つまらない記憶が、つつましい一生をひっそり終えようとしていた人里離れた養老院から、偶然の機会によって呼び戻され、ぱったりと死に絶えるのを目撃するのである。それはまばたきをして、まだ脈を打っているし、光も反射している――ところが次の瞬間には、すぐ目の前で、最後の息を引き取って哀れな爪先をそらせるのは、現在のぎらぎらする光の中へとあまりにも急に移行したことに耐えきれなくなったからだ。後に残ったもので好きなようにできるのは影だけで、追憶の簡略版にすぎず、残念ながら、オリジナルが持っていた魅惑的な説得力など消え失せている。(「忙しい男」若島正 訳)

このような魅力的な主題の提示からはじまる「忙しい男」は、グラフィツキイという十歳から十五歳のあいだに見た三十三歳での死を予言する夢に悩まされている。彼は三十二歳で、夏に三十三歳になって、ありとあらゆる死の予感に怯えて一年を暮らすことになる。

僕はこの話の筋書きというよりは、先の引用がいいなと思った。もう一度読み返している。やっぱりいい。

少し前、妻と幸せな子ども時代について語り合ったことがある。僕は記憶力に乏しいほうだが、それでも断片的な記憶はあった。たとえばそれは、川遊びで掬ったオタマジャクシであったり、河川敷での花火大会で売られていた光ブレスレットの落とし物であったり、祖父の家でした『ファイナルファンタジー10』であったりした。

不幸なことももちろんあったのだが、幸せな記憶も多くある。そうした子供時代の経験、原風景が自らを形作るなんてことは言いつくされているけれど、自らの身においてそれを再確認する行為というのはやはり新鮮なことで、他人の話を聞くのとは違ったものになる。

そうした幸せな子ども時代を語ってはいたのだが、同時に少し物足りなさも感じていた。あの時の興奮や光の捉え方、音の聞こえ方、物語の受け取り方は、今の僕にはもう不可能なことだ。ということを考えていたから、冒頭の引用に深く頷くことになったのだろう。

ナボコフは「つまらない記憶」と言っているけれども、幸せな記憶もきっと同じで、たしかに僕が今語れる、イメージできる記憶は、あくまでも簡略版でしかない。少し寂しい。

「未踏の地」は、私、グレグソン、クックといった登場人物が、未踏の野生林で植物や昆虫の調査を行う話。

※以下ネタバレを含みます。




私とグレグソンは、クックにそそのかされた(のかもしれない)助っ人の現地人の人夫にテントやら食料品やら採集品やらを盗まれる。クックは原住民に置いてかれて、二人のところに帰ってくる。クックは帰ろうと言い出すが、二人は沼地へ探索に行く。私は幻覚を見せる熱病(?)にかかっていて、葦の茂みが見える岩地で休むことになる。グレグソンとクックは争い、同士討ちになる。最後の力を振り絞って私はノートに記録しようとしていたが、力尽きてしまう。

おかしい。私が死んだとしたら、誰がこの物語を書いたのだろうか。

ということで、これは世にいう「信頼できない語り手」であって、過去に読んだなかでは、「バッハマン」がそうだった。ナボコフなんていかにも信頼できなそうな語り手が好きそうだが、意外と読んだなかではまだ二作品目かもしれない(佐藤亜紀さんの『小説のストラテジー』によれば、後に書かれる「フィアルタの春」がそうらしい(論の主眼はそこに向けられていないようだけど))。

未踏の地での採集の憧れは、前回読んだ「オーレリアン」でもあったが、そこでは実際に行くことは叶わなかった。この作品では行けることは行けるが、その場で死ぬ。散々である。

ル=グウィンの『文体の舵をとれ』を読んでいる。これは『ゲド戦記』の作者として高名なル=グウィンが開いたワークショップを書籍化したものだ。そこでは〈練習問題〉が各章にあって、戯れに一問やってみた。そもそもこの日記をはじめた理由の一つに、自分自身の文体を見つけたかったというのがあったので、文体に注力したこの講義はきっと力になってくれるだろう。

第一章では、文体の響きやリズムの重要性が語られて、知ってる作家や知らない作家の文章が引用されて、声に出して読みあげていたら、次のような問題が出た。

〈練習問題①〉文はうきうきと
問一:一段落~一ページで、声に出して読むための語りの文を書いてみよう。その際、オノマトペ、頭韻、繰り返し表現、リズムの効果、造語や自作の名称、方言など、ひびきとして効果があるものは何でも好きに使っていい――ただし脚韻や韻律は使用不可。
(アーシュラ・K・ル=グウィン/大久保ゆう 訳『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』・フィルムアート社・2021年)

素人の身のひと踊りと思って書いてみることにした。内容は気にせず、リズムがいいなと思う言葉をひねりだし、キーボードを叩いた。

街は明るさを取り戻していた。その小さな取るに足らない明るさは、やがて歩き、駆け足になり、走り出し、飛ぶように駆ける。それと同時に、暗闇に隠されていたひびや傾き、吸い殻やなにかの紙、割れたアスファルト、薄汚れたシャッターなどが明らかになる。光はあまりにも速く、暴力的なまでに街の醜いところを暴いていった。それは闇が街を覆うのとは対照的だった。闇は遅い。光の暴力性に耐えながら、じっくりじんわりと闇は傷を隠していく。チョコレートのように世界をコーティングして、あまい夢に誘う。あまりにも単純な光と闇の二項対立から君が導き出したのは、あまりにも単純な結論だった。僕は歩き出した。夢も闇もない街を。かかとを鳴らした。打ち鳴らした。スキップした。走り出した。光よりもずっと遅く、闇よりももっと遅い。足を関節がきりきりというまで伸ばす。遠く。もっと遠く。筋肉が切れる。骨が軋む。指がつる。望むことのできない速さの代りに、精いっぱい伸ばした足。それは負ける。勝負に破れる。足首をひねって僕は倒れ込んだ。泣きだす。君を思って泣きだす。鳥が鳴く。ざわめきが光ほどの速度を出せずに走っていった。アパートに帰りついて、氷を出した。足首にあてがい、目の上に手を置く。今は何も考えなくてもいいだろう。

読み返してみると本当に内容が御粗末なのだが、声に出したらリズムは悪くないんじゃないかと、、、思いたい。恥を忍んで妻に見せたら、妻はすごく褒めてくれた。その後、妻も書いてくれて、それは僕よりもずっとよいものだった。二人して嬉しくなった。


『ナボコフ全短篇』も気づけばもう半分まで来ていた(34/68)。体感としてはすごく早い。けれどナボコフについては全くわかる気がしない。最初の方は忘れてきている。「翼の一撃」の茶褐色の天使だけが忘れられない。
数少ない読んでくださる方、反応をくださる方に感謝申し上げます。

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